公開審議の朝
港の広場には、まだ朝靄が残っていた。
審議所の前には長い机が並べられ、町の人々が集まっていた。水番、農家、工房の職人、市場の店主。誰もが不安そうな顔をしている。それでも、以前のように黙ってはいなかった。
壁には、審議の議題が大きく貼り出されている。
大商会による水利権の取得と水路改造の適法性。
リセはその文字を見上げ、手の中の資料を確かめた。改ざんされる前にミナたちが写し取った監査帳。商会の発注書。分水門の管理契約。住民の証言を日付と場所ごとに整理した一覧。
紙の束は厚かった。
けれど、厚さだけで真実になるわけではない。ひとつひとつの言葉を、誰かが読み、問い、確かめなければならない。
「緊張しているか」
隣でノアが言った。
「しています」
「そうは見えない」
「見えないようにしています」
ノアはわずかに口元を緩めた。彼の腕には、水路の測量図が抱えられている。昨夜まで現地を歩いて確認した数値が、赤い線と数字で記されていた。
「測定結果に、問題は?」
「問題だらけだ。だから出す」
審議所の扉が開いた。
中央の席には町の評議員たちが座り、両側に商会側と町側の証人席が用意されていた。アルベルト・グランデは、濃紺の外套を着て、何事もないような顔で入ってきた。その後ろには代理人と、以前リセを詐欺師と呼んだ男がいる。
彼らの視線がリセに向いた。
だが、リセは目をそらさなかった。
審議が始まり、まず商会側の説明が行われた。
「水利権の取得は、町の同意に基づく合法的な取引でした。水路の改造も、渇水に備えた必要な工事です。商会は町を救おうとしたのであり、不正な利益を得た事実はありません」
代理人の声はよく通った。
評議員の一人が尋ねる。
「では、なぜ町の水番には改造の通知がなかったのですか」
「緊急工事だったためです」
「工事の発注日は、渇水が始まる三か月前になっていますが」
代理人は一瞬、言葉を止めた。
「準備段階の発注です」
リセは資料を開いた。
「その説明には、三つの矛盾があります」
評議員の許可を得て、彼女は立ち上がった。
「第一に、商会の管理契約では、分水門を変更する場合、町の水番二名と評議会の承認が必要です。しかし、提出された承認書には、分水門の番号が記されていません。別の水門についての承認書を流用しています」
ざわめきが広がった。
「第二に、契約書では水利権の譲渡は一時的な貸与と書かれています。ところが、商会の決裁簿では永久取得として処理されています。二つの文書は同時には成立しません」
アルベルトが手を上げた。
「書類上の表現の違いにすぎない。実際の意図は一つだ」
「意図ではなく、町が何に同意したかが問題です」
リセは三枚目の紙を掲げた。
「第三に、町が水利権を売ったとされる契約には、対価を受け取った記録がありません。商会の帳簿には支払い済みとあるのに、町の金庫には入金がない。どちらかが偽りです」
代理人が立ち上がった。
「この娘の能力は、紙に触れて曖昧な違和感を語るだけだ。そんなものを証拠にするのか」
リセは静かに首を振った。
「私の力だけでは、証拠になりません」
彼女は住民たちを振り返った。
「だから、皆さんの証言と、実際の記録を並べています。私は書かれた言葉の矛盾を見抜けます。でも、その言葉がいつ書かれ、誰に使われ、何を変えたのかを確かめたのは、ここにいる人たちです」
水番の老人が立ち上がった。
「わしは、改造工事の通知を受けておらん。水門の鍵も、工事の後で商会の倉庫に移された」
農家の女が続けた。
「貸与なら返すと言われた。でも、返還を求めたら、もう商会のものだと言われたわ」
市場の店主は、干上がった水路の写真を示した。
「水が減ったのは偶然じゃない。商会の倉庫へ向かう枝水路だけ、いつも満たされていた」
その言葉を受け、ノアが測量図を広げた。
「水路の実測値を報告する」
彼は立ち上がり、淡々と説明を始めた。
分水門の上流と下流。商会の倉庫へ向かう枝水路。町の農地へ流れる本流。その流量を同じ時間帯に測った結果、枝水路には本流の三分の一にあたる水が継続して流れていた。
「自然な漏水では説明できない。門の内部に設置された板が、流れを意図的に分けている。板の固定具は、監査帳に記された工事日と一致した」
ノアは測量図の端を指した。
「さらに、町の水路へ戻るはずの排水口が塞がれている。工事を指示できたのは、契約上、商会の発注責任者だけだ」
評議員たちが資料を回し読みする。
アルベルトは、初めて表情を崩した。
「その測定は、監督官個人の判断にすぎない。ノアは以前の事故の責任を負った人物だ。彼の報告に信頼性はない」
「だから、私の測定記録だけではなく、町の水番の記録も提出する」
ノアは別の束を出した。
「事故前から、同じ地点の流量が不自然に変化している。俺の報告が間違っていたとしても、日付の違う記録すべてを否定することはできない」
審議所が静まり返った。
しばらくして、議長が宣言した。
「提出された契約、決裁簿、監査帳の写し、証言および現地測定を総合する。大商会が町の承認を得ず水路を改造し、譲渡条件を偽って水利権を取得した事実を認定する」
誰かが息を呑んだ。
「当該水利権は町へ返還する。分水門は町の管理に戻し、改造部分は撤去する。商会には工事費および不当に得た水の使用利益について、町への返還を命じる」
次の瞬間、広場の外から歓声が上がった。
リセはすぐには動けなかった。胸の奥に張りつめていたものが、音もなくほどけていく。
すべてが元に戻るわけではない。失われた作物も、取り戻せない日々もある。家の借金も、まだ帳面の上に残っている。
それでも、町の水は誰か一人の所有物ではなくなった。
ノアが隣に立つ。
「終わったな」
「いいえ」
リセは審議の記録を見つめた。
「ここから、返してもらう仕事が始まります」
「そうだな」
二人は審議所を出た。
朝靄の向こうで、干上がった運河が光っている。まだ水は戻っていない。だが、水門を開く鍵は、もう商会の倉庫にはない。
リセは資料を抱え直した。
自分の声で、ここまで来た。
これから先も、自分で選び、自分で約束を結ぶ。
その最初の一歩を踏み出すように、ノアと並んで、運河へ向かった。




