↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
契約の余白を読む娘は、港町で水路監督官と明日を結ぶ  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/20

別々の未来

 証言集の配布が始まってから三日目の夕方、工房の窓辺に、薄い青色の紙が一枚置かれていた。


 リセは封を切らずに、紙の表と裏を眺めた。差出人の名はない。けれど、紙の質は王都で使われる公文書用のものだった。港町の工房で手に入る紙よりも滑らかで、端がきれいに揃っている。


「商会からですか」


 ノアが戸口に立った。


「分かりません。封蝋はありませんし、触れても文字は浮かばない」


 リセは紙を持ち上げた。彼女の力は、記された言葉の矛盾を読むものだ。書かれていないことを見つける力ではない。だから、封筒のない紙から送り主の意図を読み取ることはできなかった。


 表には、短い文が一行だけ書かれていた。


 審議後の職務について、監督官ノアへ確認したい。


「私宛てではありませんね」


「そうだな」


 ノアは紙を受け取り、内容を読んだ。


「返事をするのですか」


「審議が終わるまで、町を離れるつもりはないと伝える」


 その言葉に、リセは筆を持つ手を止めた。


「終わったら、離れるつもりなのですか」


 ノアはすぐには答えなかった。窓の外では、夕方の水番が運河沿いを歩いている。水位を測る棒が、乾いた底の石に触れるたび、かすかな音を立てていた。


「可能性はある」


「王都へ戻るのですか」


「王都とは限らない」


 ノアは紙を机に置いた。


「監督官の職は、事故の責任を問われた時点で事実上失われている。審議で記録が認められれば、復職を求める声は出るかもしれない。だが、同じ役所に戻る気はない」


「では、どこへ?」


「まだ決めていない」


 ノアが自分の将来について、これほど長く話すのを、リセは初めて聞いた。彼はいつも水路の状態や書類の不備については簡潔に答えたが、自分が何を望むのかは語らなかった。


「町を離れるかもしれない」


 ノアは続けた。


「ここに残れば、俺はいつまでも事故の監督官として見られる。役所も商会も、別の名をつけて利用しようとするだろう。水路の調査を続けるなら、町の外へ出たほうがいい。複数の土地の管理を比べ、同じような不正がないか調べたい」


「旅をするのですか」


「ああ」


「一人で?」


「たぶん」


 リセは机の上の証言集へ目を落とした。紙の束には、彼女が集めた言葉がある。パン屋の主人の太い字、水番の少年の震える筆跡、農家のミラが何度も書き直した日付。これらは、誰かに連れていかれるための荷物ではない。ここに残り、読み、確かめ、必要な人へ渡すための仕事だった。


「私は、一緒には行けません」


 言葉にしてから、胸の奥が少し痛んだ。


 ノアは黙って彼女を見た。失望したのか、驚いたのか、表情からは分からない。


「行かないのか」


「行きません」


 リセは指先で紙の角を押さえた。


「行きたくないわけではありません。あなたが知らない土地で、水路の記録を調べるところを見てみたいと思う。でも、私はこの町で始めた仕事を途中で置いていきたくない」


「仕事なら、別の場所でもできる」


「できます。でも、ここには私を待っている人がいる」


 工房には、商会の書類を整理してほしいという依頼がすでに四つ届いていた。魚売りの組合が新しい仕入れ契約を確認してほしいと言い、農家からは共同の水路使用規則を作りたいと頼まれている。まだ看板もない小さな仕事だが、リセが自分で選び、自分の名前で受け取った仕事だった。


「私は、契約を読むだけの人になりたいわけではありません」


 彼女は言った。


「誰かが自分の言葉を失わないように、記録を整える仕事を続けたい。商会に雇われて、書かれたものだけを信じるのではなく、書かれなかった事情も聞ける場所を作りたい」


「この町で?」


「はい。審議が終わったら、町の公認契約所を作れないか、工房の人たちと相談するつもりです」


 ノアは少し目を伏せた。


「大きな話だな」


「できるかどうかは、まだ分かりません」


「分からないのに、決めたのか」


「分からないから、自分で決めるのです」


 その答えに、ノアの口元がわずかに緩んだ。


「リセらしい」


「それは褒めているのですか」


「たぶん」


 二人の間に、短い沈黙が落ちた。以前なら、その沈黙を不安に感じただろう。けれど今は、互いが違う道を考えていることを、急いで同じ形にしなくてもよい気がした。


「あなたが行くなら、私は止めません」


 リセは言った。


「あなたが残るなら、私は歓迎します。でも、私の仕事を理由に残る必要はありません」


「分かっている」


「私も、あなたについていかないことを、あなたへの拒絶にしたくありません」


「それも分かっている」


 ノアは窓の外を見た。空の端が赤く染まり、乾いた運河の石が夕日を受けていた。


「別々の未来になるかもしれないな」


「そうかもしれません」


 リセは頷いた。


「でも、それは別々の道を歩くというだけで、どちらかが間違いだということではありません」


 ノアはしばらく考え、それから青い紙を折りたたんだ。


「審議が終わるまでは、ここにいる」


「その後は?」


「その後は、考える」


「あなたにしては曖昧ですね」


「記録にできないこともある」


 思いがけない言葉に、リセは笑った。


 その夜、二人は工房の前の運河沿いを歩いた。水はまだ底に細く残るだけだったが、上流の工事が進めば、数日のうちに流れが変わる見込みだという。


 町の灯りが一つずつ点いていく。


 同じ明かりの下にいても、未来の形は同じではない。リセはそれを怖いと思った。それでも、自分の決めた仕事を手放すつもりはなかった。


 ノアもまた、遠くを見る目をしていた。


「明日から、証言の確認をもう一度する」


 彼が言った。


「私は契約記録を照合します」


「別々に?」


「別々に進めても、同じ場所へ戻れます」


 ノアは頷いた。


「では、戻る場所を決めておこう」


「どこにしますか」


「この工房の前だ」


 リセは彼を見上げた。


「仕事の集合場所として?」


「それでいい」


 少し間を置き、ノアは続けた。


「それ以外の意味を決めるのは、審議の後でいい」


 リセは返事の代わりに、運河の向こうを見た。乾いた底に、夕日が細い水路のように伸びている。


 明日になれば、二人はまた別々の記録を追う。


 それでも今夜だけは、同じ場所からそれぞれの未来を見つめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。