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第13話 崩れない床

 ルーメが放つ淡い青緑色の光は、汚泥と崩落にまみれた入口層に、ひとすじの希望のような道筋を浮かび上がらせていた。


 しかし、視覚的に「安全なルート」が分かったからといって、そこが物理的に歩きやすい道であるとは限らない。


 ユーク・フェルドは、ルーメの光が誘導する先――崩落した岩盤の隙間を縫い、泥の沼を迂回するような蛇行したルートを苦々しく見つめた。


 光の道筋の上には、亀裂の入った大岩が転がり、一見平坦に見える床も泥を被って不気味に傾いている。


「これでは点検通路にもならない。俺一人ならアスレチックの要領で越えられるが、恒久的な『道』としては落第点だ」


 管理者が毎回命がけで綱渡りをしていては、いずれ疲労から足を踏み外す。それに、将来的にこの迷宮の運用を本格化させ、物資の搬出入や外部の人間を入れることを想定するなら、こんな獣道では話にならない。


「歩ける道。それも、ただ前へ進むためじゃない。『必ず戻ってこられる道』を一本通す必要がある」


 ユークは記録帳をポケットにしまい、入口層の壁際へと歩を進めた。


 崩落の土砂が積もった影に、まるで大きな岩石がそこにあるかのように、周囲の景色に完全に同化して蹲っている巨体があった。


 体長は二メートル近い。分厚い岩盤のような灰褐色の甲殻に覆われ、太く短い四肢と、強力な顎を持つ魔獣。岩トカゲと甲虫を掛け合わせたような、無骨で重々しい姿。


 地盤を支え、地形を管理する土木系の個体、『グラン』だ。


 中枢コアからの『休め』の指示を受け、グランは崩落現場の隅で、微動だにせず岩になりきっていた。


「待たせたな、グラン。起きろ」


 ユークがその硬い甲殻を手のひらでバンバンと叩くと、岩の塊から低い重低音の唸りが響き、グランがゆっくりと頭を持ち上げた。


 琥珀色の小さな瞳がユークを捉える。敵意はないが、愛嬌もない。極めて実務的で、頑固な職人のような波長が魔力パスを通じて伝わってきた。


「体は鈍っていないか? お前の力で、この入り組んだ迷路に一本、真っ直ぐな背骨を通してほしい」


 グランは短く鼻を鳴らすと、のっそりと立ち上がった。その巨体が動くたびに、関節から岩が擦れるような重い音がする。


 ユークはルーメの青緑の光が示す『安全導線』の入り口へグランを誘導した。


「まずは足元だ。見た目は平らだが……」


 ユークが指差したのは、泥を避けた先にある、数メートル四方の一枚岩の床だった。ひび割れもなく、一見すると非常に安定しているように見える。


 だが、グランはその一枚岩の前に立つと、太い前脚を高く上げ、床に向かってドスン!と力強く踏み下ろした。


 ――ゴォォン……。


 岩盤から、嫌な反響音が返ってきた。中身の詰まった硬い音ではない。下に空洞があるような、太鼓を叩いた時のような響きだ。


「……やっぱりな」


 ユークは眉をひそめ、床にしゃがみ込んだ。


 シルクスの索敵糸は『現状の振動』を拾うが、荷重がかかった際の構造的な弱さまで完璧に透視できるわけではない。そこは、重さと地盤のプロフェッショナルであるグランの専門領域だ。


「崩落の衝撃で、下層にあった水脈の跡か空洞に負荷がかかり、地盤が浮いている。シーソーみたいな状態だ。今は平気でも、俺より重い荷物を運んだり、ここで何かの衝撃があれば、一気に床が抜けて下の泥沼に真っ逆さま、というわけか」


 一般の冒険者なら、罠がないか調べるだけで通り過ぎてしまうだろう。


 だが、ユークは管理者だ。不安要素を放置したまま「たぶん大丈夫」で道を通すことは絶対にしない。


「グラン。この床は、直すんじゃない。抜くぞ」


 ユークの指示に、グランは短く喉を鳴らして同意した。


 グランは一枚岩の中央へ歩み出ると、再び前脚を高く上げ、今度は自身の体重と魔力を乗せて、特定のポイントを正確に踏み抜いた。


 ドガァァァンッ!!


 凄まじい音と共に、見た目は頑丈だった一枚岩の床が、中央から真っ二つに割れ、下の空洞へと崩れ落ちた。


 濛々と土煙が舞い上がる。


 視界が晴れた後、そこには数十センチほど一段低くなった、新しい床が顔を出していた。崩れ落ちた一枚岩の破片が、下の強固な地層にピタリとはまり込み、がっちりと固定されている。


 ユークはその一段低くなった床に飛び降り、何度か強く足踏みをした。


 今度は嫌な反響音はない。足の裏から、地球の核まで繋がっているような絶対的な硬さが伝わってくる。


「見事だ。崩すことで、全体を守る。これでもう、ここが抜ける心配はない」


 不安定な一枚岩を仮補強して誤魔化すのではなく、あえてコントロール下で破壊し、下の安定した層に直接荷重を預ける。それがユークとグランの『土木ロジック』だった。


 続いて二人が向かったのは、安全導線の上を通る、斜めに傾いた巨大な石柱の下だった。


 天井の一部を支えているその石柱には、斜めに深い亀裂が入り、今にも真っ二つに折れそうな状態だった。


「ここは崩せない。柱が折れれば、上の岩盤ごと通路が完全に塞がる」


 ユークは魔力灯で亀裂の深さを確認し、記録帳に簡単な構造図を描いた。


 上からの強烈な圧力が柱に真っ直ぐかからず、斜めに逃げようとしているため、剪断せんだん応力が発生して柱を引き裂こうとしているのだ。


「完全に修復する魔法はない。だが、耐える形に変えることはできる。グラン、あそこにある金属の支柱を持ってきてくれ」


 ユークが指差したのは、崩落現場の隅に転がっていた、かつての保守員が残していった旧式の金属支柱だった。少し錆びているが、太さは十分にある。


 グランはその強力な顎で重い金属支柱を易々とくわえ上げ、ユークの元へ運んできた。


 さらにユークの指示で、グランは周囲の硬い岩盤の破片を自らの爪で削り出し、正確な角度のついた『クサビ』をいくつか作成した。


「よし。俺が合図したら、柱の亀裂の隙間にクサビを打ち込んで、横の分厚い壁とこの金属支柱の間に挟み込め。力を『逃がす』んだ」


 ユークは石柱の根本と、通路の横にある頑丈な側壁の間に金属支柱を斜めに噛ませた。


 上からの重みを、折れかけている石柱だけで支えるのではなく、金属支柱を介して強固な側壁の方へ分散(負荷逃がし)させるのだ。


「今だ、グラン!」


 グランの太い前脚が、クサビを亀裂と支柱の間に強烈な力で叩き込んだ。


 ガキィンッ!という金属同士がぶつかるような鋭い音が響く。


「……ッ、どうだ?」


 ユークが息を呑んで見守る中、ミシミシと嫌な音を立てていた石柱の軋みが、嘘のようにピタリと止まった。


 上からの数百トンの荷重が、クサビと斜めの金属支柱を通じて、見事に横の側壁へと綺麗に流れていったのだ。


 見た目は、つっかえ棒と石の破片を挟んだだけの、ひどく無骨で応急処置的な補修だ。魔法による完全修復のような美しさはない。


 だが、土木の理にかなったその構造は、あと数十年は軽くこの天井を支え続けるだけの強度を持っていた。


「完璧だ。力任せに支えるんじゃなく、流れを操る。お前は本当に優秀な現場監督だよ、グラン」


 ユークが分厚い甲殻を撫でると、グランは琥珀色の瞳をわずかに細め、満足げに鼻息を吹いた。


 その後も、ユークとグランの作業は続いた。


 シルクスが『ここは安全』と保証したルート上で、ルーメが『青緑の光』で示した道筋に沿って。


 邪魔な大岩をグランが砕いて脇へ退け、泥の沼を越えなければならない場所には、グランが崩れない石を敷き詰めて強固な『飛び石』を配置する。


 時にはあえて壁を少し崩して道幅を広げ、時には旧保守導線から持ち出した木材や金属片で小さな橋を架けた。


 泥にまみれ、埃を被り、息を切らしながらの数時間の重労働。


「……ふぅ。これで最後か」


 ユークは、中枢コアへと続く旧保守導線の入り口――あの狭い石板の扉の前に立っていた。


 入口層からここまで、蛇行し、高低差があり、泥に阻まれていたルートが、今や一本の明確な『道』として繋がっていた。


「確認するぞ」


 ユークは入り口の前に立ち、ゆっくりと振り返った。


 そして、今自分たちが作り上げた道を、自らの足で歩き始めた。


 一歩、また一歩。


 靴底から伝わってくるのは、泥のぬかるみでも、グラつく岩の不確かな感触でもない。


 グランが踏み固め、再構築した、地球の裏側まで繋がっているかのような確かな反発力。


 頭上を見上げれば、あの斜めになった石柱が、クサビと支柱によってしっかりと荷重を逃がし、静かに天井を支え続けている。


 足元にはルーメの青緑色の光が等間隔に灯り、絶対に踏み外さない道標となっている。


 すぐ横には、モルトが処理するための泥の水路があり、空気からはあの強烈な腐敗臭が消えている。


 そして、シルクスの見えない糸が、空間全体の安全を静かに監視し続けている。


 ユークは、入口層の入り口――最初に崩落に巻き込まれた場所のすぐ近くまで歩き切り、そこで足を止めた。


「……通ったな」


 ユークの口から、深い、深い安堵の吐息が漏れた。


 それは、強力な魔獣を討伐した時の高揚感とは違う。冷たい水を飲んだ時のような、静かで確かな達成感だった。


 灰環迷宮の入口層に、はじめて『戻るための道』が一本通ったのだ。


 行きの道ではない。探索し、資源を奪い、奥へ進むための道ではない。


 奥へ行った者が、必ず生きて帰り、報告し、休むための『生命線』。


 この一本の道が確保されたことで、入口層は「入ったら死ぬ危険な穴」から、「管理下に置かれた業務区画」へと劇的な進化を遂げた。


「よくやってくれた、グラン。最高だ」


 ユークが振り返ると、グランはすでに仕事は終わったと言わんばかりに、新しくできた頑丈な床の上にどっかりと腰を下ろし、再び岩の塊と同化しようとしていた。


「さて、道はできた。索敵も、浄化も、照明も機能している。これで入口層の『基盤』は完成したと言っていい」


 ユークは泥だらけの手で顔を拭い、記録帳を開いた。


 しかし、彼の表情はまだ完全に緩んではいなかった。


「基盤はできたが、ここはダンジョンだ。俺たち管理者だけがいればいいわけじゃない。外から迷い込んでくる野良の魔獣や、いずれ入ってくるであろう人間たち……『イレギュラーな来客』に対する備えが、まだ何もない」


 今の状態は、綺麗に掃除されて道が通っただけの、扉の開いた金庫のようなものだ。


 安全な道ができたことで、皮肉にも、外部からの侵入者が迷宮の奥へアクセスしやすくなってしまっている。


「正面から戦って追い払う戦力は、俺たちにはない。なら、どうやってこの安全な道を守るか」


 ユークの視線の先。


 ルーメの光が届かない暗闇の奥で、スゥーッと不自然に揺らぐ、複数の赤い瞳のような光の残滓が見えた。


「……出番だぞ、フェズ。次は、お前の『幻』の使い道だ」


 ユークは記録帳に新たな課題を書き込み、魔力パスを通じて、まだ怯えて隠れている最後の契約個体へと呼びかけた。

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