黒カレーと奪う者/奪われる者
第九話
統括部長岩本のこれまでの人生は、順風満帆だった。
金も女も、困ったことはほとんどない。
地元では名の知れた会社に就職し、妻は会長の娘で、社長の妹。
取締役のポストも、ほぼ約束されている。
だが――
机の上に置かれた封筒が、その“安定”を脅かす。
中に入っていたのは、不倫の証拠になり得る写真。
(……くそっ)
額に手を当てる。
喉が渇く。
誰だ。
誰がこんな真似を。
自分は選ばれた側だ。
多少の失敗はあっても、最後は必ず勝つ。
そうやって、ここまで来た。
だが写真の中の自分は――
笑っていた。
言い逃れは、難しい。だが、乗り切ってやる。
封筒を握り潰した瞬間。
廊下で、静かに足を止める気配がした。
———————
田島はスマートフォンを確認した。同じ写真のデータが残っている。
偶然だった。
数ヶ月前。
出張先のホテル前。
腕を組んで歩く二人を、たまたま見かけた。
あの時は、ただの“弱み”だった。
だが今は違う。
胸の奥で、黒い何かが脈打つ。
ドクン。
部長室の扉の向こう。
苛立ちと焦りの気配が、はっきりと伝わる。
(奪える)
今まで奪われてきたもの。
評価。
手柄。
時間。
全部、取り返す。
「……次は、あんただ」
田島の足が動く。
その影が、わずかに濃くなった
————————
昼休みになった。
「大河、今日学食か?」
霧島が机に頬杖をついたまま聞く。
「おう」
「今日は月に一回のあれだぞ」
大河がゆっくり顔を上げる。
「……噂に聞く黒カレー?」
霧島がうなずく。
「学食のおばちゃん達が三日三晩“寝ながら”煮込んだ、我が校伝説の黒カレー。オプション追加でカツカレーも可」
「寝ながら煮込むってなんだよ」
「そこは企業秘密らしい」
大河は立ち上がる。
「五分で売り切れるやつだろ」
「今日は戦争だな」
椅子が引かれ、教室がざわつく。
廊下に出た瞬間、スパイスの匂いがほんのり漂ってきた。
「……腹減った」
「お前はいつもだろ」
二人は階段を駆け下りる。
そのとき。
ほんの一瞬。
大河の胸が、ざわりと揺れた。
「……?」
足が止まる。
「どうした?」
「いや、なんか……」
言葉にならない違和感。
けれど次の瞬間、霧島が叫ぶ。
「おい急げ!もう並んでる!」
「あ、待て!」
二人は走り出す。
小春の叫びが聞こえる
「コラーっ廊下は走ったらダメ〜」
ベタだな小春……
――同じ頃。
誰かの“誇り”が、静かに崩れ落ちる。
———————
時刻は午後12時前。
フロアは静かだった。
書類を抱えた田島が、廊下を歩く。
部長室の扉が開いた。
岩本が出てくる。
顔色は悪いが、視線は相変わらず高い。
「部長。顔色、悪いですよ。大丈夫ですか?」
田島の声は穏やかだ。
岩本は一瞬だけ足を止め、鼻で笑う。
「お前に心配される筋合いはない」
肩がぶつかる。
「仕事も出来ない奴が、余計なことを考えるな」
去っていく背中。
その背に、揺らぐ光。
金色の塊。
誇り。
自信。
“選ばれた側”という確信。
田島の足元から、黒い影が伸びる。
音はない。
ただ、剥がれる。
岩本の歩幅が、わずかに乱れる。
気づかない。
気づけない。
田島はゆっくり息を吐く。
(奪った)
胸の奥に、熱が流れ込む。
口元が、わずかに歪む。
「……まずは、これくらいでいい」
——————————
学食前は、すでに長蛇の列だった。
「……嘘だろ」
霧島の声が震える。
「まだ昼休み始まって三分だぞ?」
「甘かったな」
最後尾の札が掲げられる。
その瞬間。
「本日の黒カレー完売でーす!」
学食のおばちゃんの無情な声。
ざわめき。
ため息。
「……終わった」
霧島が膝をつく。
「俺たちは無力だ….」
(霧島よ、略奪者達に村を襲われたみたいになってんぞ)
大河は静かに券売機へ向かう。
「切り替えろ」
ボタンを押す。
A定食。
焼き魚、味噌汁、小鉢。
どこまでも堅実。
二人はトレイを持ち、空いている席へ。
「黒カレー……」
「来月だな」
そのとき。
トン、とトレイの横にお茶が置かれる。
「はい、元気出しなさい」
小春だ。
「今日のA定食、意外と当たりだから」
「慰めになってねぇ」
霧島がうなだれる。
小春はくすっと笑う。
「黒カレーに振られた男二人かぁ。青春だねぇ」
「そんな甘酸っぱくねぇよ」
大河は箸を割る。
ひと口。
「……」
「どうだ?」
霧島が覗き込む。
「……普通」
「だよな」
三人の間に、静かな昼の時間が流れる。
そのとき。
大河の胸が、また小さくざわついた。
今度は、ほんの少しだけ強く。
「……」
「またなんかあった?」
小春が首を傾げる。
「いや。なんでもない」
空は晴れている。
笑い声も聞こえる。
だけど。
この違和感の正体がわかるのは、
もう少し先だった。
————————
午後一時。
重役会議室の空気は、いつもよりわずかに乾いていた。
統括部長は立ち上がり、資料を開く。
この席は、彼の舞台だった。数字は武器で、言葉は支配の道具。視線を集め、納得させ、最後は拍手もない勝利を得る――それが常だった。
「では、報告を」
声が、少しだけ低い。
最初の数字を読み上げた瞬間、違和感が走った。
ページが違う。
めくる。
指先が紙を滑らせる。
焦り。
「……訂正します」
小さな咳払い。
専務が静かに口を挟む。
「その数値、整合が取れていません」
会長は何も言わない。ただ、見ている。
背中に汗がにじむ。
おかしい。
頭の中では整理できているはずなのに、言葉がうまく並ばない。
社長が資料を閉じた。
「今日はここまでにしよう。精査してから再提出を」
「私生活のあまり良くない噂も耳にしたが、身辺の整理もするように」
短い宣告。
いつもなら食い下がる。修正し、巻き返す。
だが今日は、言葉が出なかった。
「……承知しました」
椅子を引く音だけがやけに大きい。
退室した廊下で、誰も目を合わせなかった。
エレベーターの鏡に映る自分の顔。
どこか精彩を欠いている。
理由はない。
だが胸の奥に、薄いひびのような不安が走っていた。
(こんなはずじゃない)
その一言が、逆に苛立ちを呼ぶ。
※
夜。
愛人のマンション。
部長は封筒をテーブルに置いた。
「これで終わりだ」
乾いた声。
女は封を開け、中身を確かめる。
そして、静かに首を振った。
「足りないわ」
「十分だろう」
「あなたの立場を守るには、安すぎる」
沈黙。
室内の空気が重くなる。
昼の会議室で感じた、あの妙な焦りが、再び胸を締めつける。
「脅しているのか」
「現実を見ているだけ」
その瞬間、何かが切れた。
腕を掴む。
壁に押しつける。
「調子に乗るな」
女の背が鈍い音を立てる。
「やめ――」
言葉は喉で潰れた。
首に指がかかる。
抵抗。倒れるテーブル。割れるグラス。
息が荒くなる。
耳鳴り。
――ドン、と壁を叩く音。
「うるさいぞ!」
隣室の怒鳴り声。
それでも手は離れない。
やがて、インターホンが鳴る。
強く、何度も。
「警察です。開けてください!」
一瞬、現実が戻る。
床に崩れ落ちる女。
自分の手。
赤い痕。
扉を開けた時には、すべてが遅かった。
数分後、マンション前には赤色灯が回っている。
住民たちが距離を取って見守る中、部長は無言で手錠をかけられた。
問いかけにも答えない。
パトカーのドアが閉まる。
——————-
田島は、通りの向こうから眺めている。
騒ぎの光が、彼の目に反射する。
口元が、わずかに歪む。
静かな満足。
胸の奥に満ちていく確信。
(勝った)
(コントロールしてやった)
誰にも聞こえない。
誰にも知られない。
だが確かに、何かを奪い取った実感はそこにあり、言いようのない力が漲る。
(俺こそが特別の存在だ)
お読みいただきありがとうございます。
本作を楽しんでいただけましたら、
ブックマーク・☆評価で応援していただけると励みになります。
一つ一つの反応が、執筆の力になっています。




