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第14話 幻尾の退路

 ルーメが放つ青緑色の光が届かない、入口層の深い暗がり。


 そこから、スゥーッと滑り出るようにして、一つの影が姿を現した。


 体長は中型の犬ほど。しなやかな四肢と、長くふさふさとした毛並みを持つ獣だ。狐に似ているが、その最大の特徴は、背後で揺らめく数本の尻尾だった。


 だが、よく見れば実体のある尻尾は一本だけ。残りの数本は、魔力の残滓が陽炎のように実像をブレさせて作り出している『幻の尾』だった。


 幻惑と気配操作を担う魔獣、『フェズ』。


 フェズはシルクスのようにユークの足元へすり寄ってくることはなく、かといってグランのように無関心を決め込むわけでもない。


 ユークから五メートルほどの距離を保ち、低い姿勢のまま、赤い瞳でじっとこちらを観察していた。警戒心が強く、ひどく神経質そうだ。中枢からの『休め』の指示で無駄な幻影の展開は解いたものの、まだこの環境と、突如として管理者になったユークという人間を信用しきっていない。


「無理に近づかなくていい。お前はそういう気質だろうからな」


 ユークは無理に距離を詰めず、その場にしゃがみ込んで目線を合わせた。


 犬というよりは、野良猫に近い距離感。無理に手懐けようとすれば、逆に牙を剥くか、姿を消して二度と寄り付かなくなる。


「だが、お前が持っている『幻』と『気配操作』の力は、今のこの入口層には絶対に必要だ」


 ユークが静かに語りかけると、フェズの耳がピクリと動いた。


 幻惑系の能力は、正面切っての戦闘では役に立たないことが多い。一瞬の隙を作ることはできても、強力な一撃や強靭な肉体を持たないフェズのような小型獣は、実体を捉えられればすぐに殺されてしまうからだ。


 そのため、冒険者たちからは「鬱陶しいが脅威ではない、素材の価値もないハズレ魔獣」として扱われがちだ。


 だが、管理の視点から見れば、フェズの能力は極めて特殊で希少な価値を持つ。


「お前は、敵を倒さなくていい。お前の仕事は『ずらす』ことだ」


 ユークがそう言いかけた時だった。


『――ッ!』


 ユークの脳内に、シルクスからの鋭い警告がパスを通じて響いた。


 崩落の予兆ではない。何か『複数の動くもの』が、迷宮の外側の入り口方面から、この入口層へ向かって侵入してきた合図だ。


「……お客さんか。早いな」


 ユークは立ち上がり、魔力パスの情報を解析した。


 侵入してきたのは、五〜六体の群れ。足音は軽く、規則性がない。そして、微かに腐肉や泥の匂いを追うような生々しい食欲の気配が伝わってくる。


「泥漁りの大ネズミ(マッドラット)の群れか。外の街道や浅い坑道から、泥の匂いに引かれて迷い込んできた野良魔獣だな」


 個々の戦闘力はゴブリン以下。冒険者であれば、剣を数度振るうか、下級の炎魔法を放てば数分で殲滅できる程度の、取るに足らない雑魚だ。


 だが、ユークは即座に「戦闘回避」の判断を下した。


「戦えば勝てるかもしれないが、俺の少ない魔力を消耗する。それに……」


 ユークは周囲を見渡した。


 グランがようやく安定させた足場。モルトが処理を始めた泥のルート。ルーメが配置した安全を知らせる光。


 ここでマッドラットの群れと乱戦になれば、せっかく整えたこのインフラが踏み荒らされ、血や死骸が新たな腐敗を生み出してしまう。


「倒す必要はない。ここはもう、ただの狩場じゃないんだ」


 ユークは視線をフェズに向けた。


 フェズも侵入者の気配に気づいており、喉の奥で低い唸り声を上げ、毛を逆立てていた。自分の縄張りに無作法な輩が上がり込んできたことへの不快感だ。


「フェズ。初仕事だ。あいつらを追い払うな。『別の道』へ案内してやれ」


 ユークはフェズに具体的な指示を飛ばすのではなく、状況だけを与えた。


 マッドラットの群れは、泥の中の有機物や魔力残滓を求めてやってきている。彼らの目的は『エサ』であり、ユークたちと戦うことではない。


「真っ直ぐ来させれば、俺たちが整えたこの安全導線とぶつかる。あいつらを、導線から外れた旧通路の行き止まりへ誘導しろ。あそこなら、泥も溜まっているし、俺たちの邪魔にもならない」


 フェズはユークの意図を察したのか、幻の尾をフワリと揺らすと、音もなく暗闇へと溶け込んでいった。


 従順な軍犬のような動きではない。自分の気に食わない連中を罠にはめて遊ぶような、気まぐれな悪戯っ子の波長だ。


 ユークはシルクスの索敵網を通じて、群れの動きを俯瞰し始めた。


 そして、フェズ単独に任せるのではなく、他の契約個体との『連携』のタクトを振るう。


「ルーメ。群れが近づいてきたら、安全導線側の光を極限まで落とせ。逆に、誘導したい旧通路側の光を、あえて少し濁らせて点滅させろ」


 ユークの指示で、青緑色に輝いていた安全導線の光が、スゥーッと暗く沈み込んだ。


 代わりに、ユークが意図的に「進入禁止」として暗闇のまま残していた旧通路の方向で、ルーメの欠片が怪しげな赤紫色の光をチカチカと放ち始める。


 マッドラットのような下級魔獣は、強い光を嫌い、適度な薄暗さと腐敗の匂いを好む。


 視覚的な誘導の準備は整った。


『キチチッ、キィィッ!』


 やがて、泥を跳ね飛ばす下品な足音とともに、猫ほどもある巨大なネズミの群れが通路の角を曲がって現れた。


 鼻をヒクつかせ、エサを探して血走った目をしている。


 その群れの数メートル手前、旧通路へと続く分岐点に、スッと『何か』が現れた。


 それは、泥の中から這い出した、丸々と太った泥食い虫の幻影だった。


 フェズが作り出した錯視だ。ただ姿が見えるだけではない。フェズの気配操作によって、その幻影からは確かに『極上の腐敗臭』と『泥を這うカサカサという音』が発せられていた。


 マッドラットの群れが、ピタリと足を止めた。


 彼らの貧弱な知能は、目の前に現れたご馳走の幻影を完全に「本物」と誤認した。


『キィィッ!』


 先頭の一匹が、よだれを垂らしながら泥食い虫の幻影に向かって飛びかかった。


 だが、幻影は素早く身を翻し、赤紫色の光が点滅する旧通路の奥へと逃げ込んでいく。


「そのまま引っ張れ、フェズ。ルーメ、光の点滅で影を揺らして、幻影の輪郭を誤魔化せ」


 ユークは岩陰に身を隠しながら、小声で指示を出し続けた。


 フェズの誘導は絶妙だった。


 群れが追いつきそうになれば、わざと幻影の速度を落として鼻先を掠めさせ、焦らしてはさらに奥へと引き込んでいく。


 ルーメの不規則な光が壁に複雑な影を落とし、フェズの幻惑をより強固なものにしている。マッドラットたちは、自分が幻を追っていることにも、本来の真っ直ぐな道から完全に逸れていることにも気づいていない。


 やがて、群れはユークたちがいる安全導線には見向きもせず、完全に旧通路の奥、分厚い崩落岩で塞がれた行き止まりの区画へと雪崩れ込んでいった。


「シルクス。旧通路の入り口に、一番太い警戒糸を張れ。あいつらが戻ってこようとしたらすぐに知らせるように」


 シルクスが素早く動き、分岐点に見えないゲートのような糸を張り巡らせた。


 これで、マッドラットたちは隔離された旧通路の中で、幻のエサを探して無駄な時間を過ごすことになる。いずれエサがないと気づいても、元の道には戻れず、泥を漁りながら別の外の隙間から去っていくか、そこで力尽きるだろう。


 ユークたちの安全導線には、血の一滴も流れず、泥の跳ね返りすら一つも残らなかった。


「……完璧だ」


 ユークは深く息を吐き出し、張り詰めていた神経を緩めた。


 剣を抜くこともなく、魔術で焼き払うこともなく。


 ただ『現象』をコントロールし、魔獣の習性を利用して、危険な流れを安全な場所へと逸らしただけ。


 だが、その結果は、激しい戦闘に勝利するよりも遥かにユークの心を高揚させた。


 これだ。これこそが、彼がやりたかった『運用』だ。


 敵を倒す強さではなく、壊させない、事故を起こさせないための現場管理。


 静寂が戻った通路に、スゥーッとフェズが姿を現した。


 相変わらず一定の距離は保っているが、その数本の幻の尾は、心なしかピンと上を向いて誇らしげに揺れている。自分の『悪戯』が完璧に決まったことに満足しているようだ。


「よくやった、フェズ。見事な手際だった」


 ユークが称賛の言葉を口にすると、フェズは「ふん」と鼻を鳴らすような仕草を見せ、それからクルリと背を向けて、再び暗闇の定位置へと戻っていった。


 従順ではない。だが、ユークの指示の的確さと、自分の能力が最大限に活かされるこの環境を、フェズなりに評価し、受け入れた波長がパスを通じて伝わってきた。


「お前は護衛獣じゃない。この迷宮の血流を整える、『流れをずらす現場担当』だ」


 ユークは記録帳のフェズの項に、そう書き加えた。


 これで、初期の五体すべての能力と役割が、明確に噛み合った。


 シルクスが予兆を拾い、グランが地盤を整え、モルトが泥を処理し、ルーメが安全を可視化し、フェズがイレギュラーを逸らす。


 弱い下級魔獣の寄せ集め。だが、彼らが連動した時、この入口層はかつての死地とは全く違う『機能体』として動き始める。


 ユークは、ルーメの青緑色の光が真っ直ぐに伸びる通路を見渡した。


 入ったら死ぬ穴だった場所が、今は「近づけば危険」という警告を発する場所になり、そして今、フェズの誘導とルーメの光によって、「ルールに従って歩けば通せる道」へと変わり始めた。


「……まだ安全じゃない。だが、死なない形にはなったな」


 ユークの呟きは、誰に聞かせるためでもない、確かな実感を伴っていた。


 内部のインフラ整備の第一段階は終わった。


 次に見据えるべきは、この整備された迷宮を、いかにして外の世界――人間社会と接続するかだ。


 ユークは迷宮の入り口、外界へと続く崩れかけたゲートの方へ向き直った。

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