第7話「sanguis(血)」
午後三時過ぎ。
突然県警内があわただしくなった。そろそろ九十九署に帰ろうとしていた私は、通りかかった板東課長に呼び止められた。
「闇無。また例の殺しだ」
「え、え?ど、どこでですか?」
「下川町のアパートだ。老女が部屋で絞殺された」
「メッセージは?」
「内容は知らないが、また赤いスプレーだ。今から現場に行く。君も来い」
「課長自ら行くんですか?」
異例だ。
「今一課のメンバーは、寺町の犬の件と、佐野の交友関係の捜査に当たっている。人を選んでいる時間はない」
他に言い方はないのか。
「じゃあ、九十九からもう一人参加させてください。その人に車を出させますので」
後部座席に板東課長、助手席には私。そして運転席には、明らかに不機嫌な武石さんがハンドルを握っている。
「もー、乃衣ちゃーん。だいたい何で俺指名なんだよー」
どうも定時で帰る気マンマンだったみたいで、県警で私と課長を拾ってから、こうしてずっとグチグチ言っている。
「佐野さんを殺した犯人と同一犯かもしれないんですよ!?もうちょっとやる気出してくださいよ!」
「俺、別に佐野さんと仲良くなかったもん。あの人、いっつも俺にデブとか汗くさいとか言ってバカにしてきたし。そりゃ死んだのは気の毒だと思うけど、休日出勤や残業してまで仇を討とうとは思わんね」
「ほう」
後部座席から、板東課長の声がかかった。武石さんの背筋が一瞬伸びる。
「武石。つまり君は、自分の仲間が危険にさらされていても、相手のことが嫌いだったら見捨てるということか?」
「そ、そんなことは言ってませんよ!俺が言いたいのはですね、この世には色んな人間がいて、それぞれが自分のことを考えていて、それぞれに距離感が違うってことですよ」
「ふむ。一理あるな」
「課長!」
私は後部座席を振り返り、抗議した。
課長は続ける。
「では灰川はどうだ?あいつのことも嫌いか?」
「へ?いや、別に灰川は嫌いじゃないですよ。何度か休み代わってくれたこともありますし、俺のこともからかいませんし」
そうだ。灰川さんはそんな人じゃない。
「ならもう少しやる気を出せ。今向かっている現場で灰川が待っている」
「どうして灰川さんが?」
私は再び振り返って聞いた。
課長は答えた。
「第一発見者にして通報者が、灰川だからだ」
最寄りの路上に車を停めて、三人で歩く。五月なのに蒸し暑い。日本の警察も、もうちょっとラフな服装で仕事させてくれたらいいのに。
下川町は古い住宅やアパートが密集している地域。昔からそこにある一軒家、古いアパート。田んぼをつぶして作った月ぎめ駐車場やアパートも多い。とにかく遊んでいる土地が無い。
「あれ、ここ……」
武石さんが、黄色いテープで囲まれた現場アパートを見てつぶやいた。私はそれには構わず、灰川さんを探す。まったく、あのインケン課長。発見者が灰川さんなら、真っ先にそう言えばいいのに。もったいぶれば偉いってもんじゃないんだぞ!
「灰川さん!」
私は相棒の横顔を見つけて駆け寄った。黄色いテープの外側に立って、鑑識の作業を眺めている。今日は珍しく私服だけど、濃紺のシャツに黒いズボンと、色合いは普段のダークグレーのスーツの時と大して変わらない。ちょっと残念だ。
それに……何だろう、心ここにあらずって感じ。
「灰川さん……?」
「……闇無か」
私をちらりと見て、再び鑑識作業に向き直る。私は隣に立って視線を追った。
そのアパートは二階建てで。それぞれに三部屋ずつ並んでいる。アパートの奥の敷地には大量の植物が茂っており、金網の向こうには用水路が流れている。いかにも蚊が多そうだ、と私は顔をしかめた。
事件が起きたのは一階の真ん中、102号室。被害者は一人暮らしのおばあさんだ。まだ運びだされていない死体が、開け放たれた玄関からチラッと見えている。
その向こう側の壁にあるであろう赤いメッセージは、ここからは見えない。
私は横目で灰川さんを見た。
何で今日、ウソついて休んだんですか?
何で、ここにいたんですか?
ここで何してたんですか?
ここは一体、どういう場所なんですか?
……聞きたいことはたくさんあったのに、顔を見たら何も言えなくなってしまった。何て苦しそうな顔をするんだろう、この人は。
「闇無」
「は、はい」
灰川さんは言った。
「ここは、昔時田さんが住んでたアパートなんだ」
「え……」
灰川さんがぐるりとアパートを見回す。
「俺が来たのは一回きりだったけど。五年前、珍しく時田さんが大酒飲んだ日に、タクシーでここまで送ったんだ。正確な住所は覚えてなかったから、今日は記憶だけでここにきた」
「今も住んでいると思ったんですか?」
「まさか」
「じゃあここに来て……何をするつもりだったんですか?」
「それは……わからない」
言って、102号室を見据える。
「でも少なくとも、向こうは俺が来ることを予測していた」
「どうして、そう言えるんですか?」
「壁の文字だ。二種類あった。一つは『君は自由だ』。これはまだ意味がわからない。でももう一つは……」
「もう一つは?」
「『おそいぞ』って。一緒に組んでた時、俺が時田さんによく言われた言葉だ」
「……そうなんですか」
私は言った。
「でも、その、私から言ったことではありますけど、まだ時田さんを犯人だと示す物的証拠は何もありません。あの防犯ビデオに映っていた、手を握ったり開いたりするクセも、偶然だと言われたらそれまでです。犯人特定の証拠には弱いんです。そんな状況で、どうやって」
後ろから、冷徹な声が割り込んだ。
「闇無の言う通りだ」
「課長」
灰川さんがバツの悪い顔をする。
「すみません、あの、俺」
「説教は後でまとめてする。いいからお前は一度車に戻れ。本部に戻ったら、色々聞かせてもらうぞ」
「はい」
灰川さんはおとなしく車に向かった。
「まだかかるか?」
課長が鑑識の男性に聞く。男性はマスクをずらして振り返った。
「あ、もうすぐ終わります。お急ぎなら、靴をこのビニール袋で包んで静かに歩いていただければ、入っても結構ですよ」
「袋、四つ下さい!」
私は先に袋を受け取り、二つを課長に渡す。課長は軽く私をにらんだけど、特に何も言わずに袋を受け取った。
殺風景な部屋。タンスがや戸棚が開けられた形跡もない。茶色くなった畳にも土足で上がった跡は無い。
居間の中央に下がる黄ばんだ電灯の真下に、首にビニールのひもがかかったおばあさんが横たわっている。70は過ぎているだろうか。私のおばあちゃんは父方も母方も健在で、いつ会ってもかわいがってくれる優しい祖母たちだ。その分胸が痛むし、胃もムカムカする。犯人はどうしてこんな弱々しいおばあさんを。灰川さん、時田さんてそんな冷徹な人なの?
「これは」
課長のペンライトが壁を照らす。
『君は自由だ』
『おそいぞ』
「今回は二種類ですね」
「おそらく、上が今までと同じ犯行声明のようなものだ。下の『おそいぞ』はよくわからないが」
「灰川さんは、時田さんが自分によく言っていた言葉だと」
「時田か……」
課長はペンライトでせまい部屋を一通り照らし、スイッチを切った。
「ここの記録は鑑識に任せて、私たちは灰川を連れて帰るぞ。知ってることをあいつに全部しゃべってもらう」
「あの、課長。あまり手荒なことは」
「必要ならな」
「課長ーっ!」
外に出ると、鑑識課の人たちが片づけを始めているところだった。
「何か目ぼしいものは出たか?」
課長の問いに、責任者らしき男性は首を振った。
「厳しいですね。タンスや戸棚に触れた形跡はありませんし、指紋も皆無です。外に細かい繊維や土くれはありますが、はっきりとした足跡は取れませんでした。あの辺見てください。あちこちに、少量ですけど水をまいたような跡があるでしょう?」
「ああ」
「多分、足跡を消してるんだと思います。まるでこっちのやりたい仕事を先回りされているみたいでイヤな感じですよ」
その時、アパートの前にスポーツタイプの自転車が止まった。乗っているのは大学生らしき風貌の若い男だ。道沿いで制服警官と話している。住人?私は走りだした。何かカシャカシャ音がする。あ、ビニール袋履いたままだ。ああもう、めんどくさい。
「すいません!住人の方ですか?」
青年は私を見て、一瞬目を見開いた。ビニール袋履いてたのがそんなに異様だったかな。
「はい、101号室に住んでる者で、永松っていいます。何かあったんですか?」
言って、制服警官を見た。
「この人、全然教えてくれないんですよ」
「規則ですから」
制服の男性は表情を崩さない。
「ここは私に任せてください。今から聴取しますから」
「わかりました」
警官は一礼して立ち去った。永松青年は自転車を降りる。
「あなた刑事さんなんですか?へー、刑事にこんな可愛い人いるんですね。それで、何なんですか、これは。泥棒?」
可愛い。一瞬にやけそうになるほほを引き締める。仕事仕事。
「いえ、泥棒ではありません。その前にお聞きしたいんですが、今日は一日外出されてました?」
「ええ、朝から大学行ってましたけど」
「お隣のおばあさんとは、お知合いですか?」
「はい。しょっちゅうおかずとかお菓子持ってきてくれて。イトさんに、何かあったんですか?」
イトさんていうんだ、あのおばあさん。
「詳しい原因は言えませんが、亡くなられました」
「えっ!いつですか?病気?いや、病気じゃわざわざ警察は来ないな。まさか殺人?」
「すみません。規則でお答えできないんです」
「あ、ああ。そうですよね。すみません。でも、誰が……」
永松君は手を口に当てて、つぶやいた。
「おばあさんが、近隣の誰かともめていたことはありますか?」
「まさか。そんな場面は一度も」
「そうですか……」
部屋の様子からみて、金品を盗んだわけじゃない。だとしたら犯人は、純粋におばあさんを殺すためだけに来たっていうこと?
「あ、でも。いや、ちがうか」
「何ですか?」
永松君が何か言いかける。口ごもるというか、歯切れの悪い態度。
「何でもいいですから、気づいたことがあれば言ってください」
「うーん」
永松君は口元をポリポリかいて、口を開いた。
「ま、アリバイあるから大丈夫か。俺、近々ここから引っ越す予定だったんですよね。駅まで近いし、家賃も安くて気に入ってたんですけど」
アリバイあるからとか言い出した。まったく、最近の若者は。
「そんなにいい物件なのに、どうして?」
「その……イトさんが、ちょっと。親切な人ですし、色々くれるのは本当にありがたいんですけどね。ただちょっと……度が過ぎるというか」
「例えば?」
「俺、自炊が好きなんですよ。日曜にまとめて買い物して、作るおかず考えて、冷凍してってやってるんですけど。でもイトさんが、本当に気まぐれに大量のおかずを持ってくるんですよ」
「つまり……予定が狂うと?」
「それもあるますし、正直、味も口に合わなくて。ぶっちゃけ、まずかったです」
「はっきり言いますね」
私の言い方がきつかったせいか、永松君は気まずそうに後頭部をポリポリとかいた。
「俺、親が過干渉っていうか、何にでも口はさんで言いなりにさせようって人たちだったんで、そこから逃げたくて一人暮らし始めたってとこもあるんですよね。なのに結局、隣のおばあさんに同じようなことされて、正直こんなはずじゃないっていうか。でも、ありがた迷惑だからやめてくれって言って、そのままお隣さんとして暮らすのは……ねえ」
「なるほど」
確かに、彼の気持ちはわかる。他人が聞けば微笑ましいおせっかいも、当事者になって毎日だと結構つらいものがあるだろう。
「じゃあ、引っ越しは取りやめですか?」
聞くと、彼はぶんぶんと首を振った。
「引っ越しますよ!隣で人が死んだ部屋なんて余計に住みたくないですよ。家賃下げてくれたってイヤです!」
それから永松君は自分の部屋へ自転車を引いて行った。
奥さんが浮気していた佐野さん。受験生のいる住宅地に飼われていた犬たち。そして今回のおせっかいなおばあさん。そして。
『お礼はいいよ。がんばれ』
『君は自由だ』
現場にあった二つの落書き。一本の細い線が、頭の中でつなっがていく。物的証拠にはならない。でも、容疑者を絞り込んで重点的に追跡する根拠にはなるかもしれない。
時田春哉という、元刑事の足取りを。
捜査車両の後部座席に、灰川さんは座っていた。何をするでもなく、ただぼんやりと前の座席を眺めている。誰かが見張っていたわけでもないので、黙って消えてたらどうしようと一瞬思ったけど、そんな大胆な人じゃないな。
「終わりましたよ」
隣に乗り込みながら、極力明るく私は言った。殺人現場で明るくするのもどうかと思うけど、暗くしてれば犯人がつかまるわけでもないし。
「そうか」
灰川さんは前を向いたまま答える。私は続けた。
「昨日は、すみませんでした」
「何が?」
「その……根拠もなく、灰川さんの恩人が犯人だって、決めつけるように言って」
「闇無が謝ることじゃない。君が正しかった」
「まだ証拠はありません」
「残すようなヘマはしない人だ」
「一つ、聞かせてください。時田さんのこと」
「うん」
「時田さんて、優しい人でした?」
灰川さんが私の顔を見た。
「何だ、いきなり」
「大事なことです」
「よくわからんけど、優しかったよ。それが?」
「その優しさって、困った時に助けてくれるっていうより、心の中に抱えているものをまるで先回りしたように分かって、解決してくれる。そういうタイプの人じゃなかったですか?」
「そ……確かにそうだったけど、何でそこまで知ってるんだ?」
答えかけた時、私のスマホが鳴った。
「ちょっとすみません」
画面を見る。『カトちゃん』の表示。加東さんだ!
「もしもし」
車のドアを開けて、外に出る。
返事は無い。
「もしもし?もしもーし!」
「……早く」
「え?」
違う。加東さんの声じゃない。私はとっさに、空いた手で小刻みに車の窓を叩いた。
「どうした?」
灰川さんが反対側から降りてくる。
「もしもし?早く、何ですか?」
「……早く見つけてやれ」
「見つけるって、何を」
通話が切れた。
「誰からだ?」
「知り合いの情報屋から……ですけど、声が違う人で」
今の声、もしかして。
「犯人、かも」
「貸せ!」
回り込んできた灰川さんが私の手からスマホをひったくる。そして何度かリダイヤルを試みる。そのうち「ダメだ」と言って、灰川さんは首を振った。
「ん?おい、カトちゃんって誰だ?」
やばい。画面の名前表示に気づいてしまった。何となくごまかせる雰囲気じゃなくなった。
「えっと……探偵の、加東さんです」
「何で君が加東の連絡先を知ってるんだ!?」
「実は、その、昨日、個人的に仕事を依頼しまして」
「どんな依頼だ?」
灰川さんの目が厳しい。
「言っても、怒りませんか?」
「内容による」
「じゃあ言いません」
「わかった。怒らないから、さっさと言え」
「……時田春哉さんが、今どこに住んでいるのか探してくれって、頼みました」
灰川さんが大きく息を吸い込んだ。
「おまっ……何でそんな勝手なこと」
「怒らないでください!だって、灰川さんにとって大事な人みたいだったし、調べた結果、事件に無関係だったらそれはそれでいいと思って」
「だからって」
「何を騒いでいる」
鑑識と別れた課長が、私たちの車へやってきた。灰川さんは大きく息をはいて言った。
「加東って探偵覚えてますか?そいつの番号から闇無に着信があって」
「それで?」
「加東の声じゃなかったらしいんです」
二人が私に注目する。
「早く見つけてやれ、って言ってました」
「何だと……?」
課長の目がより険しくなった。
「それはつまり……犯人が、加東に何かしらの危害を加えて携帯を取り上げたということではないのか?」
「あ」
サッと血の気が引いていく。うかつだった。
「で、でも、昨日の今日ですぐに見つかるわけ」
「……俺だ」
灰川さんが言った。
「何か心当たりがあるのか?」
「今日俺、佐野さんが殺された現場から、あちこちずっと歩いてきたんです。もしも犯人が時田さんなら、足取りをなぞれば何か見えるんじゃないかって」
「途中で加東を見たのか?」
「いえ、見てはいません。でも、もし加東が同じ発想で佐野さんの現場に来て、俺を見てたら……」
「尾行、か」
「ありえます」
どうしよう。もし加東が灰川さんを尾行して、その結果どこかで犯人に襲われていたとしたら。
ん?待てよ。
「あの、犯人はここで加東さんを襲ったんじゃないでしょうか?」
「なぜそう言える?」
「犯人が加東さんを襲ったんだとしたら、危険な存在だとみなしたからですよね?でもこっそり灰川さんの後をつけているだけの状態で襲うのは、リスクが高すぎます。
加東さんの存在はイレギュラーですから、計画に無い行動です。証拠も残りやすくなる」
「なるほど」
課長がうなずく。
「あ」
灰川さんが思い出したようにつぶやいた。
「何ですか?」
「俺、最初は時田さんが住んでた203号室に行こうとしてたんだ。でも、階段のすきまから102号室が半開きになってるのが見えて、下に引き返した」
「それで……死体とメッセージを見たんですか?」
「ああ。それでその後、すぐに本部に通報して、しばらく近所を走ったんだ。まだ時田さんが近くにいるかもしれないと思って」
「無人の時間があったのか」
課長は言って、アパートを見た。
「灰川。近くを捜索した時、不審な車はあったか?」
「ありません」
「あのアパートの奥は何がある?」
「植物と、用水路です」
「加東はそこだ。車が近くに無かったのなら、短時間で遠くに捨てに行くことはできない。」
課長はアパートの方へ戻って行き、テキパキと指示を始める。帰りかけていた捜査員たちが一斉に散らばっていく。私たちもアパートへ走る。
「ごめんなさい」
走りながら、灰川さんにだけ聞こえる声で私は言った。
「もういいよ。今は加東を見つけることだけ考えよう」
「はい。あ、あと、安藤さんも怒られたの気にしてたみたいです」
「わかった。一言いっとく」
私たちは捜査に合流し、草むらに飛び込んだ。
「いましたー!」
数分後、鑑識班の一人が声を張り上げた。私と灰川さんも声のした方へ駆けつける。ああもう、何か所蚊に食われたんだろう。ムヒのプールにダイブしたい気分だ。
「加東さん……」
草むらに横たわる黒いジャージの男を見て、私は思わず口を押えた。
私のせいだ。
私のせいで、加東さんは。
「闇無、大丈夫だ。きっと生きてる」
「え?」
「もし死んでれば、発見が遅れた方が証拠が失われるんだから放っておけばいい。わざわざリスクを犯してまで連絡してきたのは、生きているうちに発見させたいからだ」
「その可能性は……なくもないですけど」
警官の一人がグッタリしている加東さんの首に指を置く。
「脈がある!生きてるぞ!おい、救急車呼べ!」
捜査員たちが一斉に動き出す。生きてた?本当に?思わず草むらにへたりこみそうになったけど、後で足がかゆくなるから我慢する。
「動くな!」
その時、灰川さんが大きな声で皆を制した。草むらが一瞬で静まり返り、水路のチョロチョロという水音だけが耳につく。
灰川さんはゆっくりと加東さんに近づいて、そっと指で何かをつかみ上げた。
「今ここで、蚊を叩いた人はいる?」
捜査員たちがゆっくりと首を振る。
「加東の体の上に、この血を吸った蚊がつぶれて落ちていた。もしも」
灰川さんが捜査員の一人から証拠袋を借りて、慎重に蚊の死骸を納めていく。そう、もしも。ひょっとしたら。私は思わず拳を握りしめた。
「この蚊をつぶした人間が犯人だったら、DNAが取れるかもしれない」
板東課長から、元刑事の時田春哉について調べろと言われて一時間。
私は二日連続で、情報課のすみっこでパソコン画面をにらんで引きこもっていた。鑑識課なのに。
時田春哉。高卒で九十九署に配属され、十五年勤務。三十四歳の時に退職して、最後の階級は警部補。退職が五年前だから、今は三十九歳か。
なぜか顔写真は無かったけど、時田春哉という刑事は確かに存在した。そして私は彼が新人の頃までさかのぼって、関わった事件を一つ一つチェックしている。地道な作業だ。嫌いじゃないけど。
ずっと見ていて思ったのは、時田さんという人のこだわりの強さだ。きっちりしているというか、神経質と言ってもいい。書類の書き方も丁寧だし、捜査も手抜きや見落としが無い。
警部補になったのが三十二歳の時。ノンキャリアでこのスピードはかなり優秀だ。
時田さんと灰川さんが組んでいたのは、灰川さんが配属されてからの六年間。その間に、少々の変化が見て取れた。
「うわ……」
思わず口をついて出る。
何てことはない、よくある自転車盗難事件。運よく見つかることはあっても、現行犯でも見つけない限り、よほど犯人は捕まらない。でも時田さんと灰川さんのコンビは、その犯人を特定し、逮捕にこぎつけている。すごい執念。おまけに犯人の大学生が内定していた企業にもきっちり連絡し、その後父親が九十九署に怒鳴りこんでくるというトラブルも起きている。こだわりや細かさが加速している印象だ。
……ちょっとイメージと違うな。灰川さんが尊敬する師匠だって言うから、もっとキレ者でありながら人情味のある優しい先輩だと思ってたのに。私だったら……怖くて苦手だったかも。
「あ」
データベースにある、時田さんが関わった最後の事件。六年前の幼女殺害。私は当時大学生だったけど、ニュース映像をよく覚えている。夕方、一人で遊んでいた6歳の女の子が中年男に無残に殺された事件。犯人は意外とあっさり捕まったと記憶しているけど、あれ、時田さんと灰川さんが捜査してたんだ。一度も聞いたことなかった。でも悲惨な事件だし、話したくない気持ちはわかる。
「あれ?」
その事件のファイルを開こうとした時、今まで一度も出なかった『管理者パスワードを入力してください』のボックスが現れた。ここに来て?
私は板東課長からもらった紙を開いてパスワードを打ち込んだ。
「ん?」
画面が一回再読み込みをして、また同じ画面に戻ってしまった。入力ミスった?もう一度打ち込む。
「……入れない」
私はあたりを見回し、比較的人当たりの良さそうなメガネの若い男性に声をかけた。
「あのー、ちょっといいですか?」
「何?十秒で済ませて」
人選ミス!でももう遅い。私は一気にまくしたてた。
「仮の話ですけど、警察のデータベースで捜査一課長のパスワードでも入れない領域ってあるんですか?」
「ほぼない」
「ほぼ?」
「今は情報公開が進んでいる。隠すなんてよっぽど無い。あるとしたら」
「あるとしたら?」
「上層部が何かをもみ消したとか、無かったことにしたいヤバイ案件だ。関わらないことをオススメするよ」
つづく




