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六番街一番勝負  作者: 百助蝶子
二章
13/14

違和

外へ出た瞬間、夜の熱気が肌にまとわりついた。

笑い声と呼び込みが重なり、外の世界は変わらぬ賑わいを保っていた。


だが、その中へ踏み込んだ瞬間――ほんの僅かに流れが歪む。


誰かが足を止め、目を逸らす。

誰かが、無意識に道を空ける。


面を外した千金楽へと、視線が集まる。


酷く露骨に押し殺された囁きと、息を呑む気配が、静かに広がっていく。

水面に走る薄い波紋のように、音もなく。


「……あー」


篁鈴はその変化を横目で拾いながら、わざとらしく肩を回した。


「甘いもん食べたら、しょっぱいもん食べたくなったわ! 行こうぜ!」


何も見ていないような、何も気にしていないような声音で、そのまま振り返らずに歩き出す。


「……そう」


短く落として、千金楽も続いた。


流れはまだ歪んでいる。

だが篁鈴はそれすら夜のざわめきに紛れさせるように歩く。

匂いを辿るように鼻を鳴らしながら、楽しげに先を行く。


「こっち、なんか焼いてる匂いしてたんだよな。多分、串だろ」


千金楽は何も言わない。

ただ一歩だけ歩幅を早め、隣へ並んだ。


やがて、炭の煙が見えた。

油が弾け、串が焼ける音が細かく響く。


「ほら、やっぱあった。絶対うまいわ、これ」


煙の向こう、提灯の光に滲む屋台。

人影が行き交い、夜の一番街がそこに収まっている。


「……いい匂いね」


ぽつり、と。


「だろ? こういうのはな、夜の方がぜってえうまいんだよ」


千金楽がちらりと篁鈴へと視線を上げる。


「根拠はねえけどなあ」


篁鈴は勝手に答えてけらけらと笑った。


千金楽はそれ以上何も言わない。

鈴の音だけが、またひとつ混ざった。



――そのとき。


「……なあ」


篁鈴の声が、少しだけ落ちる。


「さっきから気になってたんだけどよ」


「……なに」


「お前の後ろ。なんか、動いてねえ?」


足が、ほんのわずかに止まる。


だが、彼女は振り返らない。


「何が」


「何がって。ほら、そこ。ついてきてるやつ」


足を止め、それからゆるりと振り返る。


そこに、“それ”はあった。


輪郭は曖昧で、人の形に似ている。

だが定まらず、光の下にあるのに色がない。

ただ、ゆらゆらと存在だけが揺れていた。


「……」


「……なんだよ、それ」


篁鈴の声が低くなる。


千金楽は少しだけ見て、それから視線を外した。


「……影よ」


それだけだった。


「影?」


「……昔からいる」


説明は、続かない。


篁鈴はもう一度それを見た。

はっきりとは見えない。

ただ、空気の歪みと、そこに“何かがいる”感覚だけが残る。


「……亡者じゃねえよな」


「違うわ」


「じゃあ何だよ」


彼女からの答えは返らない。


代わりに、影がゆらりと揺れた。


千金楽の方へ寄る。


「……おい」


篁鈴の視線が鋭くなる。


「……」


千金楽は一歩も動かず、だが、ただそこに在るものとして見ていた。


影はそのまま近づき、すぐ傍で形をぐにゃりと崩す。


「……近づいてねえ?」


「……平気よ」


「ほんとかよ」


「害はない」


即答だった。


篁鈴は眉を寄せたまま、しばらくして、ぽつりと零す。


「……これ、皆見えてねえのか」


周囲は変わらず流れている。

誰も気づかない、まるで最初から何もないかのように。


「……見えないでしょうね」


「普通は、ってか」


そこでようやく、千金楽がわずかに視線を篁鈴へと向けた。


「……見えているの?」


「ぼんやりな。モヤみたいに」


それを聞いた千金楽の目が、ほんの僅かに細まる。


「……貴方、夜にこっちに居るってことは神使よね?」


「は?」


「人間が、夜に此方へは居られないわ」


淡々とした声だった。


警告でも、忠告でもない。

ただ、そういうものとして在るだけだった。


「……ああ、そういうことな」


「……神使じゃなかったりしてね」


「は? 何それ」


短い沈黙が落ちる。

その間にも、影は揺れていた。


そしてわずかに――だが、明確に篁鈴の方へと影が寄る。


空気が軋んだ気がした。


「……なんだよ。これ」


「……変ね」


それ以上、踏み込まない、否踏み込ませないというようにくるりと、背を向けた。


「……行くわよ」


「おい、放っといていいのか?」


「……今は」


そう軽く返して、歩き出す。


影は意外にもその場から動かなかった。


揺れたまま、定まらないまま、それでもほんの僅かに二人の方を向いている気がした。



「……姉さん、お迎えにあがりましたよ」


不意に、頭上から声が落ちた。


「俺ら忙しいってのに面倒くせえ事させんじゃねえよ」


同時に、気配が割り込む。


次の瞬間には――刃が、篁鈴の首元へ添えられていた。


「……は?」


わずかに篁鈴の息が止まる。


「面、返してくれねえ?」


軽い声だった。

だが、その軽さと裏腹に、指先に迷いはない。

皮膚に、冷たい感触が触れている。


「……怖えなあ」


篁鈴は苦笑いを浮かべる。


「何、俺殺されんの?」


「さあ?」


男がにやり、と笑う。

ほんの僅かに、刃先が押し当てられ、篁鈴の皮膚から僅かに血が流れた。


「鶴松、離しなさい」


低く、千金楽の声が落ちた。


それは一切の感情を乗せない、命令。


「……へえ」


鶴松は目を細める。


「どうしたの、本気で誑かされちゃった?」


それに松鶴が口元をニヤリと歪めながら横槍を入れた。


「鶴松」


もう一度、千金楽が名前を呼ぶ。


「……ちっ」


舌打ちが落ち、篁鈴の首に充てがわれていた刃がすっと引かれた。


「面倒くせえな」


「はいはい」


松鶴の声が割り込み、気づけば篁鈴の懐に入り込んでいた。


「返すよ」


ひょい、と。

白い兎の面が宙を描く。

千金楽はそれを受け取り、迷いなく被った。


――空気が、変わる。

さっきまでの柔らかさが、すっと消えた。


「……行くわ」


それだけだった。


「おい」


篁鈴が声をかけるが、彼女の足は止まらない。


「先に姉さんを連れていって」


と松鶴が鶴松へ言う。


「はあ? なんで俺が」


「まあまあ、いいじゃない。後で鶴松の好きそうな女の子連れてきてあげるから」


「へえ、言質取ったからな!」


軽い笑いが弾け、そのまま鶴松は千金楽をひょいと乗せて連れていく。


残されたのは、夜の灯りとざわめき。

篁鈴はしばらくその場に立ったまま前を見ていた。


そこへ背後から、軽い声が落ちる。


「ねえ、お兄さん」


「なんだよ」


振り返らないまま返す。


「姉さんのこと、なあんにも知らないんだね」


「は?」


「恐れ知らずというか、無知っていうか。まあ、馬鹿なことはよく分かったよ」


篁鈴の目がわずかに細まる。


「……あれ、鬼だよ」


「噂だろ」


即答だった。


「別にそう思うのは勝手だけど。ただ、現実をよく見たほうがいい」


松鶴はまるで馬鹿にしたように嘲るような口調で続ける。


「“あれ”は、神でも亡者でも人でもない。鬼の子なんだよ」


風が抜けた。

次の瞬間には羽音だけを残して、その気配も消えていた。



「……鬼ねえ。上等じゃねえか」


首元から滲んだ血を、手の甲で拭いながら篁鈴は一人、くつりと笑った。

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