35歳 小林あずさ、今日も多忙です
どうしてこんなに毎日慌ただしいんだろう。
そう思わない日はない。
あずさはそっとため息をつき、そんなことを考え職場であるオフィスから出た。更衣室で着替えて、ビルを出る。ふと振り返りビルを見上げた。十数年前、入職できたときは、人生の勝ち組になれたと思った。
大企業と呼ばれる浜部ライフ株式会社に入社した。大企業ということもあり福利厚生も整ってる。育休産休、その後の時短制度まで整っている。不満はない、不満はないはずなのに…。あずさはどこかぽっかり空いたような胸を抑えた。なぜだろう、この寂しい感じは。
「わ!やばいやばい!」
あずさは車に乗り込んで発進させた。車内のBGMはひと昔流行った懐メロソングだ。鼻歌を歌いながら保育園へ滑り込む。
「先生すいません今日もありがとうございます!」
「いえいえ、彰人くん!ママきたよ〜!」
こちらで笑顔で走ってくる彰人を抱きしめる。
「ただいま〜!まま頑張ったよ!彰人もお疲れ様!さぁ、環奈のお迎え行こう!」
「環奈〜お迎えきたよ〜!!」
「ママー!!あきくん!!」
笑顔で駆け寄ってくる環奈を彰人と受け止め抱きしめる。
「さぁ!パパもうすぐ帰ってくるから、帰ってご飯にしようか!」
車内に2人を乗せながら帰宅していかに楽しいかを伝える。母親とは疲れていられない。子どもたちが大切だから仕事をすると決めたのは自分なのだから。子どもたちに寂しい思いは必ずさせないとあずさは決めていたのだ。車内のBGMはNHKの教育番組で流れる歌に変わっていた。息をつく間もなく帰宅し、子どもたち2人の手を洗い食事の支度を始める。と言ってもあずさは出勤前に作っていくのでレンジで温めるだけである。
「はい!2人のご飯できたよ!今日は親子丼です〜!」
彰人と環奈は「やったー!」と喜びながら食べ始める。そのままあずさは隣に座って、スプーンでかき込み始めた。
「ただいま〜」
「あ!パパ!」
彰人と環奈が玄関へ駆け出す。
そこには笑顔の風磨がいた。
「ただいま彰人環奈〜!寂しかったぞ〜」
2人を抱き抱え、こちらにやってくる。
「わ!親子丼!あずさの親子丼美味しいんだよな。あずさ、今日もお疲れ様。」
「うん、風磨くんもおつかれさま。ありがとう。先ご飯いただいてるね。ふうくんも食べる?」
「うん、もらおうかな。あ!でも俺自分の分やるからいいよ食べてな。とりあえず手を洗ってくるから、2人ともママの言うこと聞いて待っててな〜」
彰人も環奈も、父である風磨のことが大好きだ。そして、私も。私も、大好きだ。
4人で食卓を囲みお風呂に順番に入り、バタバタと寝室で子どもたちの絵本を順番に読み寝かしつけをする。風磨が子どもたちを見ていてくれるのであずさは夕食の片付けを終えることができ、一緒に眠ることができるのだ。
結婚して、6年。結婚してすぐに発覚した妊娠。そして出産した彰人は5歳になった。幸せだった。彰人が1歳になって仕事に復帰して、その半年後に次の妊娠、第二子の環奈を出産した。今度は保育園に入ることができず長く家庭に残ることになり、あずさは何度も不満を訴えた。自宅で2歳差の兄妹を見ることはいかに大変かを風磨に訴え続けた。風磨は仕事を頑張ってくれている上に家庭のことにもとても協力的だった。あずさが楽しい時間を過ごせるよう子どもたちを見ているからと自由な時間もくれた。しかし…
あずさは自分が求めているのはそういうことではないことに気づいてしまった。
夫婦としてのふれあいがめっきり減った夫の顔を眺めながら、あずさは思った。いまは多忙な毎日をこなす戦友だな、と。おそらくそれは風磨も同じだろう。寂しいが今はこの戦友を頼るしかないのだ。あずさは初めて出会った日を思い出す。
友達がナンパされたイベンター、とかいういかにも胡散臭い職業を名乗る男主催のパーティーがあるから女の子を集めてほしいと言われたらしくそれに誘われた。あずさの短大時代の友人は派手だったがあずさ自身は派手だったわけではない。そもそも会場には車で行ってお酒も飲むつもりもなかった。そんな胡散臭いパーティーで、あずさがお手洗いから戻ろうとしたついでにバーカウンターで飲み物を頼もうとしたとき、声をかけてきたのが風磨だった。風磨は最初の勢いだけ軟派だったが、その後は誠実だった。話していて会話も楽しかったし、ひとを貶すことをしないことにも好感が持てた。あずさと住んでいた場所が近いこともありすぐに打ち解けた。結婚するならこの人だと、なぜかすぐ確信した。そしてその出会いから5年がたちあずさは川村から小林へ苗字が変わったのである。風磨のことは大好きだったし、今でも大好き。優しく本当にあずさのことを大切に思ってくれているし、なにより子どもたちのこともとても可愛がってくれている。週に一度、4人で出かけるときは風磨も率先して動いてくれるしほんとうに、本当に私は幸せだと思う。なのに…
どうして、こんなに毎日寂しいのか。
「セックスレスってことですか?」
次の日の昼休憩中、佐伯美咲のあけすけとした言い方に辟易しながらあずさは答えた
「結局、それもあるかもしれないけど…したいと思ってるのかどうかわかんない。ただ、チュッチュしてた新婚ではないよね。子どももいるしさ。環奈が赤ちゃんの頃なんて添い乳して寝て帰ってきた風磨にいろいろおっ広げた姿見られてるけどなんもされなかったよ。引いてるよあっちも」
美咲は一つ年下だが、歳の近い子どもがおり、近い時期に産休・育休を経て復帰したため産後のワーママ友達とも言える存在だった。あけすけとした失礼な言動もあるが美咲と話すことはあずさは好きだった。
「まぁもうどっちが襲ってるかもわからんくなるよねむしろこっちがビビられてたりして。母親って恥じらいもなくすのかと思ったわ、恥じらってる暇もないと言うかさ。」藤井真由も口を挟んでくる。真由の下の子と彰人が同い年だったため先輩ママさんとして、仲良くしていた。美咲とあずさと真由が総務部での時短勤務の3人組だ。帰宅が一緒になることも多い。この3人と話すランチはあずさは好きだった。しかし、主任である石田健太郎が耳を塞ぎながら悲鳴を上げた。
「君たち、勘弁してくれないか。そこに変に突っ込むとセクハラとか言われるし、だからと言って流すにはもったいない面白い話だし、もうちょっと上品な会話をしてもらいたいもんだけどね。」
あずさたち3人は笑いながら言った。
「奥様の本心だと思って聞いてたほうがいいかもしれませんよ主任」
あずさが言う
「うちは仲良くやってるよ、それに小林さんのところは家事育児に積極的でもなんか寂しいって旦那さん、さぞかし切なくなる話だぞ。」
石田が答えた。そのタイミングで社内電話がなった。石田が取る。
「もしもし総務部…なんだお前かよ、どうした。なんだよそんな話かよ。それならこっちに言っておいてよ、主任同士よろしくな。まぁお前はもともと赴任先でなってたって聞いたぞ…まぁな、俺は予定あるから部下が行くよ、よろしく。」
電話を切って、石田があずさを見る。
「小林さん、休憩上がったら、営業部に行ってきてくれる?コピー機調子悪いらしくて資料印刷できないって主任がイラついてた。」
真由が言った。
「あれ、あそこの主任って石田主任さんの同期でしたっけ?」
「そうそう、同期入社のやつだよ、相変わらずボソボソ話すから聞こえにくいけどさ。まぁもともと営業向きではなかったんだけど、単身赴任だったかな?赴任先から帰ってきて管理職。頑張ってるよなぁ」
あずさは言った。
「わかりました、じゃあ行ってきますね、主任さんの名前ってなんで言うんですか?」
石田が答える
「神田だよ、神田久弘。」
その瞬間、あずさの胸が跳ねた。




