第23節:交渉の糸口
「準備が整いました、母なる者の姉妹よ」
「そうか」
米国軍日本支部総督府―――その総督席に座り、肘で頬杖をついて足を組んでいた女性が立ち上がった。
シープは、黒の一号に対峙した時の狂態を忘れたかのような落ち着きを見せている。
女性―――擬態したマザー……異界の襲来体母体は、胸元と背中が大きく開いたパーティードレスにファーを纏った姿をしていた。
色は、艶めく紫。
そしてその腕には大きく紫のスミレの花弁を象ったタトゥが刻まれ、顔立ちは、トウガの恋人のもの。
「では、狩れ」
人類に対して悪意的な振る舞いこそを至上とする生命の長は、蠱惑的な笑みを浮かべながら告げた。
「一匹残らず、恐怖と、痛みと共に、ありとあらゆる苦しみを与えながら、役目を終えた装殻者と人間どもを狩り尽くせ」
舌で唇を舐めたアナザーは、ホロスクリーンを示して目標を定める。
「まずは、〝使徒の出来損ない〟からだ……」
シープは……元は人間でありながら、襲来体として復活した男は。
壊れた精神をもって微塵もその言葉に嫌悪を抱かず、恭しく頭を下げた。
「全ては、御心のままに……」
―――そして、その日の夜。
無数の人の姿を得た襲来体が、総督府から蠢き出し、闇の中に消えていった。
※※※
「カオリ」
声を掛けられて、カオリは鋭く目を細めながらそちらを見た。
深夜だ。
場所は、施設の入口のすぐ傍。
皆が寝静まる深夜に、静かに降る雨に傘も差さずにずぶ濡れで、男が立っていた。
髪からは雫が滴り、本来明るい色合いの筈の茶色のコートが暗く染まっている。
いつから、そうして立っていたのか。
彼の表情は常とは違う冷たい色に染まり、口許は引き結ばれていた。
荒みを体現したかのような瞳の色を見て、カオリは笑う。
「懐かしい顔をしているな。秘匿回線で、敵地に不躾な訪問……死にたいのか? ジン」
荒んだ目の男、ジンは、皮肉げに口許を歪める。
カオリがよく知る彼は今のように、全てに喧嘩を売っているような人物だった。
「仕方ねぇ。搦め手も考えたが、元々性に合わねぇんだ。……お前相手なら、尚更だろ」
「で、何の用だ」
カオリは笑みを消して言った。
相手は《黒の装殻》。
しかし、一人だ。
「わざわざ殺されに出向いてきた訳じゃないんだろう?」
「今の俺を殺すだけの力が、お前にあるのか?」
こちらをナメた発言、とは、カオリは思わなかった。
それは、ただの確認だ。
カオリは、上着の裾を跳ねさせて腰に巻いたものを見せた。
それは、ジンと全く同じ形の、ゴツいベルト型装殻具。
出力増幅核が両腰の一対のみであり、中央が心核である点と、その色が赤である点だけが、ジンのものとは違う。
「私も、心臓核でこそないが、生体移植型補助頭脳式の人体改造型だ。忘れた訳じゃないだろう? ジン……これを纏った私は、お前より強い」
「……よく覚えてるさ。かなり前から【アパッチ】に内通していたお前が【黒殻】に属し続けたのも、それが理由なんだろ?」
やはりジンはバカではない。
忌々しく、小賢しさもない彼は、彼女を差し置いて《黒の装殻》に選ばれた事実さえなければ、好感すら持てる存在だった。
今となっては、それすらもどうでも良いが。
「コンベンションに落ち、一度取り上げられた伍号A型装殻を、戦力増強の名目でケイカさんに取り寄せさせた。その後、監視対象でなくなるまで、堪え忍んだ」
「そう。いずれ来るチャンスまで、な。そのチャンスがお前ら《黒の装殻》が集結した襲来体との前哨戦だったのは、皮肉だな」
全員が揃い踏みで本部を外していた時をおいて、彼女がD.Exを奪取しつつ離反する機会はなかった。
「昔話は楽しいが、そろそろ本題に入ったらどうだ?」
ジンは、息を溜めてから言った。
「……解除薬が、完成した」
「何!?」
カオリは驚いた。
ジンは、押し殺した声で続ける。
「ハジメさんは、お前らにそれを提供すると言っている。その為に交渉の場を設けて貰いたい。対価は、襲来体との戦闘に対して【アパッチ】が協力体制を取る事だ。……ハジメさんは、対立を望んでいない」
「このタイミングで……」
カオリは顔を歪めた。
早くも、遅くもない。
まるで狙い済ましたかのような……【黒殻】に最大の利があるタイミング。
「あの男は、いつもそうだな……! これを狙っていたのか……!」
「いいや、ハジメさんはそんな人じゃない。待ちきれなかった、お前のミスだ。そしてどちらかと言えばこれは、俺が仕組んだ事だ」
どこか遠い目で言うジンに、カオリが反論する前に。
「お前がD.Exを求めたのは、キタツさんの為だろう?」
「……知っているのか」
ジンは視線を落とし、どこか自嘲的にうなずいた。
「あの人が四国に渡る前、俺がハジメさんと初めて会った頃に世話になった人だ。良い人だよな。俺から連絡を取ることはほとんどなかったけど……【アパッチ】の調査であの人の名前を聞いて、俺は【アパッチ】の指導者に関する情報を隠した」
ジンの目が、ますます暗くなる。
「あの人じゃなくてお前を通すのは、あの人は多分取引に応じないと思ったからだ。自分の為には動かない人だろう? きっと、仲間の子どもらへの無償提供を求めて、協力する事には頷かない」
キタツさんは、争うことが嫌いだからな、とジンはぽつりと言い。
「だがお前は違う」
と、笑みを浮かべた。
「【黒殻】と【アパッチ】の円滑な取引の芽を、お前は潰した。自分が残っていさえすれば、まだやりようがあったのにな。キタツさんを救いたければ、お前は取引に応じるしかない……その為に、俺はこの状況を作り上げた」
カオリは、苛烈な目でジンを睨み付けるが、彼は全く動じなかった。
「何が搦め手は使わない、だ。その様子なら、お前は私とキタツさんの関係も知っているんだろう……!」
「ああ。キタツさんが拾った孤児の一人……勿論、情報は得てるさ。俺は、な」
カオリは、ジンの暗い表情の意味を悟る。
彼は、どちらも裏切っているのだ。
昔世話になったキタツの心情も踏みにじり。
今仲間となっている《黒の装殻》たちには、キタツとカオリの情報を隠して。
「いつから……」
「最初から、だ。俺が【黒殻】の情報部長になって、お前らの情報を得た時から。……わざわざ、お前に裏切られてショックを受けたような演技も。本部を空にしたのも、全部俺が仕組んだ」
カオリが裏切っても裏切らなくても良い。
裏切れば、彼の思い通りに事が運び。
裏切らなければ、カオリを通じてバレないように解除薬の横流しでもするつもりだったのだろう。
「まさか、お前みたいな奴にハメられるとはな!」
「選択したのはお前だ。俺は、これ以上何も失わない為なら何でもやる。いいか、何でも、だ」
「その決意のせいで、お前は人の肉体だけでなく、心まで失った!」
「俺は、元々空っぽに近い。全部なくして最後に残ったバカをハジメさんに殺された時から、俺の心の大半はハジメさんへの憎悪に占められてる。だから、残った僅かな場所にいるキタツさんを救うんだ。その僅かな部分まで失ったら、俺には」
ジンは自分の胸に手を当てた。
「ハジメさんを殺したい気持ちしか、残らなくなる。人類なんて見捨てて、ただハジメさんを殺すためだけに生きる事になる。……そんなのは、御免だ」
ジンはカオリに背を向けた。
「俺を殺せば、解除薬は手に入らず、人類は滅ぶ。俺より幾ら強くても、お前は俺に手を出せない。……交渉の日時を連絡してくれ。時間はないからな」
「クソ野郎」
拳を握り締めるカオリを振り向かないまま、歩みも止めずにジンは言葉を投げ返した。
「知ってるよ。俺は人類の希望を殺す力を託された、史上最悪のクソ野郎……黒の伍号・大甲だ」




