第十四話「おぼえてろ」
「そろそろ舞踏会が近付いてきましたね」
ローデットは、開口一番そう言った。
「舞踏会、ですか」
ティエスは、興味なさそうに呟いた。
王宮の一室。
ティエスはローデットの講義を受けていた。
少し離れた位置には、記録係の侍従が小机に座っている。
ジルは、壁際に立って、講義の様子を眺めていた。
「お酒は嗜みますか?ティエス・ワールウィンド」
「いいえ。飲める歳ではありますけれど」
ローデットの問いに、ティエスは否定を返す。
水でいいじゃん。派のティエスである。
味が欲しければ、飯を食えと。
ローデットは、透明なグラスを四つ、卓上に並べた。
異なるラベルの瓶を、三つ。水の入ったピッチャーを一つ。
ひとつの瓶を手に取り、グラスに液体を少し、注ぐ。
「これは、清姫といいます。すっきりとした味わいで、水のように喉を通り抜ける、飲みやすいお酒です」
「水でいいじゃん……」
ティエスの呟きは無視された。
「飲みやすいがために、つい、量をわきまえずに飲み過ぎてしまう。とくにあなたは、調子に乗りやすいきらいがあるので気を付けなさい」
ローデットは、ティエスを手招きした。
ティエスは、グラスの置かれた卓の前に立った。
ローデットが、清姫の注がれたグラスを、す、と前に滑らせた。透明な液体が、やんわりと揺れた。
ティエスは、グラスを受け取った。
杯を口元に寄せる。
香りが鼻を撫でる。
ひとひらの花びらが舞うような、淡い匂いだ。
胸の奥が、すっと静まっていく。
ティエスは、ほんの少し、唇を濡らした。
水のようだった。
舌をすべる。喉を抜ける。
喉の奥に、熱を灯した。
もう一口、と杯が傾く。
かっ、と血が身体をめぐる。
ティエスは驚いた。
知らず、飲み干そうとした自分に。
「これは……怖いですね。トーリみたいな酒だ」
ティエスは苦笑を浮かべた。
「分かりますか。清姫の危うさが」
ローデットは口元をゆるめて、水のグラスを差し出した。
ティエスは受け取って、水を飲んで一息ついた。
「他のお酒でも同じこと。飲み過ぎは危険です。自制するように。そして、水を合間に飲むこと」
ローデットの言葉に、ティエスは深く頷いた。
ローデットは、銘柄の異なる瓶を手に取り、グラスに液体を注いだ。
「これは、飛縁魔といいます。口当たりが良く、飲みやすいお酒です。が、悪い酔い方をします」
ティエスが先ほど口をつけた清姫のグラスと、飛縁魔のグラスが並ぶ。
見た目はどちらも無色透明。見分けがつかない。
ローデットが、飛縁魔の注がれたグラスを前に滑らせた。透明な液体が、とろりと揺れた。
ティエスは、グラスを受け取った。
杯を口元に寄せる。
控えめな香りが、鼻先をかすめる。
頭を垂れる稲穂を思わせた。
ティエスは、ひとくち含んだ。
さらりと舌をすべって、喉を抜ける。
熱と。じわりと、苦みが残った。
身体が渇く。
「……肉が食いたくなる」
ティエスは、思わず呟いた。
ローデットは、軽く頷いた。
「飛縁魔は脂と塩を呼ぶでしょう。飲むと、食べたくなる。食べると、飲みたくなる。そうして、引き際を見失う」
ローデットは、ティエスに水のグラスを差し出した。
ティエスは受け取って、ごくりと水を飲んだ。
「水で割られた、清姫と飛縁魔は、とてもよく似ています。公爵令嬢たるあなたに供されるものは、清姫の方でしょうが……。違いは知っておくに越したことはないでしょう」
「多分、わかると思います」
ローデットの言葉に、ティエスは頷いた。
嫌味なくらい上品な酒が、清姫。
肉が食いたい酒が、飛縁魔だ。
身体が温まってきた。
頬に手を当てると、ぽ、と上気しているように感じられた。
ティエスは、水をもう一口含んだ。
ローデットは、ティエスの様子を見やりつつ、三つめの瓶から酒を注いだ。
グラスに透明な液体が、薄く、溜まった。
「これは、滝夜叉といいます。とても強いお酒です。酒精に慣れるまでは、無理に口をつけない方がよいでしょう」
清姫と、飛縁魔と、滝夜叉。
それから水。
どのグラスも、無色透明な液体が注がれていた。
見た目だけで区別することはできないだろう。
ローデットは、滝夜叉のグラスに水を注いだ。
グラスは、七分目ほどまで液体が溜まった。
「匂いですぐにわかります。ゆっくりとグラスを近づけてみなさい」
ローデットが、滝夜叉の注がれたグラスを手のひらで指し示した。
ティエスは受け取って、そっと顔に近付ける。
顔をしかめた。
強い酒精の香りが、鼻の奥を刺激した。
ティエスは、黙って滝夜叉を見つめた。
グラスに口をつけた。
香りが鼻を突き抜ける。
手が滑る。グラスが傾く。舌に刺激が乗る。喉が締まる。
「ぶーっ?!」
ティエスは、酒を噴き出した。
ローデットの顔面に直撃した。
ローデットの顔から、滴がしたたり落ちた。
ティエスのこめかみから、冷や汗がしたたり落ちた。
「やべ。ごめんなさい。申し訳ございません、先生」
「構いません。とても強いお酒だ、と。よく分かったことでしょう」
「━━ふっ」
ジルが失笑をこぼした。
「失礼」
ジルが、ローデットに短く言った。
ローデットは、ちらりとジルを見やった。
ローデットは、鞄から四つ折りにされたハンカチーフを取り出した。
「酒に溺れて自分を見失う、とは古来からよく聞く話です。飲むか飲まないかは、あなたが判断しなさい。ティエス・ワールウィンド」
ローデットは、ハンカチで顔を拭った。
「飲めぬ酒を勧められることもあるでしょう。雰囲気に圧されることもあるでしょう。そんなもの、断ってしまいなさい。人との関係が壊れることよりも、あなた自身が壊れることをこそ恐れなさい」
「わかりました。先生」
ティエスは深く頷いた。
「では、次。踊りの稽古としましょうか。あなたが相手を務めるが良いでしょう」
ローデットは、ジルに身体を向けた。
「私ですか。構いませんが」
ジルは淡々と答えた。
ティエスは、メイドってなんでも出来るんだな、と思った。
講義室の、広い空間。
窓から差し込む日差しに、床の磨かれた木目が光っている。
ティエスとジルは、向かい合って、立った。
いつも通りの無表情なジルが、ティエスに左手を差し伸べる。
ティエスは、右手を伸ばしてつなぎ、左手をジルの肩に添えた。
「合ってる?」
「はい」
ジルは、短く返答すると、右手をティエスの背に回した。
「基本のワルツは三拍子です。一、二、三。一、二、三。右、左、右。左、右、左。後ろ、横、揃える。前、横、揃える」
ローデットが手を叩く。
「うーん、頭では分かってますけど……」
ティエスは渋面を浮かべた。
「余裕の顔をしておきなさい。ティエス・ワールウィンド。あなたが足運びを多少間違えたとて、堂々としていれば周りは気に留めません」
「そんなこと言われましても」
なおも渋るティエス。
「では、実践。一、二、三。一、二、三」
ローデットは、容赦なく手を叩く。
ティエスとジルは、足を運ぶ。
ティエスは、ジルの靴を踏んだ。
「痛いです」
ジルは無表情のまま訴えた。
「ごめん」
「顔を下げない」
思わず足元に視線が向くティエスに、ローデットの指導が飛ぶ。
「踏んで覚えたら良いのです。間違えても堂々としておきなさい」
「……他意は、ないんですよね?」
ジルは、ローデットに半目を向けた。
「もちろん」
ある。
ローデットは片眉を上げた。
「…………」
ジルは、前を向いたまま、しかし視線はローデットに向けていた。
ティエスは、しっかりと顔を上げていた。
だから、ジルが声を上げずに唇を動かしているところが見えていた。
侍従は、どう報告したものか、眉間の皺を揉みほぐした。




