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泥を這う雑種は、黄金に愛されるか?—廃都を穿つ、純血の狂気—  作者: ふかみ
【第一章】バビロン・イグニッション
2/7

新宿アンダードッグ・イグニッション

 廃都・東京。かつては日夜問わず喧騒に包まれていた新宿。

 今となっては人の気配すら希薄なその廃道を、俺は一人で歩いていた。


 半垂れの耳。どこか洋犬の面影を残してはいるが、俺には誇るべき血統などない。幼い頃にこの荒廃した都市に捨てられ、なんの庇護も受けずに孤独に生き抜いてきた雑種だ。

 俺は色褪せたボロボロの鞄を提げ、一枚の紙切れと睨み合いながら目的の場所を探していた。


 都庁南公園通り沿いに建つ、古びたガソリンスタンド。入り口は固く閉ざされ、まるで他者を拒絶するように沈黙している。

 そこが目的地だった。錆びついたシャッターを拳で叩き、反応を待つ。それを数回繰り返し、五分ほど待っただろうか。

「……うるせぇんだよ。今開けるから待ってろ」

 内側から低い怒鳴り声が響き、耳障りな金属音とともにそれが持ち上がった。


「……何の用だ、小僧」

 姿を現したのは、大柄な熊獣人の男だった。油汚れと歴戦の凄みを纏った、いかにも堅気ではない出で立ち。その威圧感に、俺は思わず息を呑んだ。

「なに黙ってやがる。まずは名前を名乗れ」

 地を這うような重たい声に促され、俺は手元の紙を広げて言った。

「俺、ガクっていうんだ。このチラシを見てきたんだけど……」


 そのチラシには、乱暴な手書きの文字でこう記されていた。

『ラリードライバー募集。先着一名。報酬は五分五分。運転に自信のあるやつは、下記の住所まで』

 それを見た熊獣人は、鼻でふんと笑い飛ばした。

「ドライバー志望か。で、お前の車は?」


 その一言に、俺は言葉を失った。自前の車が要るなんて、一言も書いてない。抗議の視線を向けるが、男は意に介さない。

「……はぁ。冷やかしなら帰りな。俺は本気でレースに勝てる奴を探して……」

「で、でも! 俺、運転はできる! この街で、裏の運び屋として何年も……!」

 俺が食ってかかると、男は残酷な事実を突きつけた。


「何年もハンドル握ってて、自前の車の一台も持てねぇような奴に、レーサーが務まると思うか?」


 真っ当すぎる指摘に、言葉が詰まる。ピンと張っていた俺の尻尾は力なく垂れ下がり、先程までの勢いは完全に削がれてしまった。

「お、俺、でも、運転には……」

「……そんなに自信があんのか?」

 男は再び鼻を鳴らし、見下ろすように言った。

「ま、人手が足りねぇのは確かだ。せいぜい、荷物運びのドライバー程度には使ってやるよ。入れ」

 嘲笑を含んだ声。踵を返した男の背中を見つめ、入口で立ち尽くしていると、奥から声が飛んできた。

「おい、来ねぇのか? 仕事、やらせてやるって言ってんだよ」


 俺が熊獣人の後をついていくと、その厳つい身なりに似合わず、彼はよく言葉を紡いだ。

「俺は鉄朗ってんだ。まぁ、おめぇみたいな奴に現実を教えてやるってんのが、仕事みてぇなもんだな」

 ガハハ、と豪快に笑い、彼は薄暗いガレージの奥へ進んでスイッチを押した。


 チカチカと点滅しながら点灯した蛍光灯の光が、俺の目を焼く。そこには、かつて本当にスタンドとして営業していたであろう痕跡が、わずかに残されているのみであった。

「そこに停まってるハイゼットで、荷物を……」

 ペラペラと業務内容を伝える鉄朗をよそに、俺は意気消沈したまま周囲を見渡す。どこを見ても、ゴミ袋や段ボールの山だらけ。建物の風貌からして怪しかったのだ。騙された自分も悪い。適当に嘘をついて帰ろう。


 そう見切りをつけて、口を開こうとした。しかし、その時。ふと、古い給油機の裏に、ブルーシートが被せられた『なにか』があるのに気がついた。

「……これ、車……?」

 俺がおずおずと尋ねると、鉄朗はつまらなそうに言い放った。

「鉄屑だ。ここを買ったときに、前のオーナーが放置していった、な。で、どうする……」


 鉄朗は話を戻そうとしたが、俺はそれを完全に無視してその"鉄屑"に近づき、ブルーシートに手をかけた。

 ばさっ、と重いホコリが舞い、むせ返る。しかし、シートの下からは驚きのモノが姿を現した。

「……古い、車? ……スポーツカーだ!」

 俺は驚嘆の声をあげ、曇った窓ガラスに張り付いて車内を覗き込んだ。鉄朗は舌打ちをすると、深い溜め息をついた。

「1986年製のトヨタ・スープラだ。2.0GTツインターボ。そんなのいいから、早く仕事をだな……」

 呆れ返る鉄朗に、俺は食い気味に畳み掛ける。

「これ、まだ乗れるのか? 動くのか?!」


 鉄朗は更に大きく溜め息をついて、言った。

「……わからん。それに、こいつはどノーマルで……」

 そこまで言った時だった。ガレージの奥の扉がガチャリと開き、黄金色の毛玉がひょっこりと顔を出した。

「鉄朗さーん!ニッセキからの荷物、そろそろ回収しに……あれ、お客さん?」


 ふわふわとした毛並み。穏やかな顔立ち。誰もが絆されてしまいそうなほど、優しげで洗練された雰囲気。低音が心地よいその声に、俺は一瞬で耳を持っていかれた。

 ゴールデンレトリバー。一目見ただけで、その犬種が頭をよぎる。スラムで配給される安物の石鹸の匂いをさせているのに、隠しきれない気品が漂っている。

「あぁ、ハル。コイツはな……」

 鉄朗の言葉を遮り、ハルと呼ばれた犬獣人は真っ直ぐに俺へと近づいてきた。


「君、なんて犬種? なんか、海外の人みたい!」

 悪意の欠片もない無邪気な好奇心。その言葉に、俺はギリッと奥歯を噛み締めた。血統を持たない己へのコンプレックスが静かに泡立つ。しかし、ハルは俺の感情の揺れなど気にも留めず続けた。

「あ、そのスープラ! 僕もずっと気になってたんだよね。もしかして君、これ買うの?」

 ずけずけと心の内側に踏み込まれるような感覚に、俺は苛立ちを隠せなくなった。その不穏な空気を察して、鉄朗がハルを諌める。

「いや、ハル、コイツはだな……」


 だが、ハルの口は止まらない。

「もしかして、この車でトーキョー・ラリーに出るの?! 羨ましいなぁ! で、この車いくらで買うの?!」


 買う、買う。軽々しく放たれるその言葉に、俺の胸中で激しい憎悪が炎を上げた。こんな高価な買い物を、気軽にできるわけがないだろう。ましてや、ボロの鞄一つしか持たない、スラムの野良犬が、だ。

 怒りが頂点に達した瞬間、俺はバンッ!とスープラのドアを叩きつけた。


「……買いに来た? ふざけんな。俺は、この車を奪いに来た」


「……は?」

 鉄朗が呆けた声を出した。ハルの顔からも、ふっと笑顔が消える。

「……どいつもこいつも、俺のこと舐めやがって。俺は、このスープラでトーキョー・ラリーに出る」

 地を這うような怒気に満ちた声。それに呼応するように、鉄朗が凄まじい剣幕で怒鳴った。

「……ふざけるな、クソガキがぁ!!」


 その怒声にビクッと肩を震わせたのは、ハルだった。怯えた顔で、俺と鉄朗の顔を交互に見る。

「ふざけてねぇ!! 俺は誰がなんと言おうと、こいつでトーキョー・ラリーを制してやる!! 早く車の鍵をよこせ!!」

「なんだと……?!」


 鉄朗は拳を振り上げ、俺に近寄ろうとした。しかし、そこにハルが慌てて割って入る。

「お、落ち着いて、鉄朗さん! 君も、ね? ……流石に、タダで車を貰おうっていうのは、ちょっと、非論理的だと思うよ……」

 ハルがなだめるように言うが、俺は露骨に舌打ちをし、彼の肩を乱暴に押し退けた。

「俺はガクっつーんだ。覚えておけ」

 そして、巨大な熊獣人に向き直り、鼻先が触れそうな距離まで詰め寄って、言い放った。


「俺がラリーで優勝すれば、こんなガラクタどうとでもなるだろ。それとも、こんな鉄屑一台でも惜しいくらい、金に困ってんのか?」


 野良犬の命知らずな挑発。激昂した鉄朗の、丸太のような腕が唸りを上げて振りかぶられた。俺は目を閉じ、その衝撃を甘んじて受け入れようとする……が、痛みは来なかった。

 代わりに、ギャンッ!と悲鳴が響いた。

「……あ」


 鉄朗は拳をだらりと垂らし、呆然としている。俺をかばうように飛び込んだハルが、コンクリートの床に倒れ込んでいた。

「ハ、ハル!」

 口からポタポタと血を垂らし、コンクリートに血痕を残すその姿に、俺は驚愕した。なぜ、コイツはわざわざこんな真似を?


「お、落ち着いた? 鉄朗さん」

 ハルはどうやら口の中を切ったようだ。鉄朗がすぐそばにあったティッシュ箱を取り、ハルの口の中に押し込む。

「ら、らいじょうぶでふお……」


 しばらく、室内はお通夜のような沈黙に包まれていたが、やがて止血も終わったハルが、冷静なトーンで切り出した。

「二人とも、落ち着いたね? ……やっぱり、タダで車をあげるっていうのは、現実的に難しい話だと僕も思うよ。でも、鉄朗さん言ってたじゃん。『トーキョー・ラリーで優勝できるような奴の面倒を見たい』って。だから、まずは彼の実力をテストしてみる、っていうのは、どうかな?」


 ハルの理路整然とした提案に、鉄朗は一瞬迷う素振りを見せた。だが、やがて静かに立ち上がると、近くの工具箱に手をかける。

「……動くかはわからねぇからな」

 そう言って、なにかを俺に向かって放り投げた。

 空中で光を反射したそれを受け止め、手の中を開く。見ればそれは、擦り減った『TOYOTA』の刻印がある、一本のキーだった。


「……いいのか?」

 あんなに啖呵を切っておきながら、いざ本物の鍵を渡されると、指先が震え、ひどく怖気づいてしまった。しかし、鉄朗は鋭い眼光で俺を射抜く。

「ハルがわざわざ、お前の代わりに血を流したんだ。その重みを知れ」

 その言葉に、口元をティッシュで押さえたハルが言い返す。

「そんなに仰々しいものじゃないんだから! さ、ガク。乗ってみよ!」


 ガク、と馴れ馴れしく呼び捨てにされたことは気に食わない。だが、この純血のお坊ちゃんの身を呈した説得がなければ、この車のドアノブに触れることすらできなかったのは事実だ。

「……ども」

 俺は短く礼を言うと、いそいそと運転席側へ回り、鍵穴にキーを差し込んだ。カチャリと冷たい音が鳴る。

 長年放置されていたドアは、ゴムパッキンが溶けて癒着しているのか、固く閉じられていた。渾身の力を込めて引っ張ると、ベキッ!と嫌な音を立てて重いドアが開く。


 途端に、カビとホコリ、そして古いオイルの臭いが入り混じった空気が、俺の嗅覚を刺激した。車内にはクモの巣も張っているが、シートの破れなどはなく、比較的状態は良さそうだ。

「ダッシュボードと……うげ、ステアリングも加水分解起こしてる。ベタベタだ」

「文句があるなら乗らなくていいぞ」

 俺のボヤキに、鉄朗がすかさず噛みつく。

「誰が乗らないって言ったよ」


 服の袖で誤魔化すようにステアリングを握り、深く沈み込むシートに腰を下ろす。

 仕方ない。とりあえず、エンジンを掛けてみよう。

 俺は、酷く重いクラッチペダルを左足で奥底まで踏み込み、シリンダーにキーを差し込んで、祈るようにひねった。


 キュキュキュキュキュ……。

 弱々しいセルモーターの音が響く。最初の数回は咳き込むような音を立てるのみだったが、アクセルペダルを何度か煽り、ダメ押しで6回目、キーを強く回し込むと……。


 キュルキュル……ズガオン!!!


「うぉ!」

 腹の底を揺らすような低い咆哮を上げて、直列6気筒エンジンが、長い眠りから目を覚ました。古びたマフラーから白煙が吐き出され、重厚なアイドリングの振動が、シート越しに背骨から尻尾の先まで直接ビリビリと伝わってくる。生きている。この鉄の塊は、確実に生きている。


「……チッ、まだ動くのか」

 鉄朗は舌打ちをするも、ゆっくりと俺の元にやってきた。

「はぁ。じゃあ、今から言う条件をクリアできたら、この車くれてやる」


 提示される『条件』。先程ハルが口にした、実力証明のテストだ。俺はステアリングを握る手に力を込め、無言で頷いた。

「このスタンドの前をスタート地点とする。タイムリミットは3分だ。新宿駅西口のロータリーを経由して、ここに戻ってこい。ルートは好きに選べ」

 鉄朗はそこで言葉を区切り、そばにいたハルを指差した。

「ちゃんとロータリーを通ったかどうかの見届け役は……ハル。お前が助手席に乗って監視しろ」


 その言葉に、ハルはパァッと顔を輝かせた。

「僕も、この車で東京の街を走れるの?!」

 黄金色の尻尾がちぎれんばかりに勢いよく振られ、思わず鉄朗の太い腕を両手で掴む。

「荷物用のハイゼットの荷台じゃなくて! 助手席から、この街の景色を見られるの?!」


 大型犬特有の凄まじい熱量と圧に、さすがの熊獣人も少し身を引いてたじろいだ。

「あ、あぁ……。いいか、遊びじゃねぇぞ。しっかり監視するんだぞ」

「うん! ガク、お隣失礼するね!」


 ハルは満面の笑みを零しながら助手席のドアを開け、素早く乗り込んできた。バンッとドアが閉まると、ホコリ臭かった車内に、彼から漂う石鹸の香りがふわりと広がる。

 いきなりパーソナルスペースに侵入してきた異物に、俺は露骨にうんざりした顔を浮かべた。だが、この千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかない。

 前方のシャッターの向こう。薄暗い廃都の景色へと鋭い眼光を向け、俺は重いクラッチを踏み込み、1速へとシフトレバーを叩き込んだ。


 ガコンッ、と無骨な金属音が車内に響き渡る。

「……あの『廃道』を、どノーマルの重いボロ車で帰ってこれるわけがねぇだろ」

 鉄朗の呆れたような呟きは、俺が容赦なく煽った直列6気筒エンジンの獰猛な咆哮に掻き消されていった。


「じゃあ、ストップウォッチ使うね。うわ、ドキドキしてきた!」

 ハルはソワソワと辺りを見渡しながら、俺の悲壮な覚悟などそっちのけで楽しむ気満々だ。そんな彼を無視して、アクセルを吹かす。


「じゃあ行くぞ! 3、2……!」

 開いた窓から、鉄朗の太い声が響く。そして、「ゴー!」の合図が上がった瞬間。俺は荒々しくクラッチを繋ぎ、スープラを押し出した。


 甲高いスキール音とともに、後輪が勢いよく白煙を撒き散らす。

 だが、車体は前に進まない。滑りながら裏路地から南通りへ飛び出し、車はようやく東へと向かって走り出した。


「……なんだ、この車ッ?!」

 俺はステアリングを握り始めてすぐに、背筋が凍るような異変を感じ取った。異常なほど車体が横にブレる。そして、タイヤはまったく路面を捉えていない。


「うわ、うわっ! 凄い! なんかアトラクションみたいだねぇ!」

 ハルは呑気に声を弾ませているが、俺はそれどころではなかった。まっすぐ走らせるための制御だけで手一杯なのだ。ここで俺は、今まで自分が「仕事」で乗ってきた車がいかに整備され、恵まれていたかを思い知ることになる。


(タイヤのゴムが完全に硬化してやがる! その上、サスペンションも完全に抜けてて、こんな荒れた路面じゃまともに機能しねぇ……!)

 グリップは皆無。路面の大きなガタつきはサスペンションで吸収されず、直接車体へ衝撃を与え、俺の体力をゴリゴリと削り取っていく。


「お、お尻が痛いかも……」

 ハルが申し訳なさそうに言うが、それを無視して俺はアクセルを踏み続けた。

 とにかく、3分。3分さえ切れば……!


 だが、気がつけば車は中央通りへと入り、目の前に新宿駅の巨大な駅舎が見えたときには、すでに決定的な時間が過ぎていた。

「ハル、今何秒だ?!」

 叫ぶと、ハルはすぐに手元のストップウォッチに目を落とした。

「あと、56秒!」


 俺はそれを聞いたとき、頭の中が真っ白になった。

 ダメだ。こんなコントロールもままならない鉄屑じゃ、あと56秒で元のスタンドまで戻れるわけがない。 新宿駅西口のロータリーに侵入した瞬間、俺は乱暴にブレーキペダルを踏み鳴らし、スープラを急停車させた。


「……ちくしょう」

 そのまま、ステアリングの加水分解でベタつく感触も構わず、俺はハンドルに深く顔を伏せた。

「ど、どうしたの、ガク?まだ時間は……」


「……間に合うわけねぇだろッ!!」

 俺の怒号が、狭い車内にビリビリと反響した。それは完全に、どうにもならない現実への八つ当たりだった。悔しさで視界が歪み、大粒の涙がボロボロと溢れてくる。


「今まで俺が乗ってきた車は、こんなんじゃなかった……! もっとまともな車だったら、3分なんて……ッ!!」

 ハンドルに突っ伏して嗚咽を漏らす俺の背中を、ハルが大きな手で優しく撫でる。

「……まぁ、仕方ないよ。どうにもならないことって、世の中には……」


 しかし、その何気ない慰めの言葉を聞いた瞬間、俺の中でなにかがプツリと切れた。

「触るなッ!!」

 衝動的に、ハルを強く突き飛ばす。助手席のドアに背中を叩きつけられ、ハルが目を見開いた。


「仕方ない?! 仕方ないってなんだよ!! お前みたいな、恵まれた純血の金持ちにはわかんねぇだろうな!! 俺みたいな、持たざる貧乏な雑種の気持ちなんて!!」


 牙を剥き出しにして吠える俺の目には、拭いきれない劣等感と、夢を絶たれた絶望の涙が光っていた。


 その叫びを受けて、ハルはただ、黙り込むことしかできなかった。

 狭い車内に、俺の荒い息遣いと、アイドリングの不規則な振動だけが響く。


 どうしようもない現実というものは、確かにある。それを受け入れられるかどうかは、直面したものにしかわからない。持たざるものとして這い上がろうとした俺の悲鳴は、温室育ちのハルにとって、初めて触れる本物の『痛み』だったのだろう。


 数分後、けたたましい排気音を響かせて、先程ガレージで見たハイゼットが、西口ロータリーへと滑り込み、俺の乗ったスープラの横にピタリと停車した。

 運転席からは、大きな影が降りてくる。窓越しに見える鉄朗は、予想通りと言ったようなしたり顔を浮かべていた。


「……窓、開けろ」

 ガラス越しに口が動く。意気消沈し、ステアリングに突っ伏して完全に動けなくなっている俺の代わりに、ハルが手を伸ばしてパワーウィンドウのスイッチを押した。キュイ、と鈍い音を立てて窓が開く。


「どうだ? 無理だっただろ」

 鉄朗の声はどこか嬉しそうで、意気揚々としていた。

「威勢よく啖呵切った割には、大したことなかったな。降りろ。これはお前の車じゃねぇ」

 鉄朗が外から手を入れて鍵を開け、容赦なくドアを引く。俺は抵抗する気力もなく、大人しくそれに従い、うす汚れたアスファルトへ足を下ろそうとした——が。


「待ってよ、鉄朗さん」

 静かだが、酷く冷たい声が響いた。助手席に座るハルの口から。


「流石に、こんなやり方は卑怯じゃないかな」

 普段の温厚なゴールデンレトリバーの面影は消え去り、ハルの瞳には理知的な怒りが湛えられていた。


「ひ、卑怯もなにも、条件を受け入れたのはこいつで……」

 ハルの真っ直ぐな視線と、『卑怯』という論理的な指摘に、鉄朗はあからさまに動揺を見せた。その態度は、このスープラがまともに走れる状態ではないと最初から知っていて、俺を諦めさせるためにわざと仕組んでいたことを自白しているようなものだった。


「……ハル?」

 俺は真っ赤に腫らした眼で、ハルを見つめた。つい先程まで自分に突き飛ばされ、理不尽に罵倒されていたはずの男が、自分をかばうように凛とした表情で熊獣人を睨み続けている。


「鉄朗さん、お願い。条件を変えて、彼にもう一度正当なチャンスを与えてあげてほしい」

 ハルの毅然とした態度に、鉄朗は気まずそうに頭を掻き、黙って話の先を促した。

「そこのハイゼット。……ガクが、そのハイゼットを運転して、ここから1分以内にスタンドに戻れたら、このスープラをガクにあげて」


「……無理だ、ハル。あんなボロい軽トラで、1分以内に戻るなんて……」

 俺が投げやりな声で呟くが、ハルは力強く首を横に振った。


「ううん。無理じゃない。君の運転技術は、さっきの数分で証明されたよ」

 ハルはそう言うと、俺の両肩をがっしりと掴んで、自分の方へ向かせた。ゴールデンレトリバーの大きな手が、俺の震えを止めるように熱を伝える。


「君の技術は本物だ。あんなに跳ねて滑ってを繰り返していたのに、君はあのスープラに傷一つ付けていない。君には、この街の道を正確に読み切る力がある」


 一切の感情論を排した、冷静な分析に基づいた言葉。それが、俺の心のなかで冷めかけていた野生に火をつけた。俺は黙って涙を拭い、スープラを降りた。


「1分だ。……1分で、戻る」

 鉄朗に再び叩きつけた挑戦状。その声からは、先程までの卑屈な叫びは消え、自分でも驚くほど冷徹な響きが宿っていた。


「……フン。やれるもんなら、やってみな」

 鉄朗はハッタリをかましながら、スープラへと乗り込んだ。ハルはストップウォッチをリセットすると、俺とともにハイゼットのキャビンへと滑り込む。


「うん、いけるよ。コースは単純だ。整理しよう」

 狭い車内。ハルは静かに目を閉じて、人差し指を額に当てると、淀みなく指示を紡ぎ出す。


「中央通りを西に行って、中央通り東を左折。東通りを下って、西新宿二丁目で右折。直後の西新宿をまた右折して、議事堂南を左折。あとは全開で直進だ。この車は仕事用だけど、グリップ重視で滑りにくいし、実はエンジンも換装済み。道に大きな障害物もなかった。徹底的に『アウト・イン・アウト』でラインを最適化すれば、1分は確実に切れる」


 そこまで一気にまくし立てると、ハルは助手席から俺の頭に手を伸ばし、グイッと自分の方へ顔を寄せさせた。

「ッ……?!」

 突然の至近距離。ハルの安物の石鹸の匂いと、走りの本質を見透かすような、深く理知的な視線に射抜かれる。


「なにも考えなくていい。君はただ、その腕で走ればいいんだ」

 耳元で確信に満ちた声を囁くと、彼はパッ、と手を離して無邪気に笑った。

「ね? じゃ、今度は僕がカウントするよ。準備はいい?」


 俺は困惑しながらも、握りしめたシフトレバーの感触を確かめる。

 スープラとは違う、カチリと吸い込まれるようなギアの入り。足元に伝わる、確かなエンジンの鼓動。

「……あぁ、いつでもいける」


「じゃあ、いくよ。3、2……」

 その言葉と同時に、俺はステアリングを強く握り直し、左足でクラッチペダルを踏み込んだ。

「……ゴー!」


 ハルの合図と同時に、1速に叩き込んだギアを繋ぎ、アクセルを床まで踏み抜く。

 ——ギャアァァッ!!

 その瞬間、凄まじいGが二人の体をシートに叩きつけた。


「え、あッ?!」

 困惑しつつも、俺は咄嗟にステアリングを操作する。背中から突き飛ばされるような鋭い加速。路面のガタつきをいなし、しっかりと地面に食いつくタイヤ。先程のスープラに足りていなかったものが、この古臭いハイゼットには全て揃っていた。


「なんだ、なんなんだこの車?!」

 叫ぶと、ハルは凄まじい加速の中でも全く恐怖を見せず、純粋にスピードのスリルを楽しむように笑った。

「言ったでしょ! このハイゼット、中身は別物なんだって!」


 普通の軽トラックでは絶対にありえない、甲高いエキゾーストノートを響かせながら、車は中央通りを弾丸のように進んでいく。

「最初のコーナー! アプローチの基礎は、わかってるよね?」

 ナビゲーターとして冷静に先を読み、あたりまえのことを口にするハル。その的確な声に導かれ、俺も次第に本来の調子を取り戻していく。


「ったりめぇだろ!」

 ヒール・アンド・トゥで滑らかにギアを落とし、丁字路へ突っ込む。コーナリング性能は、軽量な車体と換装された足回りのおかげで十二分だ。一切の無駄がない『アウト・イン・アウト』のライン取りでコーナーをクリアする。


「完璧だね。余裕だ。この分なら」

 ハルはストップウォッチを見つめながらそう呟くと、不意に手を伸ばし、俺の半垂れの耳にそっと触れた。


「ひゃっ」

 予想外の感触。敏感な耳を撫でられ、ステアリング操作が一瞬ブレる。

「……ダメだよ。運転に集中して」

 スピードの恐怖など微塵も感じていない、ひどく落ち着いたハルの声が耳元を掠める。俺は慌てて前を向き、なんとか意識を運転に引き戻した。


「……戻ったら、一緒にお風呂に入ろっか。君、汗と……少し、獣臭い匂いがするよ」

 ハルは至極当然のことのように、冷静な観察結果としてそう告げた。すん、と鼻を近づけられる気配に、背筋にゾワリとしたものが走る。車はそのまま、猛スピードで西新宿の廃道へと滑り込んでいく。

「僕ね、実家では毎日お風呂に入ってたから、やっぱり匂いとか気になっちゃうんだ。今となってはね、鉄朗さんも毎日お風呂に入ってくれるけど、出会ったときはひどい匂いだったんだよ……」


 緊迫したレースの最中だというのに、隣の助手席からは、金持ち特有の優雅な思い出話が聞こえてくる。普段なら、最も毛嫌いする類のエピソードだ。

 しかし、俺はそれにも、目の前の運転にも、先程から全く集中できずにいた。


 距離が縮まったことで、安物の石鹸の匂いの奥から立ち上る、ハル自身の『脳を焼かれるような甘い匂い』に気がついてしまったのだ。それが、本能レベルで理性を激しく揺さぶっている。


(クソッ……集中しろ、集中しろ、俺ッ!)

 誤魔化すようにアクセルをさらに強く踏み込み、高鳴る心音をかき消すようにエンジンを吼えさせた。


 ——その直後。

 操るハイゼットは、タイヤから白煙を上げながら、スタート地点のガソリンスタンドへと滑り込み、ピタリと停車した。

 ハルの手元のストップウォッチが示すタイムは「58秒」。

 宣言通り、見事な1分切りでの帰還だった。


 数分後、閉じられたシャッターの内側で、三人はストップウォッチを眺める。

「……まさか、本当にこんなタイムを叩き出すとはな……」

 信じられない、といった様子で、鉄朗は声を絞り出す。

「まぐれ……」

 鉄朗がそこまで言いかけたとき、ハルの強烈な視線に気づき、ふい、とそれから目を逸らした。


「ま、これであのスープラはガクのもの、ってことで! ね、ガク!」

 笑顔で尻尾を振るハルに、俺は苦い表情を浮かべる。畜生。全部曝け出しちまった。こんな奴相手に。そんな思いが渦巻く。


「……決まったもんは仕方ねぇ。今からあれは、お前のものだ。……だがな、あれをくれてやる上で、絶対に守ってほしい約束がある」

 鉄朗はキーを差し出しつつ、力強く言った。

「……サポートはしてやる。お前は、トーキョー・ラリーでトップを取れ」


 先程まであんなに憎まれ口を叩いていた存在とは思えないほど真剣に、そして切実に彼は思いを口にする。

「……あのラリーの制覇は、俺の夢だったんだ。だから、端役でもいい。俺が、あのレースの優勝に一役買うという、夢を見せてくれ」

 深々と頭を下げる彼を前に、俺の心のなかでは、困惑と少しの照れが同居していた。

「……んだよ。最初から、そのつもりだっつーの」

 俺は奪い取るようにキーを受け取ると、ボソッと呟いた。


「……よし、そうなったら、まずはあいつを綺麗にしてやるところから、だな!」

 鉄朗はフッと口元を緩めると、なにかが吹っ切れたような声で言った。

「おい、ハル。ニッセキから関連パーツを取り寄せてくれ!」

 それに、ハルは応える。

「はーい! すぐに電話……いや、ちょっとまってね」


 そう言うと、彼は俺の手を握る。

「さっき、車で言ったでしょ。お風呂入ろ! 流してあげる!」

 その言葉に、間の抜けた声を上げる俺。

「へ? あ、いや、自分で流せるし……」

「意外と自分じゃ洗えないところってあるんだよ? 徹底的に、綺麗にしてあげる!」


 ハルは、半ば強引に俺の手を引いて、部屋の奥へと引っ張っていく。

「……ま、トーキョー・ラリーはゲリラ開催だ。エントリーまで、のんびり準備するかね」

 鉄朗は俺たちを見送ると、スープラへ向かい合うのであった。

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