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六番街一番勝負  作者: 百助蝶子
二章
11/14

帰還

――空気が、沈む。


ざわり、と場の温度が遅れて落ちていき、淀みとは別の重たい圧が静かに広がる。


“それ”は、現れた。


最初からそこに居たかのように、音も気配も伴わず、だが周囲にいた者たちの意識が一斉にそこへ引き寄せられる。


誰かが息を呑む音が、小さく、しかしやけに鮮明に響いた。


黒衣の男――蛇尾は、足音ひとつ立てることなくそこに立っていた。

ただ視線だけを静かに落として、篁鈴の腕の中にある“それ”を見ている。


「……あんたが、蛇尾様っすか?」


場違いなほど軽い声が、沈んだ空気の上を滑るように広がる。


篁鈴は肩の力を抜いたまま、いつもと変わらない調子で口を開き、その声音だけがこの場の重さをわずかに歪めていた。


「……ああ」


短い返答は低く、その一言だけで周囲のざわめきがさらに奥へ押し込められる。


「なんか、ずっと兄貴のこと呼んでたんすけど」


篁鈴は腕の中の千金楽をわずかに抱え直せば、衣の擦れる乾いた音が小さく鳴った。


「これ、大丈夫そうっすか?」


沈黙が落ちる。


返答はなく、その代わりに蛇尾が一歩、音を立てることなく距離を詰めた。

その動きに合わせて場の空気が押し込められるように密度を増し、逃げ場が静かに削られていく。


そして、迷いのない動きで手が伸びた。


「此方へ」


その一言だけで、場の主導権は完全に移る。


篁鈴は一瞬だけ眉を上げるものの、すぐに肩を竦めて力を抜く。


「はいはい」


軽い返事を返しながら千金楽の身体を差し出すと、腕から重みが抜けるのと同時にわずかに体勢が戻る。


「……」


蛇尾はそれを受け取り、抱き寄せるでも掴み上げるでもなく、ただ位置を定めるように抱え上げた。


視線が落ちる。


呼吸の浅さ、脈の揺れ、呪詛の流れ。


それらを一つずつ拾い上げるように確認しながら、


「……問題ない」


と、ぽつりと落とす。


蛇尾のただの事実確認のようなそれに篁鈴が小さく笑い、足元の灰がその重みでかすかに沈む。


「……そういうもんっすか?こいつ、だいぶイカれてましたけど」


「此度の迅速な対応、感謝する」


蛇尾は篁鈴の問には答えず、淡々と対応する。


そのとき。


ぴくり、と。


千金楽の指先が、わずかに動いた。


力の抜けたままの手が空を探るように持ち上がり、やがて蛇尾の袖口に触れる。そのまま弱い力でぎゅ、と掴むと、衣がわずかに引かれた。


「……兄様」


掠れた声が、呼吸に混じって落ちる。


「兄様」


繰り返す。


縋るように。


それでも蛇尾は振りほどくことも、応じることもなく、ただその手を掴ませたままにして、その状態を一切崩さずに見下ろしていた。


「……下がれ」


低い声が周囲へ向けて放たれる。

それは理由もなく命令として機能し、付与者たちは一斉に後退り、布の擦れる音や足音が重なりながら、逃げるように場を空けていく。


残されたのは、二人と、小さな少女。


場の音はほとんど消えていた。


「……お前」


蛇尾が呼ぶ。


視線はまだ落ちたまま。


「ん?」


篁鈴は軽く返し、その場から動かない。


「……お前か」


「これに、干渉したのは」


篁鈴の眉がぴくりと動き、口元が少しだけ歪む。


「これ、ね。そういう呼び方するんすね」


蛇尾は何も言わない。


空気だけが、わずかに張る。


「まあ、関わりましたけど」


篁鈴は肩を竦め、足先で灰を軽く蹴る。


「でもさっきのあれ、俺のせいってより」


視線を落とし、千金楽の袖を掴んだままの手を一瞥する。


「どう見ても、元から均衡崩れてたでしょうよ」


沈黙が重く落ちる。


「……離れろ」


短く、切りすてるように。


「これ以上、介入するな」


「……揺らすな」


「――保たない」


そして、静かに言い切った。


「――戻らなくなる」


音が、消える。


篁鈴は少しだけ目を細め、息を吐くように嘲笑した。


「……揺らすな、ねえ」


「そんな繊細なもんなら、こんなことさせないほうか良いんじゃないっすか」


空気が軋む。


それでも篁鈴は止まらない。


「ていうか、ずいぶん雑に扱うんすね」


と続けると、蛇尾の視線がゆっくりと上がる。


「そのくせ、他人が干渉するのは嫌なんだ」


心底馬鹿にしたような棘のある言い方だった。


「面倒くせえな、あんた」


空気がさらに沈む。


篁鈴を捉えるその視線は完全に冷え切っていた。


「余計なことを言うな。面倒が増える」


「……はは」


篁鈴は笑い、肩を竦めながら足元の灰を踏む。


「便利っすね、それ」


口元に笑みを携えたまま視線は千金楽へ向ける。


「そう言っときゃ、見たくねえもん見ないで済む」


「それ以上を口にするな」


冷淡な口調はそのままに、だがすっと後ろを向いた。


「……兄様って呼ばれてんのに、随分冷いんすね」


蛇尾は千金楽を抱えたまま歩き出す。

これ以上は無意味だと言うように。

まるで篁鈴から、この男の言葉から逃げるように。


「それとも、そうしないと困るんすか」


蛇尾の足がぴたりと止まる。


「それ以上、近づくな」


次の瞬間、蛇尾の姿は音もなく消えた。残されたのは静寂だけで、灰がゆっくりと落ちていく。


篁鈴はしばらくその場に立ち尽くし、やがて頭を掻き、乾いた音を立てながら小さく呟く。


「……これ、ねえ」


小さく笑う。


だが、その目はほんのわずかに細められていた。




―――そして。


音は、ない。

足裏にあったはずの石畳の硬い感触は消え失せ、代わりに深く積もる灰のせいで足元の境が曖昧になる。


六番街――地獄に最も近い場所であり、淀みが常に、薄く滲むように空間の端に漂っていた。


蛇尾は何も言わない。

腕の中の千金楽は、意識は戻っていないまま、ただ浅い呼吸だけがかすかに上下を繰り返している。


軽い軽い、その身体。


抱えているはずなのに重みが定まらず、まるで中身が抜け落ちているかのように、外側だけがそこにあるような感触だけが腕に残る。


歩みは止まらない。

一定の速度で、迷いもなく進んでいく。


六番街はまるで小さな箱庭だった。

他の街に比べ、千金楽に充てがわれた寝床以外の建造物は無く、人の気配はどこにもない。

灯りも五番街と六番街の境に揺れる提灯が数個だけ。

疎らで、かろうじて残る淡い光が地面に長い影を引き伸ばしていた。


音がないせいで、衣擦れの音だけがかすかに耳に残る。


そのとき。


「……兄様」


掠れた声が、ふと落ちた。


瞼は閉じたまま。

それでも袖を掴む細い指先は弱い力でありながら、確かに離そうとしない意思だけがそこに残っている。


蛇尾は視線を落とす。掴まれた袖、その指先、声の残響。それらをただ確認するように見下ろすだけで、何も言わない。振りほどくことも、応じることもなく、ただその状態を変えずに受け入れている。


周囲の静寂はさらに深くなり、やがて、ほんの一瞬だけ足が止まる。


それは意識的なものか、それとも無意識かも分からないほどの僅かな間で、すぐに歩き出した。


腕の中の手は、まだ離れない。


だが、次第に力が弱まっていく。


呼吸が浅くなり、指先の力がほどけるように緩み、掴んでいた袖からゆるやかに離れていく。その動きは抗うものではなく、ただ重力に従うように自然にするりと落ちた。


蛇尾は、再び足を止めた。

今度はぴたり、と。


落ちていく指先を、見る。

もう、掴んでいない。

そこには、何も残っていない。


何も言わず、ただ、そのまま千金楽の身体を抱え直し、崩れないように、落ちないようにと確実に腕の中へと収め直す。


やがて、再び歩き出す。


進む先に、建物の影が落ちる。

嫌でも視界に入る六番街には似つかわしくない重厚な門が、僅かに蛇尾の癪に障った。

だが、蛇尾はそのまま足を止めることなく、千金楽の住処へと入っていく。


この腕の中に眠る、小さな少女を――元の場所へと戻すために。


蛇尾は足を止めることなく奥へ進み、やがて簡素な寝台の前でわずかに歩みを緩める。

腕の中の重みは相変わらず曖昧で、抱えているはずなのに確かな質量として感じられず、それでも落とさないように、崩さないようにと何も言わないまま、その身体を静かに降ろした。

ただ“そこに在るべき位置へ戻す”ように、ほとんど音もなく寝台へと寝かせると、布がわずかに沈み、その形を受け止めた。

そのとき、指先が、ぴくりと揺れた。

それは反射のようにも見えたが、遅れて瞼がわずかに震え、浅く乱れていた呼吸が喉の奥で絡まりながら、かすかな音を伴って上下を繰り返し始める。


やがて、ゆっくりと目が開いた。


焦点は合っていない。

天井を映しているはずなのに、その視線はどこにも定まらず、ただ空白をなぞるように揺れている。

だが、ゆるりと視線が動き、蛇尾の立つほうへと辿り着いたとき、わずかに千金楽の意識が繋がる。


「……兄様」


かすれた声が、重たい空気の底へと沈む。

先ほどの無意識の反復とは違い、今度は確かに意志があった。


「……兄様、わたしまた何かしたのね?」


ぽつり、と落ちる言葉は遅く、不確かで、それでも確信だけは含んでいる。

記憶は繋がらない。

何があったのかも、どこにいたのかも、形としては残っていない。

だが、そこにあったものが“良くないもの”だったことだけは、感触として千金楽の中へと残っていた。


「ごめんなさい」


続く声は小さく、それでいて迷いがない。

理由を知らずとも、そうするべきだと知っているかのような、自然な謝罪だった。

蛇尾はその言葉にすぐには応じない。

ただ静かに視線を落とし、その瞳と声の揺れ、記憶の欠落と感覚だけが残っている状態を、何も逃さないように捉えている。


わずかな間のあと、空気がほんの少しだけ緩む。


「……大丈夫だ」


低く、只々緩やかに甘い声音だった。


「お前は何も悪くない」


断定だった。


疑う余地を与えない言い方で、あまりにも自然に、嘘が置かれる。


だが、この空間ではそれが歪みなく馴染んでいた。

否定も、違和も生まれないように整えられた言葉に千金楽の瞳が、わずかに揺れる。

何も悪くなかったなど、そんなことがあるわけ無いと、千金楽には手に取るように分かっていた。

だが、引っかかっていたものがほどけるように、呼吸がゆるやかに変わる。


「……そう」


小さく、息が抜ける。


身体の力が抜け、寝台へと重さを預けるように沈む。

ただ静かに、すべてを受け止めているかのように、にへらと笑みを溢した。


「……兄様は嘘が下手ね」


「……少し、眠れ」


蛇尾の声は変わらず低いが、先ほどまでの冷たさはない。

命じるでも、強制するでもなく、ただ“そうあるべき状態”へと導くように言葉が穏やかに落とされる。


「……そうねえ」


千金楽の瞼がゆっくりと下りていく。

意識は抗うことなく、そのまま沈んでいく。


「……おきたら、いっしょに、……あめだま、たべよう、ねえ……」


途切れながら溢れる言葉はどこか幼く、現実からわずかにずれた柔らかさを含んでいた。


「……ああ」


やがて呼吸が整い、浅く乱れていたそれが、ゆるやかに均されていく。


完全な眠りだった。


蛇尾はそのまま動かず、ただ見下ろすでもなく、そこに在ることだけを静かに見守るように、視線を落とし続ける。


外界とは違い、この場所では何も崩れない。

何も乱れない。


千金楽の衣の端をわずかに整える。


やがて蛇尾は、静かに視線を上げる。


何も起きない。

何も壊れない。


ただ、この場所だけが、歪んだまま“保たれている”。


――それだけだった。


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