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終章 雨上がりの朝
五十三歳になった嘉浩は、今も中村区に住んでいる。ただし住まいは、あの傾いたアパートではなく、少し歩いた先にある新しいマンションの一室だ。
窓辺には、坂上カナの家から移した一本の鉢植えがある。カナが大切に育てていたものだった。
ある雨上がりの朝、嘉浩は「ひまわりの家」に向かう途中、かつて自分が住んでいたコーポ弥生の前を通りかかった。取り壊しが決まり、更地になる直前だった。
錆びた郵便受け、傾いた外階段。そこにはもう誰も住んでいない。嘉浩はしばらく立ち止まり、それから静かに一礼した。
「……ありがとう」
誰に向けての言葉なのか、自分でもよく分からなかった。育ててくれた施設の職員に。数字の違和感を教えてくれた自分自身の性分に。裏切られてもなお、何かを気づかせてくれた廣瀬に。そして、何より、初めて自分を丸ごと受け入れてくれたカナに。
雲間から、久しぶりの陽が差し込んでいた。
嘉浩は傘を畳み、ゆっくりと歩き出した。生まれてから五十三年、ようやく彼は、自分の足で立つ場所を見つけていた。
――生きる意味は、与えられるものではなく、自分で選び取るものなのかもしれない。
そう思いながら、松央嘉浩は、朝の光の中を歩いていった。




