帰還
――空気が、沈む。
ざわり、と場の温度が遅れて落ちていき、淀みとは別の重たい圧が静かに広がる。
“それ”は、現れた。
最初からそこに居たかのように、音も気配も伴わず、だが周囲にいた者たちの意識が一斉にそこへ引き寄せられる。
誰かが息を呑む音が、小さく、しかしやけに鮮明に響いた。
黒衣の男――蛇尾は、足音ひとつ立てることなくそこに立っていた。
ただ視線だけを静かに落として、篁鈴の腕の中にある“それ”を見ている。
「……あんたが、蛇尾様っすか?」
場違いなほど軽い声が、沈んだ空気の上を滑るように広がる。
篁鈴は肩の力を抜いたまま、いつもと変わらない調子で口を開き、その声音だけがこの場の重さをわずかに歪めていた。
「……ああ」
短い返答は低く、その一言だけで周囲のざわめきがさらに奥へ押し込められる。
「なんか、ずっと兄貴のこと呼んでたんすけど」
篁鈴は腕の中の千金楽をわずかに抱え直せば、衣の擦れる乾いた音が小さく鳴った。
「これ、大丈夫そうっすか?」
沈黙が落ちる。
返答はなく、その代わりに蛇尾が一歩、音を立てることなく距離を詰めた。
その動きに合わせて場の空気が押し込められるように密度を増し、逃げ場が静かに削られていく。
そして、迷いのない動きで手が伸びた。
「此方へ」
その一言だけで、場の主導権は完全に移る。
篁鈴は一瞬だけ眉を上げるものの、すぐに肩を竦めて力を抜く。
「はいはい」
軽い返事を返しながら千金楽の身体を差し出すと、腕から重みが抜けるのと同時にわずかに体勢が戻る。
「……」
蛇尾はそれを受け取り、抱き寄せるでも掴み上げるでもなく、ただ位置を定めるように抱え上げた。
視線が落ちる。
呼吸の浅さ、脈の揺れ、呪詛の流れ。
それらを一つずつ拾い上げるように確認しながら、
「……問題ない」
と、ぽつりと落とす。
蛇尾のただの事実確認のようなそれに篁鈴が小さく笑い、足元の灰がその重みでかすかに沈む。
「……そういうもんっすか?こいつ、だいぶイカれてましたけど」
「此度の迅速な対応、感謝する」
蛇尾は篁鈴の問には答えず、淡々と対応する。
そのとき。
ぴくり、と。
千金楽の指先が、わずかに動いた。
力の抜けたままの手が空を探るように持ち上がり、やがて蛇尾の袖口に触れる。そのまま弱い力でぎゅ、と掴むと、衣がわずかに引かれた。
「……兄様」
掠れた声が、呼吸に混じって落ちる。
「兄様」
繰り返す。
縋るように。
それでも蛇尾は振りほどくことも、応じることもなく、ただその手を掴ませたままにして、その状態を一切崩さずに見下ろしていた。
「……下がれ」
低い声が周囲へ向けて放たれる。
それは理由もなく命令として機能し、付与者たちは一斉に後退り、布の擦れる音や足音が重なりながら、逃げるように場を空けていく。
残されたのは、二人と、小さな少女。
場の音はほとんど消えていた。
「……お前」
蛇尾が呼ぶ。
視線はまだ落ちたまま。
「ん?」
篁鈴は軽く返し、その場から動かない。
「……お前か」
「これに、干渉したのは」
篁鈴の眉がぴくりと動き、口元が少しだけ歪む。
「これ、ね。そういう呼び方するんすね」
蛇尾は何も言わない。
空気だけが、わずかに張る。
「まあ、関わりましたけど」
篁鈴は肩を竦め、足先で灰を軽く蹴る。
「でもさっきのあれ、俺のせいってより」
視線を落とし、千金楽の袖を掴んだままの手を一瞥する。
「どう見ても、元から均衡崩れてたでしょうよ」
沈黙が重く落ちる。
「……離れろ」
短く、切りすてるように。
「これ以上、介入するな」
「……揺らすな」
「――保たない」
そして、静かに言い切った。
「――戻らなくなる」
音が、消える。
篁鈴は少しだけ目を細め、息を吐くように嘲笑した。
「……揺らすな、ねえ」
「そんな繊細なもんなら、こんなことさせないほうか良いんじゃないっすか」
空気が軋む。
それでも篁鈴は止まらない。
「ていうか、ずいぶん雑に扱うんすね」
と続けると、蛇尾の視線がゆっくりと上がる。
「そのくせ、他人が干渉するのは嫌なんだ」
心底馬鹿にしたような棘のある言い方だった。
「面倒くせえな、あんた」
空気がさらに沈む。
篁鈴を捉えるその視線は完全に冷え切っていた。
「余計なことを言うな。面倒が増える」
「……はは」
篁鈴は笑い、肩を竦めながら足元の灰を踏む。
「便利っすね、それ」
口元に笑みを携えたまま視線は千金楽へ向ける。
「そう言っときゃ、見たくねえもん見ないで済む」
「それ以上を口にするな」
冷淡な口調はそのままに、だがすっと後ろを向いた。
「……兄様って呼ばれてんのに、随分冷いんすね」
蛇尾は千金楽を抱えたまま歩き出す。
これ以上は無意味だと言うように。
まるで篁鈴から、この男の言葉から逃げるように。
「それとも、そうしないと困るんすか」
蛇尾の足がぴたりと止まる。
「それ以上、近づくな」
次の瞬間、蛇尾の姿は音もなく消えた。残されたのは静寂だけで、灰がゆっくりと落ちていく。
篁鈴はしばらくその場に立ち尽くし、やがて頭を掻き、乾いた音を立てながら小さく呟く。
「……これ、ねえ」
小さく笑う。
だが、その目はほんのわずかに細められていた。
―――そして。
音は、ない。
足裏にあったはずの石畳の硬い感触は消え失せ、代わりに深く積もる灰のせいで足元の境が曖昧になる。
六番街――地獄に最も近い場所であり、淀みが常に、薄く滲むように空間の端に漂っていた。
蛇尾は何も言わない。
腕の中の千金楽は、意識は戻っていないまま、ただ浅い呼吸だけがかすかに上下を繰り返している。
軽い軽い、その身体。
抱えているはずなのに重みが定まらず、まるで中身が抜け落ちているかのように、外側だけがそこにあるような感触だけが腕に残る。
歩みは止まらない。
一定の速度で、迷いもなく進んでいく。
六番街はまるで小さな箱庭だった。
他の街に比べ、千金楽に充てがわれた寝床以外の建造物は無く、人の気配はどこにもない。
灯りも五番街と六番街の境に揺れる提灯が数個だけ。
疎らで、かろうじて残る淡い光が地面に長い影を引き伸ばしていた。
音がないせいで、衣擦れの音だけがかすかに耳に残る。
そのとき。
「……兄様」
掠れた声が、ふと落ちた。
瞼は閉じたまま。
それでも袖を掴む細い指先は弱い力でありながら、確かに離そうとしない意思だけがそこに残っている。
蛇尾は視線を落とす。掴まれた袖、その指先、声の残響。それらをただ確認するように見下ろすだけで、何も言わない。振りほどくことも、応じることもなく、ただその状態を変えずに受け入れている。
周囲の静寂はさらに深くなり、やがて、ほんの一瞬だけ足が止まる。
それは意識的なものか、それとも無意識かも分からないほどの僅かな間で、すぐに歩き出した。
腕の中の手は、まだ離れない。
だが、次第に力が弱まっていく。
呼吸が浅くなり、指先の力がほどけるように緩み、掴んでいた袖からゆるやかに離れていく。その動きは抗うものではなく、ただ重力に従うように自然にするりと落ちた。
蛇尾は、再び足を止めた。
今度はぴたり、と。
落ちていく指先を、見る。
もう、掴んでいない。
そこには、何も残っていない。
何も言わず、ただ、そのまま千金楽の身体を抱え直し、崩れないように、落ちないようにと確実に腕の中へと収め直す。
やがて、再び歩き出す。
進む先に、建物の影が落ちる。
嫌でも視界に入る六番街には似つかわしくない重厚な門が、僅かに蛇尾の癪に障った。
だが、蛇尾はそのまま足を止めることなく、千金楽の住処へと入っていく。
この腕の中に眠る、小さな少女を――元の場所へと戻すために。
蛇尾は足を止めることなく奥へ進み、やがて簡素な寝台の前でわずかに歩みを緩める。
腕の中の重みは相変わらず曖昧で、抱えているはずなのに確かな質量として感じられず、それでも落とさないように、崩さないようにと何も言わないまま、その身体を静かに降ろした。
ただ“そこに在るべき位置へ戻す”ように、ほとんど音もなく寝台へと寝かせると、布がわずかに沈み、その形を受け止めた。
そのとき、指先が、ぴくりと揺れた。
それは反射のようにも見えたが、遅れて瞼がわずかに震え、浅く乱れていた呼吸が喉の奥で絡まりながら、かすかな音を伴って上下を繰り返し始める。
やがて、ゆっくりと目が開いた。
焦点は合っていない。
天井を映しているはずなのに、その視線はどこにも定まらず、ただ空白をなぞるように揺れている。
だが、ゆるりと視線が動き、蛇尾の立つほうへと辿り着いたとき、わずかに千金楽の意識が繋がる。
「……兄様」
かすれた声が、重たい空気の底へと沈む。
先ほどの無意識の反復とは違い、今度は確かに意志があった。
「……兄様、わたしまた何かしたのね?」
ぽつり、と落ちる言葉は遅く、不確かで、それでも確信だけは含んでいる。
記憶は繋がらない。
何があったのかも、どこにいたのかも、形としては残っていない。
だが、そこにあったものが“良くないもの”だったことだけは、感触として千金楽の中へと残っていた。
「ごめんなさい」
続く声は小さく、それでいて迷いがない。
理由を知らずとも、そうするべきだと知っているかのような、自然な謝罪だった。
蛇尾はその言葉にすぐには応じない。
ただ静かに視線を落とし、その瞳と声の揺れ、記憶の欠落と感覚だけが残っている状態を、何も逃さないように捉えている。
わずかな間のあと、空気がほんの少しだけ緩む。
「……大丈夫だ」
低く、只々緩やかに甘い声音だった。
「お前は何も悪くない」
断定だった。
疑う余地を与えない言い方で、あまりにも自然に、嘘が置かれる。
だが、この空間ではそれが歪みなく馴染んでいた。
否定も、違和も生まれないように整えられた言葉に千金楽の瞳が、わずかに揺れる。
何も悪くなかったなど、そんなことがあるわけ無いと、千金楽には手に取るように分かっていた。
だが、引っかかっていたものがほどけるように、呼吸がゆるやかに変わる。
「……そう」
小さく、息が抜ける。
身体の力が抜け、寝台へと重さを預けるように沈む。
ただ静かに、すべてを受け止めているかのように、にへらと笑みを溢した。
「……兄様は嘘が下手ね」
「……少し、眠れ」
蛇尾の声は変わらず低いが、先ほどまでの冷たさはない。
命じるでも、強制するでもなく、ただ“そうあるべき状態”へと導くように言葉が穏やかに落とされる。
「……そうねえ」
千金楽の瞼がゆっくりと下りていく。
意識は抗うことなく、そのまま沈んでいく。
「……おきたら、いっしょに、……あめだま、たべよう、ねえ……」
途切れながら溢れる言葉はどこか幼く、現実からわずかにずれた柔らかさを含んでいた。
「……ああ」
やがて呼吸が整い、浅く乱れていたそれが、ゆるやかに均されていく。
完全な眠りだった。
蛇尾はそのまま動かず、ただ見下ろすでもなく、そこに在ることだけを静かに見守るように、視線を落とし続ける。
外界とは違い、この場所では何も崩れない。
何も乱れない。
千金楽の衣の端をわずかに整える。
やがて蛇尾は、静かに視線を上げる。
何も起きない。
何も壊れない。
ただ、この場所だけが、歪んだまま“保たれている”。
――それだけだった。




