代償
第二十九話
朝。
廊下を歩く清掃カートの音で、聡美は目を覚ました。
ガラガラと、規則的な音がドアの向こうを通り過ぎていく。
聡美はベッドの上で目を覚ました。
しばらく外の音を聞いてから、スマホを手に取る。
通知は何もない。
伊藤賢人とのLINEの画面を開く。
昨夜のメッセージ。
『今夜ヒマ?』
あのあと、結局会っていない。
聡美はわざと返信しなかった。
少し、もったいつけたかった。
直也のこともあって、気分は最悪だった。
スマホをベッドに放り投げる。
「……あり得ない」
ぽつりと呟く。
あいつの方から別れを告げるなんて。
あり得ない。
枕に顔を押しつける。
今日は土曜日。
夫の両親が家に来る日だ。
聡美は「仕事の展示会で来週まで出張」ということにしてある。
正直、面倒だった。
どうせまた、同じ話になる。
子供はまだなのか。
年齢的にそろそろ考えた方がいいんじゃないか。
そんな話。
うんざりだった。
聡美はベッドの上で体を起こす。
髪をかき上げながら、小さく息を吐いた。
子供。
正直、好きじゃない。
それに。
――あの人と。
聡美は眉をしかめる。
今さら、夫とセックスなんて。
あり得ない。
———————
土曜日の午後。
駅前のカフェは、買い物客と学生でそこそこ賑わっていた。
窓際の席で、伊藤賢人は友人と向かい合って座っている。
テーブルの上にはアイスコーヒー。
話の内容は、相変わらずくだらない。
講義のサボり方。
バイト先の愚痴。
そして女の話。
賢人がストローを回しながら笑う。
「昨日さ、やろうと思ったんだけどさ」
友人がニヤッとする。
「誰と?」
「例の欲求不満の人妻」
賢人は肩をすくめた。
「なんか返信無くてさ。結局ダメ」
友人が笑う。
「お前も好きだねぇ」
賢人は軽く鼻で笑った。
「淫乱のくせに、無視しやがって」
友人が吹き出す。
「名前、なんて言ったっけ」
賢人が答える。
「聡美さん。松田聡美」
友人が思い出したように言う。
「あぁ。そうそう。バイト先の客な」
賢人はストローをくるくる回しながら続けた。
「なんか旦那、社長さんらしい」
友人が身を乗り出す。
「マジで」
「俺以外にも何人か男いるらしい。自慢してた」
そのとき。
カフェの奥の席で、ひとりの男がコーヒーを飲んでいた。
男は新聞をめくる。
紙の音が、小さく鳴る。
ほんの一瞬だけ。
男の視線が、賢人の方へ向いた。
そしてすぐに、また新聞へ落ちる。
カフェの店内には、相変わらず学生たちの笑い声が響いていた。
———————
土曜日の夕方。
リビングは静かだった。
さっきまでいた両親は、もう帰った。
「そろそろ孫の顔が見たいな」
帰り際に、父が笑いながら言っていた。
母も同じことを、何度も口にしていた。
義治はソファに腰を下ろし、ネクタイを少し緩める。
聡美は、今日も帰らない。
仕事で出張中――ということになっている。
“あなたに養われるだけの女は嫌”
あの時から、本心では違う事を考えていたのだろう。
義治はテーブルの上のスマートフォンを手に取った。
画面には、簡潔な報告が並んでいる。
探偵からのものだ。
聡美とは、もう長いことしていない。
今さらという気持ちもある。
それでも。
画面を見たとき、胸の奥に重いものが落ちた。
義治は小さく息を吐く。
――やっぱり、そうか。
部屋には、もう誰もいない。
静かなリビングに、時計の音だけが響いていた
——————-
土曜日の午後。
自宅。
大河はソファに寝転がり、ぼんやりテレビを見ていた。
昨日の夜を思い出す。
居酒屋坂本。
――翔太。
元気だった。
相変わらずだった。
声もデカいし、距離も近いし、ポテトサラダはやっぱり妙にうまい。
そして。
委員長。
少し酔っていた。
だから昨日は、ロードバイクを翔太に預けて帰った。
店を出たあと、委員長の歩幅に合わせて駅まで歩いた。
あの夜と同じだ。
少し早口で、よく笑う。
ただ。
(……年は取ったな)
そんなことを思ってしまい、大河は小さく苦笑する。
夕方、ロードバイクを取りに行く約束になっている。
(しかし……)
翔太の顔が頭に浮かぶ。
(バレてないよな)
昨日の様子は普通だった。
「奇跡の息子」
そんな扱い。
それ以上でもそれ以下でもない。
……たぶん。
(いや、あいつ昔から勘だけはいいんだよな……)
そのとき。
スマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見る。
――ノア。
大河は眉を上げた。
「……なんだ?」
『あんた今なにしてるの?』
「なんも」
『いいわねぇ学生はヒマで』
「その代わり金はない」
『こっちの労働は無給だからね』
ノアはさらっと言う。
一拍。
『この前の通り魔の件、覚えてる?ホステス殺し』
「覚えてるもなにも、お前からヤツの事件はだいたい聞いてるからな」
大河は肩をすくめた。
「しかも被害者になりかけた側だ。恨みもある」
『なりかけじゃないでしょ』
『一回死んでるんだから』
「その言い方やめろ」
ノアが小さく笑う。
『で、その件なんだけど』
『ちょっと妙な共通点が出てきた』
「共通点?」
『まだ確証はないわ』
『被害者全員に当てはまるわけでもない』
ノアは続ける。
『でもね』
『捜査一課が周辺を洗ったら』
『被害者の何人かに、似た噂がある』
大河は天井を見上げた。
「どんな噂だ」
少しだけ間。
ノアが言う。
『不倫』
『複数交際』
『そういう類い』
大河は黙る。
『小松香織。クラブのホステス』
『客とトラブルが多かったらしい』
『男関係も派手だったって』
静かな沈黙。
やがて大河が言った。
「……なるほどな」
『ただし』
ノアの声が少し低くなる。
『それだけなら、ただのゴシップよ』
『問題は別』
「別?」
「天誅の意味よ」
ノアは短く答えた。
『現場の壁』
『血で書かれてた』
大河の眉がわずかに動く。
『――天誅か』
————————
土曜の夜。
仕事終わりの直也は、駅前の通りから一本入ったところにある少し洒落たレストランで席に着いていた。
向かいには、婚約者の
島津綾香。
大地主の娘。
上品で、よく笑う女だ。
ワイングラスを軽く持ち上げながら、綾香が言う。
「お仕事大変そうですね」
「まぁね。でも、綾香とこうして飯食えるなら頑張れるよ」
直也は、スマートフォンをテーブルの端に伏せた。
さっきまで、ずっと震えていた。
――松田聡美。
鬼電。
LINEの通知。
LINEの内容は、ほとんど脅しだった。
《逃げられると思ってる?》
《全部バラす》
《あんただけ幸せになるなんて許さない》
直也は、ため息をつく。
さっきブロックした。
ああいう自己中な女は危ない。
自分は特別と勘違いしてやがる。
感情で動く。
何をするか分からない。
(面倒なことにならなきゃいいが……)
ふと、そんな考えがよぎる。
(いっそ——)
グラスのワインを一口。
(あいつ、いなくなんねぇかな)
直也は、何事もない顔で微笑んだ。
「どうしたんですか?」
綾香が首をかしげる。
「いや、なんでもない」
店内には、静かなジャズが流れていた。
———————-
土曜の夜。九時過ぎ。
賢人と別れたあと、聡美は住宅街の路地を歩いていた。
必死に連絡してくるから会ってやった。
ホテルを出たあと、近くのカフェレストランで軽く食事。
そのまま駅で別れた。
夜風が少し冷たい。
(今日の賢人は……まぁまぁね)
おあずけしていたのが良かったのかもしれない。
それでも。
(直也ほどじゃないけど)
あの男の顔が浮かぶ。
同時に、スマートフォンの画面。
LINE。
ブロック。
(クズ男)
聡美は小さく舌打ちした。
(いいわ。来週、会社に電話してやる)
(気が済むまで嫌がらせしてやるわ)
スマートフォンを取り出す。
通知が一件。
――義治。
旦那からのLINEだった。
聡美は何気なく開く。
文章を読んだ瞬間、足が止まった。
浮気のことが書かれている。
証拠も押さえている、と。
そして――
すぐ帰るように。
胸の奥がざわつく。
(……バレた?)
一瞬、焦りがよぎる。
だが。
聡美はゆっくり息を吐いた。
(大丈夫)
(あの人は世間体を気にする)
離婚になんてなるはずがない。
だから….
(今の生活は守られる)
しばらく大人しくしていればいい。
それだけのことだ。
そのとき。
「すいません」
背後から声がかかった。
振り向く。
三十代半ばくらいの男。
清潔な服装。
整った顔。
少し困ったような笑み。
「この近くに、気の利いたカフェとか知りませんか」
ナンパ。
聡美は心の中で笑った。
(……まだイケるってことね)
少しだけ髪をかき上げる。
「あぁ、それなら――」
その刹那。
男の腕が動いた。
鈍い衝撃。
腹部。
何かが、深く入り込む。
聡美の視界が揺れた。
「……え?」
「なに、なに」
「え?ヤダ、ヤダ、痛い、痛い」
男は何も言わない。
ただ静かに、刃を引き抜いた。
「豚め」
温かいものが腹からあふれる。
足の力が抜ける。
聡美の体が、ゆっくりと崩れ落ちた。
男は見下ろす。
そして、低く呟いた。
「……天誅」
夜の住宅街は、静かだった。
————-
男は、倒れた聡美をしばらく見下ろしていた。
動かない。
呼吸もない。
静かな路地に、夜風だけが流れる。
男はゆっくりと屈み込んだ。
細身の刃物のような物。
ためらいはない。
布が裂ける音が、夜の空気に混じる。
一度。
二度。
何度も。
衣服は、もはや服の形を保たなくなっていく。
男の表情は変わらない。
やがて。
刃はさらに下へ動いた。
そして——
男は立ち上がる。
血のついた刃先を見つめると、小さく呟いた。
「……天誅」
路地の壁を血で染める。
男は振り返らない。
静かに去っていく。
数時間後。
この現場を見た捜査員は、言葉を失うことになる。
被害者の衣服は、原形をとどめていなかった。
そして。
腹部から下は——
鋭利な刃物で、無残に切り裂かれていた。
それでも。
性的暴行の痕跡は、なかった。




