違和
外へ出た瞬間、夜の熱気が肌にまとわりついた。
笑い声と呼び込みが重なり、外の世界は変わらぬ賑わいを保っていた。
だが、その中へ踏み込んだ瞬間――ほんの僅かに流れが歪む。
誰かが足を止め、目を逸らす。
誰かが、無意識に道を空ける。
面を外した千金楽へと、視線が集まる。
酷く露骨に押し殺された囁きと、息を呑む気配が、静かに広がっていく。
水面に走る薄い波紋のように、音もなく。
「……あー」
篁鈴はその変化を横目で拾いながら、わざとらしく肩を回した。
「甘いもん食べたら、しょっぱいもん食べたくなったわ! 行こうぜ!」
何も見ていないような、何も気にしていないような声音で、そのまま振り返らずに歩き出す。
「……そう」
短く落として、千金楽も続いた。
流れはまだ歪んでいる。
だが篁鈴はそれすら夜のざわめきに紛れさせるように歩く。
匂いを辿るように鼻を鳴らしながら、楽しげに先を行く。
「こっち、なんか焼いてる匂いしてたんだよな。多分、串だろ」
千金楽は何も言わない。
ただ一歩だけ歩幅を早め、隣へ並んだ。
やがて、炭の煙が見えた。
油が弾け、串が焼ける音が細かく響く。
「ほら、やっぱあった。絶対うまいわ、これ」
煙の向こう、提灯の光に滲む屋台。
人影が行き交い、夜の一番街がそこに収まっている。
「……いい匂いね」
ぽつり、と。
「だろ? こういうのはな、夜の方がぜってえうまいんだよ」
千金楽がちらりと篁鈴へと視線を上げる。
「根拠はねえけどなあ」
篁鈴は勝手に答えてけらけらと笑った。
千金楽はそれ以上何も言わない。
鈴の音だけが、またひとつ混ざった。
――そのとき。
「……なあ」
篁鈴の声が、少しだけ落ちる。
「さっきから気になってたんだけどよ」
「……なに」
「お前の後ろ。なんか、動いてねえ?」
足が、ほんのわずかに止まる。
だが、彼女は振り返らない。
「何が」
「何がって。ほら、そこ。ついてきてるやつ」
足を止め、それからゆるりと振り返る。
そこに、“それ”はあった。
輪郭は曖昧で、人の形に似ている。
だが定まらず、光の下にあるのに色がない。
ただ、ゆらゆらと存在だけが揺れていた。
「……」
「……なんだよ、それ」
篁鈴の声が低くなる。
千金楽は少しだけ見て、それから視線を外した。
「……影よ」
それだけだった。
「影?」
「……昔からいる」
説明は、続かない。
篁鈴はもう一度それを見た。
はっきりとは見えない。
ただ、空気の歪みと、そこに“何かがいる”感覚だけが残る。
「……亡者じゃねえよな」
「違うわ」
「じゃあ何だよ」
彼女からの答えは返らない。
代わりに、影がゆらりと揺れた。
千金楽の方へ寄る。
「……おい」
篁鈴の視線が鋭くなる。
「……」
千金楽は一歩も動かず、だが、ただそこに在るものとして見ていた。
影はそのまま近づき、すぐ傍で形をぐにゃりと崩す。
「……近づいてねえ?」
「……平気よ」
「ほんとかよ」
「害はない」
即答だった。
篁鈴は眉を寄せたまま、しばらくして、ぽつりと零す。
「……これ、皆見えてねえのか」
周囲は変わらず流れている。
誰も気づかない、まるで最初から何もないかのように。
「……見えないでしょうね」
「普通は、ってか」
そこでようやく、千金楽がわずかに視線を篁鈴へと向けた。
「……見えているの?」
「ぼんやりな。モヤみたいに」
それを聞いた千金楽の目が、ほんの僅かに細まる。
「……貴方、夜にこっちに居るってことは神使よね?」
「は?」
「人間が、夜に此方へは居られないわ」
淡々とした声だった。
警告でも、忠告でもない。
ただ、そういうものとして在るだけだった。
「……ああ、そういうことな」
「……神使じゃなかったりしてね」
「は? 何それ」
短い沈黙が落ちる。
その間にも、影は揺れていた。
そしてわずかに――だが、明確に篁鈴の方へと影が寄る。
空気が軋んだ気がした。
「……なんだよ。これ」
「……変ね」
それ以上、踏み込まない、否踏み込ませないというようにくるりと、背を向けた。
「……行くわよ」
「おい、放っといていいのか?」
「……今は」
そう軽く返して、歩き出す。
影は意外にもその場から動かなかった。
揺れたまま、定まらないまま、それでもほんの僅かに二人の方を向いている気がした。
「……姉さん、お迎えにあがりましたよ」
不意に、頭上から声が落ちた。
「俺ら忙しいってのに面倒くせえ事させんじゃねえよ」
同時に、気配が割り込む。
次の瞬間には――刃が、篁鈴の首元へ添えられていた。
「……は?」
わずかに篁鈴の息が止まる。
「面、返してくれねえ?」
軽い声だった。
だが、その軽さと裏腹に、指先に迷いはない。
皮膚に、冷たい感触が触れている。
「……怖えなあ」
篁鈴は苦笑いを浮かべる。
「何、俺殺されんの?」
「さあ?」
男がにやり、と笑う。
ほんの僅かに、刃先が押し当てられ、篁鈴の皮膚から僅かに血が流れた。
「鶴松、離しなさい」
低く、千金楽の声が落ちた。
それは一切の感情を乗せない、命令。
「……へえ」
鶴松は目を細める。
「どうしたの、本気で誑かされちゃった?」
それに松鶴が口元をニヤリと歪めながら横槍を入れた。
「鶴松」
もう一度、千金楽が名前を呼ぶ。
「……ちっ」
舌打ちが落ち、篁鈴の首に充てがわれていた刃がすっと引かれた。
「面倒くせえな」
「はいはい」
松鶴の声が割り込み、気づけば篁鈴の懐に入り込んでいた。
「返すよ」
ひょい、と。
白い兎の面が宙を描く。
千金楽はそれを受け取り、迷いなく被った。
――空気が、変わる。
さっきまでの柔らかさが、すっと消えた。
「……行くわ」
それだけだった。
「おい」
篁鈴が声をかけるが、彼女の足は止まらない。
「先に姉さんを連れていって」
と松鶴が鶴松へ言う。
「はあ? なんで俺が」
「まあまあ、いいじゃない。後で鶴松の好きそうな女の子連れてきてあげるから」
「へえ、言質取ったからな!」
軽い笑いが弾け、そのまま鶴松は千金楽をひょいと乗せて連れていく。
残されたのは、夜の灯りとざわめき。
篁鈴はしばらくその場に立ったまま前を見ていた。
そこへ背後から、軽い声が落ちる。
「ねえ、お兄さん」
「なんだよ」
振り返らないまま返す。
「姉さんのこと、なあんにも知らないんだね」
「は?」
「恐れ知らずというか、無知っていうか。まあ、馬鹿なことはよく分かったよ」
篁鈴の目がわずかに細まる。
「……あれ、鬼だよ」
「噂だろ」
即答だった。
「別にそう思うのは勝手だけど。ただ、現実をよく見たほうがいい」
松鶴はまるで馬鹿にしたように嘲るような口調で続ける。
「“あれ”は、神でも亡者でも人でもない。鬼の子なんだよ」
風が抜けた。
次の瞬間には羽音だけを残して、その気配も消えていた。
「……鬼ねえ。上等じゃねえか」
首元から滲んだ血を、手の甲で拭いながら篁鈴は一人、くつりと笑った。




