買収の申し出
審議の三日前の朝、工房の戸を叩いたのは、見慣れない黒塗りの馬車だった。
御者が名乗った商会の印を見て、ミナは眉をひそめた。
「大商会の使いです。リセさんに面会を」
「お断りします」
リセが答えるより先に、ミナが言った。
「用件だけ聞いてください」
御者は薄い封筒を差し出した。
「当主が、直接お話ししたいと」
封蝋には、二重の輪が押されていた。昨夜、決裁簿で見た印と同じだった。
リセは封筒を受け取った。紙に触れた瞬間、書かれていない条件の影が指先を走る。表向きの招待状には、ただ「今後について穏便に相談したい」とあるだけだった。
だが、その言葉の周囲には、いくつもの矛盾が絡んでいた。
穏便に、というなら、なぜ場所が商会の私邸なのか。相談というなら、なぜ返答の期限が今日の日没なのか。そして、封筒の内側に重ねられた別紙には、町の債務帳に関する番号が記されている。
リセの家の借金に結びついた番号だった。
「行きます」
ミナが振り返った。
「行く必要はありません」
「行かなければ、相手が何を知っているのか分かりません」
「ノアさんに知らせましょう」
「知らせます。でも、私一人で行くべきです」
ミナは不安そうに唇を結んだ。
「それは危険では?」
「危険です。だから、戻る時刻を決めて、戻らなければ町の審議準備会に伝えてください」
彼女は紙の端を切り取り、時刻と行き先を書いた。
「これは私の意思で行く記録です。誰かに連れていかれたことにされないように」
商会の私邸は、港を見下ろす丘の上にあった。かつてリセが帳簿を抱えて何度も通った場所だ。門番は彼女を見ると、驚きもせずに中へ通した。
応接室で待っていたのは、白髪の男だった。
大商会の当主、アルベルト・グランデ。リセは書類の上でしか知らなかった顔を、初めて正面から見た。
「久しぶりだね、リセ」
「以前、直接お目にかかったことはありません」
「そうだったかな」
当主は柔らかく笑った。
「君の父親の借金について、話をしよう。あれは長く残っている。君が商会を辞めた後も、返済の記録は消えていない」
「承知しています」
「審議で君が証言すれば、商会は大きな損害を受ける。君にも、町にもよいことではない」
「不正が認定されることが、町に悪いと?」
「世の中は、正しいだけでは動かない」
当主は机の上に一枚の契約書を置いた。
「借金を免除しよう」
紙には、リセの家の債務全額と利息を放棄する、と記されていた。さらに、彼女が港町で続けている契約整理の仕事に、商会から定期的な依頼を出すともある。
文字だけを読めば、申し分のない申し出だった。
リセは契約書に指を置いた。
書かれている条件は明快だ。債務は免除する。報酬は支払う。審議における証言については、何も書かれていない。
だからこそ、矛盾があった。
「この契約では、私が審議で何を話すか定められていません」
「話さなくてもよい、と言っているのだよ」
「なら、なぜ書かないのですか」
当主の笑みが消えた。
「君は契約を読むのが得意だそうだね。しかし、書かれていないものまで疑うのは、商売ではない」
「書かれていないからこそ、口約束で縛ろうとしているのだと思います」
「言葉が過ぎる」
「この申し出を受ける代わりに、私は証言を取り下げる。その条件が存在するなら、契約書に書いてください」
リセは契約書の余白を指した。
「ここに、審議で発言しないこと。水利権の返還を求めないこと。商会の発注と決裁について、見聞きした内容を公表しないこと。少なくとも三つの条件があります」
「君の想像だ」
「想像なら、なぜ返答期限が今日なのですか。なぜ当主ご自身が、私の家の借金を持ち出したのですか」
当主は椅子の背にもたれた。
「君の家を救えるのは、私だけだ」
その言葉に、昔の記憶が重なった。借金の書類を前に立ち尽くした父。責任を押しつけられ、何も言えなかった自分。誰かが差し出す手を拒めば、すべてを失うと思っていた日々。
けれど今、目の前に置かれた手は、彼女を引き上げるためではない。声を奪うために差し出されている。
「いいえ」
リセは契約書を押し戻した。
「私の家を救うのは、あなたではありません。借金が正しいなら、正しい手続きで整理します。正しくない部分があるなら、記録を示して争います」
「家族のために、すべてを捨てる覚悟はないのかね」
「家族のためだからこそ、捨てません」
当主の目が細くなった。
「町の人々が君を守るとでも?」
「守ってもらうつもりはありません。私は、自分で証言します」
リセは立ち上がった。
「この申し出は受けません。借金の免除と引き換えに、真実を隠すことも拒みます」
扉へ向かうと、背後から低い声が飛んだ。
「後悔するぞ」
リセは振り返らなかった。
「後悔するかどうかは、私が決めます」
外へ出ると、丘の下から海風が吹き上げてきた。指先にはまだ契約書の冷たい感触が残っている。
門を出たところで、石垣の陰にノアが立っていた。
「来ていたのですか」
「待っていた」
「盗み聞きは?」
「しない。お前が一人で出てくるか、誰かに連れ出されるかを見ていた」
リセは少し笑った。
「私は戻りました」
「ああ」
「借金免除の申し出を断りました」
「分かっている」
「どうして?」
「顔を見れば分かる」
ノアは彼女の手元を見た。
「怖かったか」
「怖かったです」
「それでも断った」
「怖いまま、断りました」
ノアは頷いた。慰めることも、代わりに怒ることもしなかった。ただ、隣に並んだ。
「審議で話すことが増えました」
「俺も測定結果を出す」
「では、同じ場で」
「ああ。同じ場で」
二人は丘を下りた。港の向こうでは、干上がった水路が夕陽を細く返している。
リセの家の借金は、まだ消えていない。商会の圧力も、明日の審議への不安も残っていた。それでも彼女は、買われなかった。
借金の帳面には金額が記されている。だが、人の声に値段をつける欄はない。
その欄を作らせないために、リセは自分の足で、町の人々が待つ工房へ戻っていった。




