『優しい人』 第一話 【 下の階の人 】
登場人物
・優佑
・杏果
鏡の前で髪をまとめる。
長い髪を右へ流し、慣れた手つきで三つ編みにする。
最後にシュシュで結ぶと、ようやく落ち着いた。
気付けば、いつもこの髪型だった。
理由は分からない。
ただ、この髪型が一番しっくりくる。
杏果は鏡の中の自分を見つめ、小さく息を吐いた。
「よし」
時計を見る。
8時12分。
急がなければ電車に間に合わない。
バッグを肩に掛け、玄関のドアを開けた。
◇
大学までは電車で30分ほど。
朝の車内は混雑していた。
吊り革を握りながら窓の外を眺める。
ガタン。
電車が揺れた。
肩に誰かが軽くぶつかる。
「すみません」
男の声だった。
杏果は振り返る。
杏果「いえ、大丈夫です」
それだけだった。
◇
その日の帰りだった。
マンションのエントランスに段ボール箱が積まれている。
杏果は思わず足を止めた。
「あれ?」
見覚えのある顔だった。
下の階の住人。
会えば挨拶をする程度の関係だが、数年前から住んでいる人だ。
杏果「引っ越すんですか?」
声を掛けると男性は振り返った。
「ああ、転勤でね」
少しだけ寂しい気持ちになる。
親しいわけではない。
それでも、いつもいた人がいなくなるのは不思議なものだった。
杏果「向こうでも頑張ってください」
「ありがとう」
男性は笑った。
それが最後だった。
◇
3週間後。
下の階に新しい住人が越してきた。
最初は会釈だけ。
エレベーターで見掛ける。
ゴミ出しで見掛ける。
コンビニ帰りにすれ違う。
そんな日々が続いた。
杏果「こんばんは」
「こんばんは」
柔らかな笑顔が印象に残る人だった。
◇
5日後。
20時18分。
インターホンが鳴った。
モニターを見ると下の階の住人が映っている。
杏果はドアを開けた。
杏果「こんばんは」
優佑「こんばんは」
優佑は小さな箱を差し出した。
優佑「遅くなったけど」
杏果「…?」
優佑「引っ越しの挨拶」
箱の中には焼き菓子が入っていた。
杏果「わざわざありがとうございます」
受け取った瞬間、少しだけ重かった。
恐らく10個以上は入っていそうな大きさだった。
杏果「……こんなにですか?」
優佑「多い?」
杏果「ちょっとだけ」
思わず笑う。
優佑は箱を見る。
それから納得したように頷いた。
優佑「足りないよりいいかなって」
杏果は吹き出した。
杏果「家族向けサイズですよね」
優佑「あ」
数秒考える。
優佑「一人暮らしだった?」
杏果「はい」
優佑「じゃあしばらくおやつに困らないね」
悪びれもせず言う。
杏果は思わず笑ってしまった。
杏果「そうですね」
優佑もつられて笑った。
それから軽く頭を下げる。
優佑「優佑です」
優佑「下の階に越してきました」
杏果「あ……杏果です」
慌てて名乗る。
優佑は小さく笑った。
優佑「よろしくね」
杏果「はい」
それが、ちゃんとした最初の会話だった。
第2話へ続く▶︎▶︎▶︎




