第8話「arcanum(秘密)」
「板東です。失礼します」
本部長室、と書かれた黒いプレートは捜査一課長になってから何度も見ている。しかし今日のように突然一方的に呼びつけられて見るのは初めてだ。
ドアを開けると、玉井本部長が背の高い観葉植物に両側をはさまれて、仏頂面でデスクに座っていた。唇の分厚い、小太りの中年男だ。入ってきた私をジロリとにらみ、あごをしゃくってイスを指し示す。
「いいから座れ」
「はい」
静かに座る。管理者としては特段有能でも無能でもない男だが、根回しの才能だけは長けていて、そのおかげか大した実績もないのに県警本部長のイスに四年前から座っている。ここらのポストになると警察官というよりは官僚、政治家としての能力がより重要視されるものだ。
私は……私は、どちらだ。政治家になりたいのか。現場にしがみつきたいのか。
「本部長。私は今、先ほど下川町で起きた老女殺害事件の捜査会議を遅らせてここに座っています。手短にお願いします」
「相変わらずせっかちだな。君らしいが」
「恐れ入ります」
時間のムダだ。さっさと用件を言え。
「なら単刀直入に言う。九十九署にいた時田が関わった最後の事件だ。お前、パスワード入れてアクセスしただろう」
「ええ、部下を使ってですが。それが?」
県警本部に戻ってきた私に、鑑識の安藤がプリントアウトした資料を渡しながら言った。時田が関わった最後の事件だけ、詳細が見られないと。
ありえない。県警の捜査一課長の権限でも見られないファイルなど、あってはならない。私への侮辱だ。しかし少々過敏ではないか?パスワードを入れた途端、その主を直接本部長室に呼び出すなど。
「なぜ時田を調べた?」
すごむでもなく、とぼけるでもなく、日常会話と同じ口調。ここで乗せられて口を滑らせてはいけない。
「佐野巡査部長殺害事件の捜査の一環です。彼は交友関係の範囲がせまい人間でしたので、九十九署で同時期に働いていた人間をしらみつぶしに当たっていました」
嘘ではない。ただ偶然、しらみつぶしの一件目に時田を選んだだけ、という建前だ。
「フン。まあ、そういうことにしておく」
「事実です」
「板東、これだけ言っておくぞ。時田の例の事件は、現状見られるファイルの範囲で終わりだ。それ以上は掘っても何も無い」
「掘っても何も無いところに、わざわざ鍵をかけたんですか?」
言って、私は一つの可能性に思い当たる。
「本部長。ファイルに鍵をかけたのは、内容を隠すためじゃない。今私にしているように、見ようとした人間を特定して釘を刺す。これ自体が目的ですね?」
それなら、安藤が言っていた「パスワードを入れた途端、画面が点滅したようになった」という話の納得がいく。パス入力画面自体が情報を取り出すフィッシングサイトのような仕組みになっていたのだ。だがどうして、そこまで。
「今言ったことが全てだ。何も答えんぞ」
「お答えいただけないのなら、仕方ありません。納得いくまで幼女殺害事件を調べ直すまでです」
「おい、ちょっと待て!」
顔をしかめて、本部長はうるさそうに手を振った。
「お前は何か勘違いしている。この件には、組織ぐるみの大きな不正とか、隠ぺい工作とか、そんなものは何もない」
「ではなぜ」
本部長は大きなため息をつき、引き出しから紙のファイルケースを取り出した。
「まったく、お前はつくづく現場の人間だ。そんなことじゃ出世しないぞ」
「ご心配なく。上がりたければ自力で上がって見せます」
私はファイルを受け取り、パラパラと開く。
「これが時田の最後の事件、ですか」
「見ての通りだ」
公園で遊んでいた幼女が締め殺され、すぐに栗野という60代の男が逮捕された。捕まえたのは時田と灰川。この事件は記憶にある。当時は他県にいたから報道程度の知識だが、幼女を殺すという残忍さに怒りを覚えた。しかし、解決したのが時田と灰川か。
実際ファイルの内容もほぼそれだけだ。容疑者の栗野は最初の事情聴取であっさりと自供し、裏付け捜査も裁判も円滑に行われた。気になるところと言えば、被告が定年退職後、妻に病気で先立たれていたという記述。弁護側はそれを理由に一時的な精神錯乱状態だったと主張した。それが一部認められたのかどうかははっきりと書かれていないが、子供を殺したにしては刑が軽い気もする。
私は無言で最後のページをめくる。
「これは……」
本部長の顔を見上げる。
「この最後の部分、私は初見です」
「はっきりと事件にはならなかったからな。だがそれが、時田が辞めることになった直接の理由だ」
「このことを、灰川は知っているのですか?」
「私は知らん。本人に聞け。あ、あとその書類はすぐにシュレッダーにかけるから、見終わったら返せ」
「わかりました。失礼します」
「何だ、もういいのか」
私は書類をデスクに置き、振り向いてドアへ向かう。
「板東」
「はい」
足を止め、半身で振り返る。本部長は言った。
「灰川が詳細を知ってるかはわからんが、九十九の署長は知っているはずだぞ」
九十九署の会議室に板東課長が入ってきた。いつも通りの無表情だけど、いつも以上に大股でいらだっているように見える。クールな人が珍しい。
前に座っている闇無さんの顔も暗い。帰ってきた時話しかけたけど、力なく笑っただけだった。
「灰川さん」
私は後方に座っている灰川さんの真後ろへとこっそり移動して、小声で呼んだ。今日は体調不良で休んだはずなのに、なぜか事件の第一発見者になっている。まったく、一人で何をコソコソやっていたのか。
私服姿が見られたから私は得したけど。
「何だ、安藤もいたのか」
彼は一瞬驚き、イスを少し下げて耳を寄せてきた。わ、近い。
「か、鑑識の私がいる場所じゃないんですけど、どうしても灰川さんにお伝えしたくて」
「うん、何?」
「私、時田さんについて調べました」
灰川さんは「そうか」とだけ答えた。そして、
「板東課長に指示された仕事なんだろ?気にするな。それより俺の方こそ、昨日は怒鳴ってごめん」
と小さく頭を下げた。
「い、いえ、そんな」
私は思わず手をブンブン振った。
「その、やっぱり、ショック……ですよね。尊敬してた先輩が、容疑者かもしれないなんて」
「……うん。でもさ、佐野さんは友人の少ない人だった。だから元同僚のセンは最初から考えるべきだったんだ。俺はそこをわざと避けていたのかもしれない」
「そんな」
「悪かったな、変に気をつかわせて。もっと早く、俺から言ってればよかった。時田さんのこと」
私が口を開きかけた時、会議が始まった。
時田さんの最後の事件。詳細が見られなかったって、言っておきたかったのに。灰川さんは、そのことを知ってるの?
私はそんなことをぼんやりと考えながら、会議が進行していくのを一番後ろの席で遠くに聞いていた。ふと前を見る。
並んでいるのは、闇無さん、板東捜査一課長、九十九署の刑事課長、そして……。
「ん?」
いなきゃいけないはずの、九十九署長がいない。
会議も終わり際になり、板東課長が言った。
「九十九署長は、体調不良により本日から長期休暇を取った。よって、今後は私が県警捜査一課と九十九署を取りまとめて指示をする」
体調不良?こんな時に。絶対ウソだ!でも、何で?
「もう一人の被害者、加東一は現在市立病院で治療を受けている。意識を失って草むらに放置されていたが、命に別状はない」
加東って確か、佐野さんの奥さんを浮気調査してた探偵だ。何で今回の下川町の事件の被害者に?しかも生きてるし。私がPCでコツコツ調べものしてる間に何があったんだ!
「灰川」
板東課長が灰川さんを呼んだ。呼ばれるままに灰川さんが課長の元へ行き、こちらを向いて座りなおした。
「我々はこれから、五年前に退職した時田春哉元警部補を最重要参考人として調査していく。その前に、五年前まで相棒だった灰川巡査部長に時田の人となりを話してもらう」
会議室がざわつきだす。私も驚いた。まだ何の物証も無いのに、性急だ。確かに鑑識に血を吸った蚊が証拠として届けられたけど、DNAが出るまでは早くても二日ほど時間がかかる。しかも結果が出たところで、
何と比較すればいい?時田さんの髪の毛とか血があれば比較できるけど、そんなものがどこにあるというのか。
しばらくしてやっと会議室が静かになり、灰川さんがゆっくりと口を開いた。
「時田さんの性格は……その、細かくて、完璧主義です。気になったことはきっちり調べないと気が済まないし、人のこともよく見てる人でした。こちらが言葉に出さずに、心で思ってるだけのこともなぜか分かってて、先回りしてフォローしてくれたり。仕事には厳しい人でしたけど、そういうところに人情味がありました」
「それはいい。捜査官としては?」
捜査課の刑事の一人が口をはさんだ。人となりの話なんだから、黙って聞いてなさいよ!
「捜査官としては、やり方が独特でした。証言や証拠を集めて仮説を組み立てることはほとんどしません」
「じゃ、どうやって」
それは私も知りたい。
「イメージするんです。完全に、犯人になり切ったつもりで。自分が犯人ならどうか。この状況でどう思うか。どう行動するか。時田さんはプロファイリングだって言ってましたけど、ほぼ自己流で、全く別物だったと思います」
「しかし検挙率はかなり高かった」
今度は板東課長が受ける。
「ええ、そうです。その推測が外れたことはほとんどありませんでした。特に、自転車盗難とか万引きとか、犯人がはっきり特定しにくいケースをかなり挙げてたと思います。ただ、そこでやり過ぎてトラブったりもしてましたが」
それ、ファイルで見た。
課長が続けて聞く。
「過剰な正義感、というやつか」
「いや、そこまでではなかったと思います。ただ、自分なりの正義で動くところが結構あって、それで署長と揉めることもありました」
少しだけ間が空いた。課長が再び口を開いたとき、その口調は低く鋭く変わっていた。
「では、最後の事件について、知っていることを話せ」
最後の事件。課長のパスでも開けなかったファイルだ!私は静かに前方の席に移動することにした。
「栗野という男が幼女を殺害した事件だ。時田と君が逮捕したのだろう」
灰川さんはしばらく考えた様子で黙り、やがて口を開いた。
「もしも時田さんがおかしくなったんだとしたら、間違いなくこの事件が原因です。犯人の栗野は、近くの自動車部品工場に勤めていた会社員でした。でも定年退職してからすぐに奥さんを病気で亡くして、それから公園で一日中過ごすようになっていたんです。おとなしくて、怒ったところなんて見たことない温和な人間で、実際犯行前に話した時もそんな印象でした」
「犯行前に話したって、どういうことですか?」
闇無さんが前のめりになって聞いた。他の捜査官たちもいつの間にか灰川さんの周りに集まっている。
「公園で子供を遊ばせてる母親たちも、無害なおじさんだから特に気にしてなかった。でも時田さんは警戒してた」
「どうしてですか?」
「大事なものを失った人間は、その穴を埋めるために極端な行動を起こすことがあるって。だから一度、時田さんと二人で公園に話を聞きに行ったんです。この辺で怪しいヤツを見なかったとか口実作って」
「それで?」
闇無さんが課長を押しのけて灰川さんの真横に来ている。すごい子だ。
「特に変なところは無かった。情緒不安定でもなかったし。遊んでる子供を優しい顔で見てたのを覚えてる」
「そのときの、時田さんの意見は?」
「考えすぎだったかなって、言ってた」
「でも、その後」
「うん。その二日後、公園で遊んでいた六歳の女の子が殺された。時田さんと俺はすぐに栗野の家に行って、事情聴取した」
「認め……たんですか?」
「本当にあっさりとね。事件自体は犯人の自供で早めに解決したんだけど、時田さんはずっと荒れてた。原因は、栗野の動機で」
「どんな動機だ?」
課長が闇無さんをイスごと押しのけ、聞いた。
「栗野は……俺は殺したんじゃない。あの子を人生で一番いい時に天国の神様のところへ送ってあげたんだって言いました。自分は妻を、一番醜い姿でつらい思いをさせて死なせてしまったからって」
会議室が静まり返る。
無茶苦茶だ。狂ってる。吐き気がする。何なのその動機。六歳の女の子に何の関係が!?
灰川さんが続ける。
「それから、時田さんは考え込んだりふさぎこんだりすることが多くなって」
「警戒していた分、防げなかったことを余計に悔やんでいたんですね」
つぶやく闇無さんに、灰川さんは首を振った。
「悔やむなんてもんじゃない。ずっと自分を責めてた。深酒した時田さんをアパートまで送っていったのもこの時だ。それで、送っていく途中に時田さんが言ってたんだ。まともな世界にいて想像してるだけじゃ、本物の異常者の考えは見抜けないって」
「それって……」
闇無さんが口を押さえる。
灰川さんは課長に向き直り、言った。
「それから何があったのかは、俺にはわかりません。仕事も休みがちになって、そのうち全然出勤しなくなって、しばらくして人づてに辞めたらしいって聞きました。誰に聞いても知らないって言われて。時田さんとはそれっきりです」
誰も言葉を発しなかった。会議室全体が重苦しい。
「お別れも言えませんでした。尊敬してたのに。お世話になったのに……」
会議室を出た私と灰川さん、そして安藤さんは、課長に呼ばれてなぜか隣の第二会議室にやってきていた。捜査会議はさっき終わったはずなのに、何だろう。
こっちは早く加東さんの様子を見に行きたいというのに。
ちらりと灰川さんを盗み見る。決して楽しくはない過去を話した割には、暗くは見えない。自分だけが知ってたことを話せて、楽になったのかな。
「あの、課長。何で私たちだけここに?」
安藤さんが不安げに言った。課長は「座れ」とだけ言って、それには答えなかった。
私たち三人が座ると、その正面の席に板東課長が座る。そして緊張する私たちに言った。
「君たち三人を呼んだのは、今から話す内容が極秘だからだ」
「一課のみなさんには内緒なんですか?」
私が聞くと、課長はジロリと私を見据えた。こ、怖くないからね。
「時田の人となりを共有するには、さっきの情報で十分だ。私が今から話すのは、安藤がデータベースで時田を調べたとき、幼女殺害事件のファイルが見られなかった理由だ」
「その極秘の話に、何で俺たち三人が選ばれたんですか?」
灰川さんがもっともな疑問をぶつける。いいぞ、もっと言え。
課長は珍しくため息をついて言った。
「本来なら九十九署長にも同席してほしかったんだが、あの男は私が来る直前に休暇を取って逃げ出した。どういうつもりかは知らんが、自分が時田に狙われるとでも思い込んだんだろう」
「時田さんが署長を?何で」
「時田が警察を辞めた理由を知っているからだ」
私たちは三人で顔を見合わせた。まるで存在感の無い署長だったけど、そんなすごい情報を持っていたなんて。いや、情報を持ち逃げしたんだ!何て上司だ。
「灰川は知っての通り、時田の元相棒だ。安藤は時田について調べてくれたことに加え、鑑識に一人情報共有者を作りたかったのもある。闇無は……」
課長は私をちらりと見て言った。
「また勝手な行動をしないように、最新の情報を与えておいた方が良いと判断した」
何だその理由!犬にエサをやるんじゃないんだぞ!
私の魂の叫びを気にすることも無く、課長は言った。
「さきほど灰川が言った通り、時田は壁にぶつかった。異常犯罪者は常人の想像だけではとらえきれない部分があると。そして、ある行動に出た」
「ちょっと待ってください」
灰川さんがさえぎる。
「何だ」
「てことは、俺がさっき話した内容は、課長は知ってて聞いてたんですか?」
「大方はな。詳しい内容までは知らん」
「何かだまされた気分です」
「悪く取るな。君がどこまで知っているか、確認する必要があった」
「……わかりました。中断してすみません」
全く納得していない顔で、灰川さんが引き下がる。子供っぽいのか、大人なのか、わからない人だ。
「現状では力不足だと感じた時田は、ある共通点を持つ複数の人物に手紙を書いた」
「誰です?」
「死刑を待つ連続殺人犯だ」
「そっ……」
灰川さんが絶句する。
壁を破るために連続殺人犯へ手紙を出す?思考を探るため?いや、そうじゃない。
「友人のフリをして、面会するためですか?」
私は言った。課長がうなずく。
「その通りだ。時田は素性を隠し、短期間で殺人犯との面会を繰り返した。しかも、特に残忍な事件の犯人を選んで」
「異常犯罪者の思考を、直接会って自分の中に取り込もうとしたんですか?危険すぎます!」
FBIでも、今では危険すぎるという理由で異常犯との一対一の面談はめったに許可が出ない。危険だという理由は襲われるということではなく、人を魅了するサイコパスに心酔して、捜査官がおかしくなってしまうから。
「もちろん危険だ。そしてある出来事が起きた。表には出ていない」
「時田さんが、何をしたんですか?」
灰川さんが身を乗り出して聞いた。
「あらかじめ言っておくが、これは時田がやったというはっきりした証拠がない。そもそも殺人でもない」
「殺人?どういうことですか?」
何それ。
「幼女を殺した栗野は、刑が確定して服役してからすぐ、弁護士との面会中に心臓マヒで死んだ」
「死んでたんだ……」
「そこに事件性は無い。だが問題は、その弁護士だ。栗野の弁護士は、その日刑務所に行っていなかった」
「え、じゃあ」
「時田が弁護士のフリをして、栗野に会いに行ったんだ。そこで何か話した後、栗野が発作を起こして倒れた。その後、防犯カメラの映像で時田が弁護士に成りすましていたことが発覚し、同時に身分を隠して殺人犯との面会を繰り返していたこともバレて、そのまま退職させられた。これが時田が警察を辞めた理由であり、幼女殺害事件の詳細に鍵がかかっていた理由だ」
病院へ向かう車中。運転する灰川さんは何も話さなかった。表情は何も変わらない。多分灰川さんにとっては、今日は色んなことがありすぎた一日だ。こんな時、相棒として何て言えばいいんだろう。
「あ、あの、灰川さん?」
「ん?」
「アパートにいたとき、私の携帯にかかってきた電話。ほら、早く見つけろって犯人からかかってきた」
「おお、あれどうなった?」
「かけられたのは加東さんの携帯電話からで、発信元は現場近くの中継塔を使ってたみたいです。でもそこから位置がずっと動いてないので、電源が入ったままあの付近に捨てられてるたんだろうって、情報課の人が言ってました」
「そうか……」
再び沈黙。うん、もう無駄な抵抗はやめよう。灰川さんが何か話したくなったら、黙って聞けばいいのだ。それも相棒の役割なんだ、きっと。
「よう、闇無の姉ちゃん。何だ、兄ちゃんも一緒か。フルーツは?」
病室のベッドの上で、私立探偵の加東が手を上げた。病院の白いパジャマが似合わない。
「……元気そうですね」
「そりゃそうよ。医者が言うには、柔道の絞め技くらってオチたようなもんだってよ。検査の結果も良好で、病室が一杯だから明日の朝には退院してくれだってさ。まったく、ひどい世の中だぜ」
ひとしきりボヤくと、加東さんは灰川さんを見てニヤリと笑った。
「久しぶりだな、九十九署の灰川さんだっけか?今度は尾行に気づかれなかったぜ」
灰川さんが一瞬ムッとした顔になる。
「その代わり、今度は闇無に投げ飛ばされるよりもひどい目にあったじゃないか」
「はっ、そりゃ間違いねえ」
カラッと笑うと、加東さんは灰川さんを手招きした。
「何だよ」
「いいから、こう、俺の首に後ろから腕まわしてみてくれ」
「何でそんな」
「いいから」
ベッドの上で背中を向ける加東さんの首に、灰川さんがしぶしぶ腕を回す。
「こうか?」
「そうだ。それで、ちょっとだけ腕を食い込ませてくれ。ちょっとだぞ!本当はまだ痛いんだからな」
「注文が細かいな」
灰川さんが首にまわした腕を少しずつ絞めていく。しばらくして、加東さんが灰川さんの腕をパンパンと叩いた。
「も、もういい、もういい。わかった。兄ちゃんは俺を襲った犯人じゃねえよ」
「何ですか、それ。灰川さんを疑ってたんですか?」
私は聞いた。加東さんは首をさすりながら、
「まあ聞けよ。灰川の兄ちゃんの腕は俺を絞めた男とは太さが違う。細すぎる。その腕で絞められたんなら、もっと鋭く食い込んで気管がつぶれてたはずだ」
と言った。この探偵、殺されかけた当日なのに意外と冷静でふてぶてしい。
「そっか……俺、疑われても仕方ない状況だったんだな」
灰川さんがポツリとつぶやく。
「おばあさんが殺されてた部屋を見て通報して、俺は一度あの場を離れた」
「あ」
そういえば。板東課長は何も突っ込まなかったけど、もし何も手がかりが無かったら捜査の対象になっていてもおかしくない状況だ。
「わざわざ親切心で証明してくれたんですか?」
「そうじゃねえ。これは取引だ。俺は灰川の兄ちゃんが犯人じゃねえと、今の根拠で証言する」
「はい。それで?」
加東はニッコリと笑った。
「だからよ、闇無ちゃん。残りの成功報酬、よろしく頼むぜ」
やっぱり心配して損した!
今月の財政を心配しながら病室を出かけたとき、加東が私たちを呼び止めた。
「ああ、そうだ。待てよ、言い忘れてたことがある」
「まだお金請求する気ですか?」
「ちがうよ。後ろからヤツに絞められた時、ちょっと気づいたことがあってよ」
「何だ?」
灰川さんが聞いた。加東は宙を見つめ、言った。
「何だろうなあ、あの匂い。ヤツの口なのか体臭なのか、それはわからんかったけどさ、においがしたんだよ」
「どんな?」
「ちょっと待ってくれよ。えっと……そう、温泉!温泉地に行った時の硫黄みたいなにおいだ!」
つづく




