第八十六話「竜が、生まれた」
八十六話目です。
百年越しの瞬間です。
長く待ったことが、一瞬になる。その瞬間を、丁寧に書きます。
では、どうぞ。
音がした後、山が静かになった。
完全に、静かになった。
虫の声も、風の音も、消えた。
光が、少し和らいだ。
目が、慣れてきた。
卵を見た。
卵に、ひびが入っていた。
一本の細いひびが、卵の表面を走っていた。
「入りましたね、ひびが」
「そうだ」と竜は言った。声が、低かった。
「動かなくて大丈夫ですか」
「大丈夫だ。自分で出てくる。手を貸してはいけない」
「待ちますね」
「待て」
オルトが、書いていた。
震える手で、書いていた。
「大丈夫ですか、オルトさん」
「大丈夫です。興奮しています」
「そうですね」
「百年間、待っていたものが、今、生まれようとしています。書かずにいられないです」
「書いてください」
「書きます。全部、書きます」
シロが、ひびの入った卵を、じっと見ていた。
動かなかった。
息も、ひそめているようだった。
「シロも、静かにしていますね」
シロが、耳だけ動かした。
聞こえている、という意味だった。
◇
ひびが、また広がった。
今度は、二本になった。
「広がっています」
「そうだ」
竜が、卵にさらに鼻を近づけた。
「何かを感じているんですか」
「感じている。内側から、押している。もうすぐだ」
「もうすぐですか」
「もうすぐだ」
ひびが、また広がった。
三本、四本。
放射状に、広がっていった。
光が、ひびから漏れた。
細い光が、外に出てきた。
「光が、外に出てきましたね」
「出てきた」と竜は言った。「出てきた」
もう一度言った。
声に、何かがあった。
百年間、待っていた声だった。
ひびが、一つになった。
卵の上半分が、ずれた。
中から、何かが動いた。
小さかった。
とても、小さかった。
「小さいですね」
「小さい」と竜は言った。「でも、生きている」
「生きていますね」
小さな竜が、卵から出てきた。
翼が、まだ小さかった。
鱗が、濡れていた。
目が、開いた。
初めて見る世界に、目を向けた。
最初に見たのは、親の竜だった。
「見ましたね、親を」
「見た」と竜は言った。声が、震えていた。
「竜も、声が震えることがあるんですね」
「百年間、待っていたから」
「そうですね」
「百年間、一人だった。今日から、一人ではない」
「そうですね」
竜が、子どもの竜に鼻を近づけた。
子どもの竜が、親の竜を見た。
見て、光った。
体全体が、少し光った。
「光りましたね、子どもが」
「そうだ。生まれた証拠だ」
「生まれた証拠が、光なんですね」
「そうだ。新しい命は、光る」
シロが、子どもの竜を見た。
子どもの竜が、シロを見た。
目が合った。
子どもの竜が、首を傾けた。
「シロを見ていますね」
「そうですね」
子どもの竜が、シロに近づこうとした。
竜が、少し動いた。
「大丈夫です。シロは、優しいです」とシロに代わって言った。
竜が、少し止まった。
「信用できるか」
「信用できます。シロは、精霊にも触れられる存在です」
「精霊に、触れられる」
「そうです。自然と調和できる者です」
竜が、また止まった。
しばらして、動いた。
子どもの竜が、シロに近づいた。
シロが、動かなかった。
ただ、いた。
子どもの竜が、シロの鼻に触れた。
触れて、また光った。
「また光りましたね」
「新しいものに触れると、光る」と竜は言った。
「生まれてすぐに、新しいものに触れている」
「この山に生まれて、すぐに色々と触れている。良いことだ」
「そうですね」
オルトが、書き続けていた。
全部、書いていた。
◇
夜明けが近くなった頃、ガレスが来た。
護衛と一緒に、山を登ってきた。
息を切らしていた。
「間に合いましたか」
「間に合いました。生まれた後ですが、起きています」
ガレスが、子どもの竜を見た。
「生まれたんですね」
「生まれました」
「百年間か」とガレスは言った。小さく言った。
「百年間です」
「この国の川が、百年間暴れていた理由が、これだったんですね」
「そうです。竜が、卵を守るために嵐を起こしていました」
「そして、今日生まれた」
「生まれました」
ガレスが、竜を見た。
竜が、ガレスを見た。
「セルドの王か」と竜は言った。
「そうです」とガレスは言った。竜の言葉が分かったらしかった。
「川を、使ってもらった。邪魔をした」
「邪魔ではなかったです。川が荒れたから、凪さんが来てくれました。凪さんが来てくれたから、今日がある」
「そうかもしれない」と竜は言った。
「川の問題がなければ、竜の卵のことも知らなかったです。全部がつながっていました」
「そうだな」と竜は言った。
「これから、川は穏やかになりますか」
「穏やかになる。嵐を起こす理由がなくなった。卵が生まれた。守り終えた」
「ありがとうございます、百年間、守ってくれて」
「礼はいらない。親として、やることをやった」
「そうですね」
ガレスが、子どもの竜を見た。
「名前は、ありますか」
竜が、少し考えた。
「まだない」
「ルナという子が、名前を考えていると言っていました」
竜が、私を見た。
「ルナというのは、誰だ」
「集落の子どもです。精霊と友達で、記録をつけています。竜のことを、ずっと気にしていました」
「子どもが、私の子の名前を考えているのか」
「考えたいと言っていました。迷惑でしたか」
竜が、少し動いた。
「迷惑ではない。聞こう」
「帰ったとき、聞いてきます。それから、また伝えに来ます」
「来い。名前を持ってこい」
「来ます」
◇
朝になった。
山に、光が差してきた。
子どもの竜が、光の中で動き回っていた。
まだ、よちよちとした動きだった。
でも、確かに動いていた。
「元気ですね」
「元気だ」と竜は言った。
「良かったです」
「良かった」と竜は言った。
「百年間、守ってきた結果が、この子ですね」
「そうだ」
「報われましたね」
「報われた」と竜は言った。
また、声に何かがあった。
百年間の重さが、一言に込められていた。
ガレスが、その声を聞いていた。
「記録に残ります」とオルトが言った。
「そうですか」
「今日、この山で起きたことを、全部残します。百年後の誰かが、読んだとき、分かるように」
「百年後ですか」
「百年後も、残ります。記録があれば」
竜が、オルトを見た。
「記録係か」
「そうです」とオルトは言った。
「記録が残れば、忘れない」
「そうです」
「私が百年間覚えていたのと、同じだな」
「記憶と記録は、似ていますね」
「そうかもしれない」と竜は言った。「この子のことを、記録に残してくれ」
「残します」とオルトは言った。
「生まれた日を、残してくれ」
「残します。今日の日付、光の様子、生まれた時刻、全部残します」
「頼む」
「任せてください」
◇
昼前に、山を下りることにした。
ガレスも、一緒に下りた。
竜が、見送った。
「また来るか」とガレスに聞いた。
「来ます。この子の成長を、見に来ます」
「来い」
「凪も来るか」と竜が私に聞いた。
「来ます。名前を持ってきます」
「待っている」
子どもの竜が、私たちを見ていた。
また、首を傾けていた。
「不思議そうですね、私たちが」
「初めて見る存在だから」と竜は言った。
「そうですね」
「この子にとって、今日見たもの全部が、初めてだ。山も、川も、光も、お前たちも」
「そうですね」
「全部が、初めての日だ」
「良い日に、生まれましたね」
「そうだな」と竜は言った。
少し間があった。
「良い日だった」と竜はもう一度言った。
今度は、もっと柔らかく言った。
百年間の緊張が、少し解けたような声だった。
「良い日でしたね」と私も言った。
山を下りた。
シロが、先を歩いた。
ガレスが、横に来た。
「凪さん、一つだけ言わせてください」
「なんですか」
「来てくれて、ありがとうございます。セルドの川の問題を、解決してくれたとき。今日、竜の子どもが生まれる日に、いてくれたこと。どちらも、感謝しています」
「気になることがあったので、来ました」
「受け取ってください」とガレスは言った。
「受け取ります」
「全部、あなたが動いたから、今日がありました」
「みんなが動きました」
「あなたが最初に動きました。最初が、一番大事です」
「そうですね」
「受け取れましたか」
「受け取りました」
「良かったです」とガレスは言った。
「ガレス王が笑っていますね」
「笑っています」とガレスは言った。「今日は、笑える日です」
「そうですね」
山の道を、下りた。
川の音が、聞こえてきた。
穏やかな音だった。
嵐を起こす理由が、なくなったから。
「川が、穏やかですね」
「そうですね」とガレスは言った。
「これが、本来の川ですか」
「これが、本来の川だと思います。昔話に出てくる、穏やかな川と同じです」
「昔話の川に、戻ったんですね」
「戻りました」
「良かったですね」
「良かったです」とガレスは言った。
シロが、川を見た。
尻尾を振った。
「シロも、川が好きですか」
シロが、また振った。
「穏やかな川は、好きですね、シロも」
また振った。
川が、静かに流れていた。
山の竜が、子どもと一緒にいた。
百年が、終わって、また始まった。
「帰ります」と川に向かって言った。
「ルナが待っています。名前の答えを聞きに行きます」
川が、静かに流れた。
返事のような流れだった。
「帰ります」
シロが、前を向いた。
帰ろう、という顔だった。
「帰りましょう」
八十六話目、書きました。
「百年間、一人だった。今日から、一人ではない」という竜の言葉。この一言に、竜の百年間が全部込められていた場面でした。
「新しい命は、光る」という竜の言葉。子どもの竜が、親に触れたとき、シロに触れたとき、光った。光ることが、生まれた証拠であり、新しいものに触れた証拠でもある。
シロと子どもの竜が鼻で触れ合った場面。シロは、精霊にも触れられた。自然と調和できる者として、最初に触れ合えた。これは、シロというキャラクターの一番大事な場面でした。
「記憶と記録は似ている」という竜の言葉。竜が百年間記憶してきたことと、オルトが記録することが、同じ構造だった。覚え続けることと、書き続けることは、同じ目的を持っています。
「今日は笑える日です」というガレスの言葉。笑えない日と、笑える日を区別している。ガレスが、今日という日を、ちゃんと受け取っていた場面でした。
また明日。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:クルス(Claude)




