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忘れられない記憶

神田久弘のことは知っていた。

6年前、彰人を妊娠してお腹が大きくなってきた時に仕事で人事部に行っていた時のこと。ある女性管理者に目をつけられてしまったのだ。

捲し立てるように

「お腹が大きい人が来るなんて、気を使えって言われてるみたいで気分悪いわ」

「妊婦様だかなんだか知らないけど、私は絶対にそんなわがまま許す気はないからね。仕事は仕事で休んだら他の人に迷惑が行くんだから。」

目に涙を浮かべながら作業をして、悔しさのあまり人事部の仕事を終え、廊下で泣いていたらある人が追ってきて、声をかけてきた。

「大丈夫?ごめんなさい、うちの上司が。」

覗き込むように視線を合わせてきて、両手で肩を包み込まれた。

「あの人、ママさんたちに厳しいの。あなたにだけじゃなくみんなにキツくて…それでも妊婦さんなのに、あんな言われ方して辛かったね。」

知らない人にそんなに優しくフォローされて、しかも自分の上司のことでこんな他部署の人間を気遣ってくれたことが初めてで、あずさは動揺した。少し年上に見える、綺麗な人だった。あずさがなんと言おうか考えていると、その人が話し始めた。

「私、神田といいます。神田歩美。人事部で時短で働いてるの。よろしくね、これよかったら食べて。そして本当にあの人のことはごめんね」

あずさの手に何かを渡してパタパタと人事部に戻っていった。あずさの手にはいちごミルクの飴が一粒残っていた。それからあずさは神田歩美のことを忘れたことはなかった。あんなふうに優しくされたことがなかったしあの時咄嗟のこととはいえお礼の一言も言えなかったことが悔やまれた。あんなふうに自分も後輩を支えたいと思ったし、歩美の優しさに憧れた。歩美の夫が同じ社内の人間だと知ったのはその話を真由にした時だった。

「たしかママさんになってから歩美さんが異動したってきいたけど、そうか人事部にいたんだね。」真由は懐かしそうに言う、どうやら真由よりも年上のようだ。

「すごく美人で素敵な人でした。憧れるな〜どんな人と結婚してるんだろう。」

あずさが尋ねる。

「あれ、確か旦那さん社内にいるよ?たしか営業部にいるんじゃなかったっけ。結構変わってるのに成績はいいとか言って、いじられてた気がする。」

歩美の夫がどんな人なのかはただの好奇心だった。営業部に行った時神田という人物はいないかを探した。なかなか機会がなく会えなかったのが残念だった。その後あずさは再び人事部へ行くことになった。今日かはお礼を言おうとそっとお菓子を忍ばせて人事部に向かうとなんと、神田歩美が退職していたことを知った。とてもショックだった。

 やるせなく、風磨に話すと、

「あずさがそこまで落ち込まんでも。あずさからしたら大きなイベントになったかもしれないけれどあったからしたらぜったい大したことじゃないから。」

思ったよりあっけらかんとしていて落ち込んだ。気持ちを分かり合えず、寂しかったがどうしようもなかった。そうこうしているうちに彰人の産休、育休に入り、彰人が1歳の時に職場に復帰した。時短勤務としてだった。仕事の量は大して変わらず、今まで以上に効率を求められるバタバタの中でやはり人事部の例の女性管理者は意地悪だった。突然の休暇や勤務調整にも明らかな嫌味を言われたが、あずさは自分が思ったより精神が強かったことに驚いていた。というより母になって強くなったのかな、などと考えていたが。ある日人事部に休暇の申請に行った時のことだった。彰人の健診で平日に休まねばならなかったが彰人の体調不良ですでに何日か休んでしまっていた。女性管理者は明らかに怒り、あずさに詰め寄った。

「ねぇ、旦那さんは何してるの?あなただって正社員で働いているわけだからあなたばかり休んでもらっても困るのだけど。それに、すでに何日か休んでるよね?他の人の迷惑になると思わない?計画的に休めるならその時はせめて実家に頼るとか、できないわけ?私はそうやってきたけど。」

「あ…えっと…」

モゴモゴとなんて話そうか考えながら、この人に話しても伝わらないだろうなと言う諦めもあった。ただ、休暇はもらわねばならない。なんて説明しようか。そう考えている時に後ろから声が聞こえた。

「いい加減にしてもらえますか、それ。」

振り向くと中年の男性が気だるそうに部屋に入ってきた。

「うちの部署の休み希望表です。あんたがいると若い奴らの希望とおんないから、うちの部署はまとめて俺が持ってきますよ。いいですね。それから…」

ちらりとあずさを見る。

「俺の分の処理、結構多いからはやくこの子の処理してもらっていいですか。文句ばっか垂れてないで。」

顔を真っ赤にした女性管理者はあずさの書類を受け取り、小声で震えながら言った。

「あなたの部署にちゃんと伝えておくから、とりあえず戻りなさい。」

怒りに震えてるのだと気付いたあずさはすぐに退室したがその時の男性職員に声をかける余裕はなかった。


数日後、石田主任から呼ばれた。

「小林さん、人事から休暇の申請通ったって連絡きたよ。後うちの同期から、気まずい空気にしてごめん、だって。なんかあったの?」

「え?同期…?同期ってもしかして私の後ろにいた人かな…」

「そうなのかな、あいつなんも言わんから、ただ人事部の管理者とバッチバチなのよ。嫁がその管理者とうまくいかなくて退職したって噂。」

「え!人事で退職したって神田さん?ですか?」

「そうそう!神田久弘ね!旦那の方俺の同期なの!もうすぐあいつもどこかに出向するとか言ってたな。営業部だから忙しいんだろうな。」

「神田…久弘さん…」

神田歩美の顔を思い浮かべた。あんなに優しい素敵な人の旦那さんはどんな人なのだろうと想像していたが、あの時のセリフを思い出す。

「若い奴らの希望とおんないから、うちの部署はまとめて俺が…」

そうか、あんな感じだけど自分の部下を守ってるんだ。そして、私のことも。

なんて、なんて素敵な夫婦なんだろう。歩美さんもとても優しく素敵な人だった。旦那さんの神田久弘さんも頼もしく素敵な人だった。

あずさはその2人のことを考え幸せな気持ちになっていた。

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