別々の未来
証言集の配布が始まってから三日目の夕方、工房の窓辺に、薄い青色の紙が一枚置かれていた。
リセは封を切らずに、紙の表と裏を眺めた。差出人の名はない。けれど、紙の質は王都で使われる公文書用のものだった。港町の工房で手に入る紙よりも滑らかで、端がきれいに揃っている。
「商会からですか」
ノアが戸口に立った。
「分かりません。封蝋はありませんし、触れても文字は浮かばない」
リセは紙を持ち上げた。彼女の力は、記された言葉の矛盾を読むものだ。書かれていないことを見つける力ではない。だから、封筒のない紙から送り主の意図を読み取ることはできなかった。
表には、短い文が一行だけ書かれていた。
審議後の職務について、監督官ノアへ確認したい。
「私宛てではありませんね」
「そうだな」
ノアは紙を受け取り、内容を読んだ。
「返事をするのですか」
「審議が終わるまで、町を離れるつもりはないと伝える」
その言葉に、リセは筆を持つ手を止めた。
「終わったら、離れるつもりなのですか」
ノアはすぐには答えなかった。窓の外では、夕方の水番が運河沿いを歩いている。水位を測る棒が、乾いた底の石に触れるたび、かすかな音を立てていた。
「可能性はある」
「王都へ戻るのですか」
「王都とは限らない」
ノアは紙を机に置いた。
「監督官の職は、事故の責任を問われた時点で事実上失われている。審議で記録が認められれば、復職を求める声は出るかもしれない。だが、同じ役所に戻る気はない」
「では、どこへ?」
「まだ決めていない」
ノアが自分の将来について、これほど長く話すのを、リセは初めて聞いた。彼はいつも水路の状態や書類の不備については簡潔に答えたが、自分が何を望むのかは語らなかった。
「町を離れるかもしれない」
ノアは続けた。
「ここに残れば、俺はいつまでも事故の監督官として見られる。役所も商会も、別の名をつけて利用しようとするだろう。水路の調査を続けるなら、町の外へ出たほうがいい。複数の土地の管理を比べ、同じような不正がないか調べたい」
「旅をするのですか」
「ああ」
「一人で?」
「たぶん」
リセは机の上の証言集へ目を落とした。紙の束には、彼女が集めた言葉がある。パン屋の主人の太い字、水番の少年の震える筆跡、農家のミラが何度も書き直した日付。これらは、誰かに連れていかれるための荷物ではない。ここに残り、読み、確かめ、必要な人へ渡すための仕事だった。
「私は、一緒には行けません」
言葉にしてから、胸の奥が少し痛んだ。
ノアは黙って彼女を見た。失望したのか、驚いたのか、表情からは分からない。
「行かないのか」
「行きません」
リセは指先で紙の角を押さえた。
「行きたくないわけではありません。あなたが知らない土地で、水路の記録を調べるところを見てみたいと思う。でも、私はこの町で始めた仕事を途中で置いていきたくない」
「仕事なら、別の場所でもできる」
「できます。でも、ここには私を待っている人がいる」
工房には、商会の書類を整理してほしいという依頼がすでに四つ届いていた。魚売りの組合が新しい仕入れ契約を確認してほしいと言い、農家からは共同の水路使用規則を作りたいと頼まれている。まだ看板もない小さな仕事だが、リセが自分で選び、自分の名前で受け取った仕事だった。
「私は、契約を読むだけの人になりたいわけではありません」
彼女は言った。
「誰かが自分の言葉を失わないように、記録を整える仕事を続けたい。商会に雇われて、書かれたものだけを信じるのではなく、書かれなかった事情も聞ける場所を作りたい」
「この町で?」
「はい。審議が終わったら、町の公認契約所を作れないか、工房の人たちと相談するつもりです」
ノアは少し目を伏せた。
「大きな話だな」
「できるかどうかは、まだ分かりません」
「分からないのに、決めたのか」
「分からないから、自分で決めるのです」
その答えに、ノアの口元がわずかに緩んだ。
「リセらしい」
「それは褒めているのですか」
「たぶん」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。以前なら、その沈黙を不安に感じただろう。けれど今は、互いが違う道を考えていることを、急いで同じ形にしなくてもよい気がした。
「あなたが行くなら、私は止めません」
リセは言った。
「あなたが残るなら、私は歓迎します。でも、私の仕事を理由に残る必要はありません」
「分かっている」
「私も、あなたについていかないことを、あなたへの拒絶にしたくありません」
「それも分かっている」
ノアは窓の外を見た。空の端が赤く染まり、乾いた運河の石が夕日を受けていた。
「別々の未来になるかもしれないな」
「そうかもしれません」
リセは頷いた。
「でも、それは別々の道を歩くというだけで、どちらかが間違いだということではありません」
ノアはしばらく考え、それから青い紙を折りたたんだ。
「審議が終わるまでは、ここにいる」
「その後は?」
「その後は、考える」
「あなたにしては曖昧ですね」
「記録にできないこともある」
思いがけない言葉に、リセは笑った。
その夜、二人は工房の前の運河沿いを歩いた。水はまだ底に細く残るだけだったが、上流の工事が進めば、数日のうちに流れが変わる見込みだという。
町の灯りが一つずつ点いていく。
同じ明かりの下にいても、未来の形は同じではない。リセはそれを怖いと思った。それでも、自分の決めた仕事を手放すつもりはなかった。
ノアもまた、遠くを見る目をしていた。
「明日から、証言の確認をもう一度する」
彼が言った。
「私は契約記録を照合します」
「別々に?」
「別々に進めても、同じ場所へ戻れます」
ノアは頷いた。
「では、戻る場所を決めておこう」
「どこにしますか」
「この工房の前だ」
リセは彼を見上げた。
「仕事の集合場所として?」
「それでいい」
少し間を置き、ノアは続けた。
「それ以外の意味を決めるのは、審議の後でいい」
リセは返事の代わりに、運河の向こうを見た。乾いた底に、夕日が細い水路のように伸びている。
明日になれば、二人はまた別々の記録を追う。
それでも今夜だけは、同じ場所からそれぞれの未来を見つめていた。




