知らない誰かの願い
家に帰ると、ゲンさんはすぐに仕事に取りかかっていた。
カン、カン、と鉄を打つ音が響いている。
私は特にやることもなく、部屋にあった一冊の本を手に取った。
開いてみる。
見たこともない文字なのに、なぜか意味が分かる。
ゲームやアニメを見ていて、「なんで違う国の人と普通に話せるんだろう」と思ったことがある。なんなら、宇宙人とも普通に会話してたりする。
でも、そこを追求すると話がややこしくなるので、考えるのをやめてきた。
でも、まさか自分がそうなるとは思っていなかった。
自分のこととなると、ご都合主義では流せない。
不思議だけど、これも異能なのかもしれない。
……結局、わからない。
考えても仕方がないので、私は本へ視線を戻した。
紙は粗く、文字はすべて手書きだった。
ページには人体の図と、聞いたことのない難しい言葉が並んでいる。
たぶん、医術について書かれた本だ。
この部屋の本当の主――ゲンさんの娘さんの本なのかもしれない。
その後も、特にやることがないまま一日を過ごした。
夜はゲンさんとご飯を食べた。
それから、何かのアニメで見たような大きな金属の樽のお風呂に入り、硬いブラシで歯を磨いて、寝た。
◇
翌朝もゲンさんと一緒に、買い出しと火をもらいに村へ出た。
火を受け取ったあと、ゲンさんは騎士と何かを話していた。
私は先に建物を出た。
その瞬間、頭上で鐘が鳴った。
昨日と同じように、少しずつ人が集まり、火を求める列ができていく。
二度目に見るその光景も、やっぱり私には異様に映った。
しばらくして、ゲンさんが出てきた。
「帰るぞ」
そう言って、ゲンさんは歩き出した。
私はいつものように、その背を追った。
冬の風が冷たい。
「トワ、明日、灰の奴らがお前を西へ逃がす」
ゲンさんの声が、なぜか冷たく聞こえた。
この風のせいだろうか。
「灰って?」
「ああ、レジスタンスの連中だ」
彼の言葉に、私は頷いた。
私は追われている。
蒼炎騎士。
千年後の世界で目を覚ましたあの日、私たちを追っていた人たち。
でも、どうして彼らが私を狙っているのかは、まだ分かっていない。
ただ、思い出す。
私の胸を貫いた剣。
その瞬間、舞い上がった炎。
あの蒼い鎧を着た兵の目。
そして、炎に包まれていく姿。
思い出しただけで、身体に恐怖が走った。
「この辺りは蒼炎教の監視下だ。お前は逃げるべきだ」
ゲンさんの声が、どこか遠くに聞こえた。
蘇った恐怖に身体が強張り、私は何も答えられなかった。
だけど、その声は届いていた。
逃げる。
千年後の世界で、何も分からないまま生きて――私は何をするんだろう。
そんな疑問だけが、胸に残った。
◇
部屋に戻った私は、また暇を持て余していた。
カン、カン、と鉄を打つ音だけが聞こえてくる。
私は昨日読んだ本に目をやった。
医術について書かれた、あの本。
他にすることもなく、私はもう一度ページを開いた。
文字は読めても、内容はほとんど理解できなかった。
それでも、何度も読み返された跡や、ところどころに残された書き込みから、この部屋にいた人の姿が少しだけ見える気がした。
◇
さらに翌日。
この日も、昨日とほとんど変わらなかった。
ゲンさんと火をもらいに行き、家に戻ってからは、カン、カン、と響く鍛冶の音を聞きながら部屋で時間を潰した。
そうしているうちに、いつの間にか夜になっていた。
「娘さんって、今は何してるの?」
夕食中、私はふと尋ねた。
ゲンさんの手が止まった。
「……なんで急に」
「部屋にあった本。医術の本だったから」
「ああ……」
ゲンさんはそれだけ言って、また食事に手をつけた。
「妻が病気で死んでな。それからだ。医者になりたいって、勉強してた」
「今は……」
「……まあ、色々あんだよ」
その後、沈黙が続いた。
やっぱり、聞いちゃいけないことだったのかもしれない。
私は部屋に戻った。
そういえば、騎士たちが言っていた三日の期限は、明日だった。
また朝から、来るのだろうか。
ゲンさんのことが、少し心配だった。
私が余計なことを聞いた、あの瞬間のゲンさんの顔が浮かぶ。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠っていた。
◇
見渡す限り、荒野のような場所が広がっている。
さっきまで寝ていた、あの少し硬いベッドはどこにもない。
ここはどこなんだろう?
私は兵士のような人たちに紛れて立っていた。
そして、その前には、こちらを見つめるいくつかの人影が立っていた。
大男が、叫ぶように声を上げた。
言葉がわからない。
だけど、なんとなく分かった。
これから何かと戦うために、兵たちの士気を上げているのだと。
――進軍。
そんな言葉が、妙にしっくりきた。
たぶん、前に立っている人たちが偉い人なのだろう。
その中に、一人だけ静かに佇む女性がいた。
銀色の髪。
漆黒のドレス。
そして、少し赤みがかった瞳。
この殺風景な荒野には似合わない、綺麗な女の人。
あの人を、私はなぜか知っているような気がする。
そして、その女性の横に立つ男が、なぜか目についた。
まるでゲームに出てくる騎士のような風貌。
銀色の鎧に、蒼い瞳。
綺麗な顔立ちをした男だった。
初めて見るはずなのに、なぜか目を逸らせなかった。
兵たちが動き出した。
よく見ると、みんな傷だらけだった。
どこへ行くんだろう?
私は、これが夢なのだと確信していた。
まだ状況もよく分からないし、誰が誰なのかも分からない。
それでも、少しだけこの夢の続きが楽しみになっていた。
大勢の足音が、やけにリアルに聞こえてくる。
その瞬間、目の前が真っ暗になった。
誰かの声だけが聞こえる。
何を言っているのか、まったく分からない。
それなのに、なぜか悲しそうな声に聞こえた。
そこで、夢は途切れた。
◇
「この部屋だ。眠ってるはずだ」
ゲンさんの声が聞こえた。
目を開ける。
薄い月明かりだけが、部屋を照らしていた。
誰かと話している?
そう思った直後、扉の向こうから足音がした。
一人じゃない。
二人――いや、もっといる。
「生け捕りが命令だ。致命傷は避けろ。穢れし炎を使われるぞ」
知らない男の声がする。
私はまだ、状況がわからなかった。
「娘を……サナを必ず返せ。約束だからな」
ゲンさんの声だった。
そして、その言葉で私は朧げに理解した。
あの騎士たちだろうか。
私を捕らえに来たんだ。
信じたくない。
でも、ゲンさんが――
私は、どうしたらいいんだろう。
この千年後の世界には、私にとって何もない。
だったら、私が捕まることで、ゲンさんの娘が助かるのなら――
それで、いいのかもしれない。
ドアの隙間から、蒼い光が漏れている。
好きにはなれない色だった。
それでも、私はすべてを受け入れるように再び目を閉じようとした。
――その瞬間。
何故だろう。
胸が熱い。
そこに、小さな火種のようなものを感じる。
何かを――
強く拒絶するような。
私のものではない、誰かの願い。
知らない誰か。
なのに、なぜかずっと一緒にいたような気がする。
どうしても、この願いを聞いてあげたい。
それだけが、今の私にできること。
そう思った。
次の瞬間、私はベッドから飛び出していた。
考えるより先に、身体が動く。
壁に掛けてあったマントを掴み、羽織った。
窓から月明かりが差し込んでいた。
私は迷う間もなくその窓を開け、そのまま夜の中へ飛び出した。
「穢れ火が逃げたぞ! 追え!」
怒声が響く。
ほんの数日だけ暮らした部屋から。
私は振り返らなかった。
それでも、ゲンさんの顔が脳裏をよぎる。
怒っているのか、悲しいのか。
自分でもよく分からなかった。
気づけば、一雫の涙が頬を伝っていた。
胸の奥の火種は、まだ消えていない。
でも、行くあてはない。
私はただ、暗闇の中をがむしゃらに走った。




