第1話 兄ユハル・イスファ
前代未聞の話である。王太子の兄ユハル・イスファが、平民宰相ジェイルの下で働くと言い出したのだ。
妹である私アリシャ・イスファはあの晩餐会以来、気が気でならない。剣才に恵まれない哀れな兄。だから、文官の道に逃げ出したのかと思ってしまった。
剣で他の王族・国民に遅れを取る様な彼ではなかった。けれど、御前試合の決勝はいつも私が彼を叩きのめして終わり。本当に頭に来たものだった。
それは、ある麗かな春の日の午後のこと。
政務室のドアの隙間から、かすかな声が漏れて来た。
確かに、盗み聞きは良くない。だがいずれ政策は王族の決裁を受ける。どうせアララタ河の祭礼か何かだろう。
軽い気持ちで足を止めた。
「ユハル王子。なぜあの剣をアリシャ様に使わないのです? いくら家族とて御前試合で、手加減は厳禁の筈ですぞ」
宰相ジェイルが、自分より二周りも若い兄を詰問していた。
ユハルは質素な机と椅子と法典しかない狭い執務室で静かに答える。
「搦め手を使い、相手を追い詰めるのは邪道。厳粛な御前試合に相応しくない。妹相手なら尚更、卑怯な剣は不要です。ジェイル様。それよりも例の治水事業を粛々と進めましょう。このままでは本当に田畠が駄目になってしまいます」
兄が、ユハルが、私には決して見せた事のない顔をしていた。
慈しみが人間の表情に縁どられたあの笑顔がそこにはなかった。
――剣さえ強ければ立派な男性。自慢の兄なのに!
何度、私がそう思った事か。
何故なら、ユハルは神話の剣士「初代イスファ」に瓜二つなのだから。
私だけではない。自ずと周囲が期待してしまう。身勝手な事は百も承知だ。
そう思っていた。
けれども、あの晩餐会でユハルはあっさりと言い切ったのだ。
「俺はジェイル様の下で文官の道を選ぶよ」と。
私は頭を金槌で殴られた。
そんな気がした。
――なんで簡単に剣を捨てられるの!
だって「イスファ」は剣士の国。
王族は皆、血眼になって最強の剣士たらんことを望む。
王家を支配するこの渇望。
それなのに、兄ユハルは未練などないかのように「剣」を捨て「文」を選んだ。
――その割り切り方は、衝撃以外の何物でもなかった。




