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知らない誰かの願い

家に帰ると、ゲンさんはすぐに仕事に取りかかっていた。 


カン、カン、と鉄を打つ音が響いている。


私は特にやることもなく、部屋にあった一冊の本を手に取った。


開いてみる。

見たこともない文字なのに、なぜか意味が分かる。


ゲームやアニメを見ていて、「なんで違う国の人と普通に話せるんだろう」と思ったことがある。なんなら、宇宙人とも普通に会話してたりする。

でも、そこを追求すると話がややこしくなるので、考えるのをやめてきた。


でも、まさか自分がそうなるとは思っていなかった。

自分のこととなると、ご都合主義では流せない。

不思議だけど、これも異能なのかもしれない。


……結局、わからない。


考えても仕方がないので、私は本へ視線を戻した。 


紙は粗く、文字はすべて手書きだった。

ページには人体の図と、聞いたことのない難しい言葉が並んでいる。


たぶん、医術について書かれた本だ。


この部屋の本当の主――ゲンさんの娘さんの本なのかもしれない。


その後も、特にやることがないまま一日を過ごした。


夜はゲンさんとご飯を食べた。

それから、何かのアニメで見たような大きな金属の樽のお風呂に入り、硬いブラシで歯を磨いて、寝た。



翌朝もゲンさんと一緒に、買い出しと火をもらいに村へ出た。

火を受け取ったあと、ゲンさんは騎士と何かを話していた。


私は先に建物を出た。


その瞬間、頭上で鐘が鳴った。


昨日と同じように、少しずつ人が集まり、火を求める列ができていく。

二度目に見るその光景も、やっぱり私には異様に映った。


しばらくして、ゲンさんが出てきた。


「帰るぞ」


そう言って、ゲンさんは歩き出した。

私はいつものように、その背を追った。


冬の風が冷たい。


「トワ、明日、灰の奴らがお前を西へ逃がす」


ゲンさんの声が、なぜか冷たく聞こえた。


この風のせいだろうか。


「灰って?」


「ああ、レジスタンスの連中だ」


彼の言葉に、私は頷いた。

私は追われている。


蒼炎騎士。


千年後の世界で目を覚ましたあの日、私たちを追っていた人たち。

でも、どうして彼らが私を狙っているのかは、まだ分かっていない。


ただ、思い出す。


私の胸を貫いた剣。

その瞬間、舞い上がった炎。


あの蒼い鎧を着た兵の目。

そして、炎に包まれていく姿。


思い出しただけで、身体に恐怖が走った。


「この辺りは蒼炎教の監視下だ。お前は逃げるべきだ」


ゲンさんの声が、どこか遠くに聞こえた。

蘇った恐怖に身体が強張り、私は何も答えられなかった。


だけど、その声は届いていた。


逃げる。


千年後の世界で、何も分からないまま生きて――私は何をするんだろう。


そんな疑問だけが、胸に残った。



部屋に戻った私は、また暇を持て余していた。


カン、カン、と鉄を打つ音だけが聞こえてくる。


私は昨日読んだ本に目をやった。

医術について書かれた、あの本。

他にすることもなく、私はもう一度ページを開いた。


文字は読めても、内容はほとんど理解できなかった。


それでも、何度も読み返された跡や、ところどころに残された書き込みから、この部屋にいた人の姿が少しだけ見える気がした。



さらに翌日。


この日も、昨日とほとんど変わらなかった。


ゲンさんと火をもらいに行き、家に戻ってからは、カン、カン、と響く鍛冶の音を聞きながら部屋で時間を潰した。


そうしているうちに、いつの間にか夜になっていた。


「娘さんって、今は何してるの?」


夕食中、私はふと尋ねた。


ゲンさんの手が止まった。


「……なんで急に」


「部屋にあった本。医術の本だったから」


「ああ……」


ゲンさんはそれだけ言って、また食事に手をつけた。


「妻が病気で死んでな。それからだ。医者になりたいって、勉強してた」


「今は……」


「……まあ、色々あんだよ」


その後、沈黙が続いた。

やっぱり、聞いちゃいけないことだったのかもしれない。


私は部屋に戻った。


そういえば、騎士たちが言っていた三日の期限は、明日だった。

また朝から、来るのだろうか。


ゲンさんのことが、少し心配だった。

私が余計なことを聞いた、あの瞬間のゲンさんの顔が浮かぶ。


そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠っていた。



見渡す限り、荒野のような場所が広がっている。


さっきまで寝ていた、あの少し硬いベッドはどこにもない。

ここはどこなんだろう?


私は兵士のような人たちに紛れて立っていた。


そして、その前には、こちらを見つめるいくつかの人影が立っていた。


大男が、叫ぶように声を上げた。

言葉がわからない。

だけど、なんとなく分かった。

これから何かと戦うために、兵たちの士気を上げているのだと。


――進軍。


そんな言葉が、妙にしっくりきた。


たぶん、前に立っている人たちが偉い人なのだろう。

その中に、一人だけ静かに佇む女性がいた。


銀色の髪。

漆黒のドレス。

そして、少し赤みがかった瞳。


この殺風景な荒野には似合わない、綺麗な女の人。

あの人を、私はなぜか知っているような気がする。


そして、その女性の横に立つ男が、なぜか目についた。


まるでゲームに出てくる騎士のような風貌。

銀色の鎧に、蒼い瞳。

綺麗な顔立ちをした男だった。

初めて見るはずなのに、なぜか目を逸らせなかった。


兵たちが動き出した。

よく見ると、みんな傷だらけだった。

どこへ行くんだろう?


私は、これが夢なのだと確信していた。

まだ状況もよく分からないし、誰が誰なのかも分からない。

それでも、少しだけこの夢の続きが楽しみになっていた。


大勢の足音が、やけにリアルに聞こえてくる。

その瞬間、目の前が真っ暗になった。

誰かの声だけが聞こえる。

何を言っているのか、まったく分からない。

それなのに、なぜか悲しそうな声に聞こえた。


そこで、夢は途切れた。



「この部屋だ。眠ってるはずだ」


ゲンさんの声が聞こえた。

目を開ける。

薄い月明かりだけが、部屋を照らしていた。

誰かと話している?


そう思った直後、扉の向こうから足音がした。

一人じゃない。

二人――いや、もっといる。


「生け捕りが命令だ。致命傷は避けろ。穢れし炎を使われるぞ」


知らない男の声がする。

私はまだ、状況がわからなかった。


「娘を……サナを必ず返せ。約束だからな」


ゲンさんの声だった。

そして、その言葉で私は朧げに理解した。


あの騎士たちだろうか。

私を捕らえに来たんだ。


信じたくない。

でも、ゲンさんが――


私は、どうしたらいいんだろう。


この千年後の世界には、私にとって何もない。


だったら、私が捕まることで、ゲンさんの娘が助かるのなら――

それで、いいのかもしれない。


ドアの隙間から、蒼い光が漏れている。

好きにはなれない色だった。


それでも、私はすべてを受け入れるように再び目を閉じようとした。


――その瞬間。


何故だろう。

胸が熱い。


そこに、小さな火種のようなものを感じる。


何かを――

強く拒絶するような。


私のものではない、誰かの願い。


知らない誰か。

なのに、なぜかずっと一緒にいたような気がする。


どうしても、この願いを聞いてあげたい。

それだけが、今の私にできること。

そう思った。


次の瞬間、私はベッドから飛び出していた。


考えるより先に、身体が動く。

壁に掛けてあったマントを掴み、羽織った。

窓から月明かりが差し込んでいた。

私は迷う間もなくその窓を開け、そのまま夜の中へ飛び出した。


「穢れ火が逃げたぞ! 追え!」


怒声が響く。

ほんの数日だけ暮らした部屋から。


私は振り返らなかった。


それでも、ゲンさんの顔が脳裏をよぎる。


怒っているのか、悲しいのか。

自分でもよく分からなかった。


気づけば、一雫の涙が頬を伝っていた。


胸の奥の火種は、まだ消えていない。


でも、行くあてはない。


私はただ、暗闇の中をがむしゃらに走った。

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