第10話 ただの暇人
イリスがメモを解読するのに、一晩かかった。
翌朝、宿の食堂で結果を聞いた。
「書かれていたのは断片的な内容です。『真名が存在しない個体が確認された』『原因は不明』『継続観察が必要』……それだけです」
「それだけ?」
「研究の途中経過のメモです。結論は書かれていません。おそらく、ファレンから持ち出した文献の方に詳しい情報があるはずです」
つまり、エルド・カーシュ本人を追わないと何も分からないということか。
「真名が存在しない個体」。それが俺のことなのか、それとも他にもいるのか。
……考えても分からない。分からないことは、分かる人間に聞くしかない。
「エルド・カーシュの行き先、セーラスに聞いてみるか」
「……そうですね」
イリスの返事に、一瞬だけ間があった。セーラスの名前を出す度にこうなる。
警戒しているのは分かっている。でも今のところ、あの男以上に頼れる手札がない。
♢ ♦︎ ♢
学術院に向かう途中だった。
北区の大通りから一本入った路地で、騒ぎが起きていた。
怒鳴り声。何かが倒れる音。人が逃げてくる。
……またか。王都に来てからまだ二日目だぞ。面倒事の総本山は伊達じゃないな。
路地の奥を覗くと、男が一人、別の男の胸ぐらを掴んでいた。掴んでいる方の周囲の空気が重い。真名を解放している。
掴まれている方は完全に腰が抜けている。威圧の影響だろう。声も出せていない。
やってることはリーデンの広場と似ている。真名を解放した人間が、一般人を脅している。奪名まではいっていないが、一歩手前だ。
王都にもこういうのがいるのか。真名保護局とやらは何をしてるんだ。
「ノウム」
「分かってる」
革鞄に手を伸ばした。あれを取り出して――
「あー……めんどくさ」
横から声がした。
女だった。路地の壁にもたれかかっていた。最初からそこにいたらしい。
長い髪を適当にまとめている。姿勢が悪い。目が半分閉じている。美人だが、やる気が全くない顔をしていた。
その女が、壁から背中を離した。だるそうに。本当にだるそうに。
次の瞬間、空気が変わった。
女の周囲に力が膨れ上がる。真名の解放。俺には感じないが、イリスが隣で息を呑んだのが分かった。
女が歩いた。歩いただけだ。だるそうな歩き方で、路地の奥に向かった。
真名を解放して一般人を脅していた男が振り返る。女を見る。
女が右手を振った。ただそれだけの動作。
男が吹き飛んだ。路地の壁に叩きつけられて、そのまま崩れ落ちた。意識がない。
……一撃。
真名解放同士のはずだが、格が違いすぎる。あの男も真名を解放していた。つまり身体能力は常人の十倍あったはずだ。それを、手を振るだけで壁まで飛ばした。
しかも本人は息一つ乱れていない。というか、だるそうな顔が戦闘前と全く変わっていない。
「はぁ……朝から疲れた」
女が真名解放を解除した。周囲の空気が元に戻る。
倒れた男を一瞥して、こちらに振り返る。
路地の入口に立っている俺たちに気づいたようだ。
半開きの目がこちらを見ている。
「……何。見世物じゃないんだけど」
「いや、助かった。俺がやるところだったから」
「君がやっても良かったよ。私がやる必要なかった」
「じゃあなんでやったんだ」
「……通り道だったから」
通り道だったから。それだけの理由で真名を解放して人を一撃で吹き飛ばしたのか。
……すごいな。色々と。
「何でも屋のノウム。こっちはイリス。あんたは?」
「フィーナ。ただの暇人」
「暇人にしてはえらく強いけど」
「元・保護局勤め。辞めた」
「なんで辞めたんだ」
「だるかったから」
一言で終わった。追及する隙がない。というか、追及する気力を奪う返し方だ。
それにしても保護局か。セーラスと同じ組織にいたってことだ。王都は狭いのか、保護局が広いのか。
フィーナと名乗った女は、俺たちに背を向けて歩き出そうとした。
「あー、ちょっと待ってくれ」
「何」
「保護局にいたなら、エルド・カーシュって名前に聞き覚えないか」
フィーナの足が止まった。
半開きだった目が、少しだけ開いた。
「……あるよ。何で君がその名前知ってるの」
あるのか。
横のイリスが一歩前に出た。
「その人物を追っています。知っていることがあれば教えてください」
フィーナがイリスを見た。それからノウムを見た。面倒くさそうに頭を掻いた。
「……長くなるよ。立ちながらする話じゃない」
「飯食いながらでいいか」
「……まあ、奢ってくれるなら」
イリスの金で。
……いや、もうそれは言わなくていいか。
フィーナが欠伸をした。
ノウムとフィーナが並んで歩き出す。会話のテンポが軽い。初対面なのに、妙にやりやすい。イリスとの会話が妙に噛み合わないのに対し、フィーナとの妙に噛み合う、噛み合いすぎるぐらいだ。
……こういうのは久しぶりだな。放浪中はこんな風に気楽に話せる相手がいなかった。
隣のイリスが、何も言わずに俺の少し近くに寄った。
……気のせいか? いや、半歩ぐらい近い。
イリスの顔を見る。いつもの冷たい目。でも、何かが違う。何がとは言えないけど。
まあ、気のせいだろう。




