4.地を厭う鳥は空に口づける
一心不乱に剣を振るう。
目の前に敵はいない。だが、カイトはいつでも剣の先に敵がいると思って剣を振るっている。そのせいか、ただの鍛錬だというのに必要以上に熱が入ってしまうのが常だった。
ふと、手を止めて上を見上げる。雲一つないとまではいかないものの今日は晴天だ。流れていく雲をしばし眺めていると、空に散らばった雲の一つが今にも太陽を隠そうとしていた。
(アイビス様はどうしているだろうか)
今日のカイトは非番だ。王女の護衛もカイト以外の騎士が務めている。
(あの程度の騎士が俺の代わりというのは不安だが……正直、鍛錬の時間が増えるのは助かるな)
非番の日も休まずにカイトが鍛錬をしているのには理由があった。“騎士として国を守れるように”というのは建前で、実際はその逆だ。神聖王国やその王族を守るためでなく、神聖王国国王を弑するため。剣こそ捧げていなかったが、カイトにとって唯一の主君である王子の誇りを踏みにじった男をこの手で殺すにはそれができるだけの強さがなくてはならない。
そう、カイトは強くあらねばならない。だが、はっきり言って今の職務だけでは腕が鈍る。数年前までは最前線で戦っていたカイトにとって、王女の護衛騎士というのはあまりに剣を振るう機会が少ない。
だからこそ、貴重な非番の日を潰して剣を振るっているわけだが。
「非番だというのに精が出るな」
素振りを再開したカイトに声が掛かった。その存在に気づいていたカイトが驚くようなこともなく剣を仕舞うと、声の主が近付いてくる。
神聖王国の国王であり、カイトにとって何度殺しても足りない相手。カイトは国王との距離を瞬時に測り取り、護衛の数を見極めた。……まだこの剣は届かない。
礼をとり跪こうとするカイトに国王から再び声が掛かった。
「このような場だ、あまり畏まらずとも良い」
「はっ」
「しかし……精が出るな、アル」
短く返答したカイトにもう一度同じ言葉が掛けられた。まさかお前を殺すためだとは言えず、“恐縮です”とだけ返す。
(“アル”か……)
いつからか国王は王女と同じようにカイトのことを“アル”と呼ぶようになった。それはきっと、国王のなかでアルバトロス・ベインが信頼に足る者だと認められたからだろう。
勝ち取った信頼に心のなかで嗤う。
「なかなかの熱の入りようだったぞ。平時から、それも休日もそれとは主君として誇らしい限りだ」
「もったいないお言葉です」
カイトの姿に何を思ったのか、国王は目を細めた。
「頼もしいな。きっかけはあれのおねだりだったが……アイビスにお前を付けたのは間違いではなかったようだ」
きっかけは、彼女。
カイトは心のなかでこの場にいない王女に感謝を捧げる。
(ありがとうございます、アイビス様)
彼女おかげで、そう遠くない未来に彼女の父を斬れそうだ。
「ここ3年ほどでアイビスに笑顔が増えた。これもお前の功績だろう――あの子の父として礼を言うぞ、アル」
そう言って、国王は去って行った。
「…………っ」
去り行く背中があの日見たものと重なる。知らず、カイトは息を飲んでいた。
ふっと息を吐き、身体の緊張を解く。いつの間にか握り込んでいた手のひらには爪の痕がくっきりとついていた。この程度ではもう痛みも感じない。
「父として、か」
先程の国王の言葉を思い、独りごちる。
王女の護衛騎士になってから、国王の父親としての面を見るようになった。娘の前では彼も普通の父親と何ら変わりない。ごく稀にだが、国王の姿がカイトの父の姿と重なることすらある。
だが、それでも。
(……憎い)
カイトが国王に剣を向けるとき、決してその切っ先は揺らがないだろう。国王に父親の姿を見たからといって、ずっと研いできた刃が鈍るほどカイトの国王への憎しみは弱いものではない。
カイトの復讐心が揺らぐことがあるとしたら、それはきっと……。
(……アイビス様)
剣の柄に手を掛ける。ただ柄を握り締めるだけで、抜きはしない。
迷いを振り切ろうとするように、固く目を閉じた。
(…………。俺は……)
掴んだまま抜かない剣は、果たして、彼女を守る剣か、彼女から奪う剣か。
すでに己の気持ちが揺らいでいることに、カイトはまだ気づいていなかった。
いつもより高い目線。けれど、あの空には遠く及ばない。
当たり前だ。カイトにはもう翼がないのだから。
「アルーっ!!」
下から呼ぶ声がして、カイトは木の上から飛び降りる。
カイトは木の上にいるのが好きだった。暇を見つけては城で一番大きい木に登っている。高さが足りなくとも、木の上から見る景色はどこか懐かしい。失ったものを少しは埋めてくれる気がする。
「お呼びですか、アイビス様」
「アル!! やっぱりここにいたのね」
カイトが声を掛けると、王女は嬉しそうに破顔した。
「探してたのよ、アルに渡したい物があって……」
王女の周りにカイトの代わりをしているはずの護衛騎士はいない。近くで控えているのかとも考えたが、いくら探ってもこの辺りに人の気配はなかった。
周囲の気配を読んだカイトは王女の言葉を遮る。
「ちょっと待ってください」
(なぜ誰もいない?)
カイトが周囲を探るのはもはや護衛としての習い性だ。
だから、護衛騎士としてこの状況は見過ごせない。
「護衛はどうしたんです?」
「え、えへ?」
カイトの険しい表情に、一瞬“しまった”という顔になった王女は気まずげに視線を逸らした。
目を合わせないまま何とか誤魔化そうと笑う彼女に、カイトは眉間のしわを深くする。
「笑って誤魔化そうとしないでください。……アイビス様?」
「ごめんなさい、撒いてきました。だって、うるさいんだもの」
ふてくされたような口調。
“ああ、前にもこんなことがあったな”と思い出す。
あれはまだカイトが王女の護衛騎士になって間もない頃だった。
今日と同じようにカイトが非番の日。代わりの護衛を撒いてカイトのもとに来た王女に初めて説教をした日のことだ。
――だって! あの人たちっ、“奴隷上がり”とか“平民の分際で”とか……アルの悪口ばかり言うんだもの!
――アルは私の騎士なのに……っ。
突然泣き出してしまった王女を宥めるのに苦労したのを覚えている。王女がカイトの前で泣いたのはあのときが初めてで、どうして良いか全くわからなかった。今も、彼女の涙にだけは勝てない。
あのとき、慰めねばと焦る気持ちと同じだけ、王女が泣いた理由を思って心が温かくなった。それをカイトはずっと忘れないだろう。
(それにしても……またか)
カイトはこの国で見下されることに慣れている。そういう立場にいる。偽っているとはいえ、人から称賛されるような出自ではないし、そんな出自のくせに高い地位にいるというのはそれだけでやっかみの対象になる。それがわかっているから気にしない。むしろ、そんな言葉を耳にしたなら羨ましいのだろうと不遜に嗤ってみせた。
カイトには目的があるから。どんなに蔑まれても、そのための今だから、カイトはひとかけらも傷つかない。
(気にしなくていいのに)
きっと、今日護衛を撒いてきたのも以前と同じ理由のはずで。
だから厄介なのだ、この王女は。そんな理由、許してしまうしかないじゃないか。
「……はあ、まったく。彼らは護衛なんです。うるさいからと撒かないでください」
わざとらしく大きな溜め息を吐いてみせるが、言外にもう怒っていないと言っているようなものだ。
しかし、これだけはと苦い顔で告げる。
「何かあったらどうするんですか。私のいないときに、無茶は止めてください」
王女にとっては小言のはずなのに、なぜか彼女の顔が輝いた。
「アルに心配してもらえるのが嬉しいって言ったら、怒る?」
その口ぶりはまるで悪戯に成功した子どものようだ。
怒ることなど、できるわけがない。
「怒りませんよ。呆れはしますが」
「もうっ!! そんなこと言うんだったらこれはあげないから!」
「? それは何ですか?」
王女は手に持っていた包みを後ろに隠した。
初めから彼女が何か手に持っていたのは気づいていたし、包装からして菓子か何かだろうと見当をつけていたが、今気付いたというように振舞う。
「…………ふーんだ、アルには教えてあげないもの」
カイトの読み通りににんまりと笑う王女に内心苦笑した。意地悪そうに笑っているつもりなのだろうが……可愛らしいものだ。
「申し訳ございません、非礼をお詫びしますので教えていただけませんか?」
「ダメ、硬すぎ」
「すみません、気になるのでそろそろ教えてください」
「うん、合格。……ふふっ」
降参だというように手を挙げて見せれば、とびきりの笑顔が返ってくる。
思わず目を眇めた。あの日からずっと闇の中にいるカイトにとって彼女はあまりに眩しい。
「これ、アルにあげる」
そう言って王女が差し出した包みをカイトは丁重に受け取る。
やはり包みの中身は菓子のようだ。
王女は菓子などの甘い物を好んでいるようだが、カイトは好きでも嫌いでもない。なぜ自分に渡してくるのかわからず戸惑う。
「これは……お菓子、ですか? いったいなぜ、私に?」
困惑しつつ尋ねるカイトに、王女はやけに得意げだ。
「それはね、ただのお菓子じゃないのよ。なんと、私が作ったお菓子なの!」
「アイビス様が?」
驚きに目を見張る。
買ったものにも見えなかったが、まさか王女が作った菓子だとは思わなかった。
「味見もしたし、料理長に教えてもらいながら作ったからそれなりに美味しくできたと思うんだけど……貰ってくれる?」
話しながら心配になってきたのか眉尻を下げる王女に、カイトは安心させるように嬉しそうな笑みを浮かべてみせる。
「はい、もちろん。ありがとうございます、アイビス様」
そう言って先程受け取った包みを掲げると、王女はほっとした様子で微笑んだ。
早く食べてと王女の顔が言っていたので、失礼と断りつつ、王女が作ったという菓子を口にする。
「美味しいです」
ありきたりな言葉だ。他に何かなかったのかと自分でも思う。
しかし、そんなカイトの言葉でも心の底から嬉しいというように王女は笑った。食べた感想を待って緊張していた顔がほころんでいく様子が、まるで花開くようで一瞬見惚れてしまう。……自分には眩しすぎるのに、目が離せない。
「良かった。――実はね、アルのために作ったの」
まるで大切な秘密を明かすようにそう言って頬を染めた彼女にカイトは堪らない気持ちになった。身体のうちから湧き上がる衝動を抑え切れない。
思わず、カイトは王女の腕をとった。唇を寄せて寸前で止める。
まずは腕に。あなたが好きだ、と恋慕を伝えて。
それから手首に。あなたがほしい、と欲望を告げる。
最後は手のひらに。どうかこの想いに気づかないでくれ、と懇願した。
騎士に許されることではない。
そう思いながらも、彼女の滑らかな手に決して触れない口づけを落とした。
寸前で止めたのは理性ではない。汚したくないなんていうどこまでも自分勝手な感情。王女の手をとった時点で、カイトの汚れた手が触れてしまっているというのに。
「アル、な、なんで……っ」
「お礼ですよ」
「え……?」
思わぬことを言われたというようにキョトンとした顔に笑ってしまいたくなる。
「私はこの身以外に捧げられるものございませんので、ならば忠誠をと思いまして」
本当は菓子の礼などという可愛らしいものではなかった。ただ衝動を抑え切れなかっただけ。王女からしたら災難だが、カイトの理性を突き崩したのは彼女だ。甘んじて受け入れてもらおう。……どうせ、一時だけのことなのだから。
(嘘ばかりだな、俺は)
カイトは彼女に忠誠すらやれない。
捧げられるのは、色んなものが複雑に絡まり合ったこの想い。元はそれが恋だったのかすら、もうわからなくなってしまった。
「……忠誠の口づけは手の甲にするものよ」
そう、敬愛を示すなら手の甲だ。カイトが示したのは恋慕と欲望、そして懇願。
王女は知らないだろう、カイトの想いなんて。護衛騎士の仮面に隠した真実なんて。
(知らなくて良い。どうか、何も知らないままで――)
いつか彼女が全てを知る日がくることもわかっているのに、愚かにもそう願ってしまう。そのとき、カイトはどれだけ彼女を傷つけるのだろう。
王女の信頼を裏切っているのは自分なのに、その裏切りを誰よりも恐れている。
「少し場所がずれたみたいですね、申し訳ありません」
憮然として言う王女に内心は露とも悟らせない。
“全然少しじゃない!”という反論には素知らぬ顔で返した。




