表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
76/76

見覚えのある名前

 ヴェステラ発の共栄連合構想は、いまや現実となりつつあった。

 公開株式制度の導入、新興企業の台頭、そして学院と直結した人材育成。

 若き経営者たちは民間投資家の信頼を集め、都市の顔ぶれさえ変え始めている。


 国は、変わり始めていた。──だが、すべてが順風ではない。


 制度が整えば、入り込む者もいる。

 開かれた都市の“懐”に、何かが潜むこともある。


──公都の加賀谷の執務室にて

 午後の陽光が、静かに差し込んでいた。

 加賀谷の執務室。主の不在中、ノアはいつものように机を整えていた。


 淡々とした日課。だが今日は、胸の奥が少しだけざわついていた。


 きっかけは、一枚の紙だった。

 数週間前にも見た――〈学院講義用・出席予定者名簿〉。

 加賀谷が出張授業に行く前、机に広げていたものの控えだ。


 その中にあった、ひとつの名前。


 ──ユリス・アーヴェル。


 最初に見たときは、ただ引っかかりを覚えただけだった。

 でも今は違う。記憶の奥底に、ぼんやりと閉じ込めていた映像が浮かんでくる。


 逃げた夜。

 暗い廊下。誰かが無言で手を引いてくれた。扉の鍵が、音もなく外れた。

 助けてくれたその人は、たった一言も発さなかった。でも、たしかにあの夜、確かに存在していた。


 ──あれがユリス、だったのかもしれない。


 名簿を閉じる手が、ほんの少し震えた。


 


* * *


 


「……で、報告ってのは?」


 戻ってきた加賀谷に、ノアは湯を淹れて手渡しながら、小さく告げた。


「……あの名簿にあった、“ユリス・アーヴェル”。もう一度見たの」


「帝国の属州出身だったよな。講義のとき、提出物が妙に良くてさ。発言は控えめだったけど、資料の作り込み方が完全に実務寄りだった」


 加賀谷は湯をひと口啜りながら、穏やかに話す。が、ノアの表情は曇っていた。


「……スパイかもしれない」


 加賀谷が湯呑を持ち上げかけた手を止める。


「……理由は?」


 ノアはしばらく黙っていた。

 けれど、やがてゆっくりと口を開く。声は静かで、どこか乾いていた。


「……わたし、帝国にいたの。

 スラムの孤児で、魔導適性があるって理由で、研究施設に連れて行かれて……。

 “役に立つなら、生かしてやる”って、それだけの場所。

 人の心を読め、顔色を盗め、弱点を覚えろ――それが教育。

 だからわたし、誰かの命令を聞くのは……得意。ずっと、そう育てられてきたから」


 加賀谷は湯をそっと机に置いた。その動作は慎重だった。


 ノアは続ける。声に感情はなかったが、言葉のひとつひとつは真っ直ぐだった。


「……逃げられたのは偶然。あの夜、誰かが手を引いてくれたの。

 顔も覚えてない。覚えてたら、たぶん殺されてた。

 でも、その人の背中は今でも覚えてる。……たぶん、ユリスって人だったんだと思う」


 加賀谷はしばらく黙っていた。

 静かな空気の中で、ノアは初めて自分から、自分の“出自”を語った。


 そして――


「……そうか」


 加賀谷の声は、静かだった。けれど、そこに含まれる重みは、ノアの胸に深く届いた。


「ずっと……そんな環境で、生きてきたんだな」


 ノアは、かすかにうなずいた。


 加賀谷は手の中で湯呑を回しながら、ぽつりと続けた。


「それでも今、お前はここにいる。命令じゃなく、自分の意思で動いて、考えて、俺に伝えてくれた。それがすごいよ」


「……べつに」


「いや、すごいんだよ。

 過去がどうだろうと、今を選んで動いてる。

 それができるやつは、そう多くない」


 ノアはほんの少しだけ、息を吐いた。


「話戻るけど、ユリスが本人だって確証はない。……ただの同姓同名かもしれない。

 でも……もしスパイだったら、ここに潜り込むために、わたしを逃がした可能性もある。だから……警戒は、しておくべきだと思った」


 ノアの声は落ち着いていた。だが、その目はわずかに揺れていた。


 加賀谷はしばらく黙って考え、そして――ふっと笑った。


「スパイでも、優秀な若者なら、話してみたい」


 ノアが驚いたように顔を上げる。


「仮に刺客だったとしても、講義の場に来て、あんな資料を出すなら──少なくとも“話が通じるやつ”だろ」


「……カガヤは怖くないの?」

「怖くないわけないよ。でもな、たとえ危険でも“知る価値がある”人間なら、俺は向き合う。

 それに――お前を逃がしてくれたのが本当にそいつなら、感謝もしてる。

 お前が今ここにいるのは、そいつが命かけてくれたかもしれないってことだろ?」


 ノアは、ほんの一瞬だけ言葉を失った。


 何かを否定しようとしたわけでもなく、ただ――心のどこかに溜まっていたものが、少し溶けていくような気がした。


「……じゃあ、どうするの?」


「本人に会う。まずはそれからだ。

 今の立場がどうであれ、“過去”と“今”を並べて見れば、答えは出る」


「……わたしも、行く」


 そう口にしてから、ノアはふと、窓の向こうに目を向けた。

 柔らかな日差しの先に見える学院──

 あの場所に、“あの人”がいるかもしれない。


 敵かもしれない。でも、恩人だったかもしれない。

 あの手に導かれた記憶は、今でもぼんやりと胸に残っている。


 ノアは胸の内でそっと呟いた。

(……確かめたい。あの人が、何者だったのか)


 机越しに、加賀谷が静かに頷いた。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ