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その手を  作者: 一ノ瀬 蒼
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その手を取って

今日も今日とて食事に手を合わせる。

イタダキマス。


「や、やめろ!待てっ、待ってくれ!!」

立派なブランドのスーツにだらしない身を包み、大粒の汗を流して逃走していた男は静まり返った夜道に倒れこんだ。情けなく尻餅をついた体勢のまま近づいてくる人影に向かってわめきたてる。男の震えにあわせてその腕につけられている毒々しい赤さのブレスレットが地面を叩き、カラカラと場違いに軽い音をたてた。容赦なく距離を詰めるその影は、グレーのスーツに身を包んだ短い黒髪の男。どうやらわめくその声に耳を傾ける気はないらしく、何とも面倒くさそうに深紅のネクタイを緩めながらゆっくりと歩いてくる。慌てて立ち上がり駆け出した男の背に対して、彼は片手の人差し指を前に向け、ついと天を指した。その指の流れにあわせて走る男の体から空に向かって幾筋もの光がすぅっと抜け出る。光が抜けきるとその体の動きはぴたりと止まり、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。先程までの騒がしさが嘘のようである。

倒れた男の体には目もくれず、彼はそこから出てきた光の筋をたぐりよせた。まとめおわって手のひらに収まる程度の光る塊となったそれを見て思わず舌なめずりを1つ。鮮血のごとき赤い瞳を期待に細めて、ふわふわした綿菓子を食べるようにそっと口に運ぶと、その光は噛み砕かれる事なくごくりと飲み込まれた。口内に広がるのは、悪人の魂らしくこってりとした安っぽい味。胃がもたれそうながらも美味しいその味を堪能した彼は、満足気に黒くしなやかな鞭を思わせる尻尾を震わせた。頭に2つの羊と同じ角を持つその男は、背中に生える大きなコウモリに似ている黒い翼を広げ、月夜の闇へと飛び去っていった。

ゴチソウサマ。と言い残して。



まったく世知辛い社会だ。努力の過程も評価しますなんてのは学校の時ばっかりで、世の中に出れば結果の出ぬもの食うべからず。この界隈じゃそこそこの地位にいるはずの俺ですら契約した奴にはペコペコして、そいつの言うことをきちんときかなきゃいけない。まぁ今さっきやっとひと仕事終わったわけだけど。契約したやつの願いを叶える代わりに俺らはその魂を食べさせてもらう。これ魔界の鉄則。浅はかな人間どものめんどくさい願いを叶えるのはダリぃけど、そうしないと食事にありつけないからやるしかないわけだ。俺ら悪魔は人型の生き物の魂を食べないと生きていけない。特に恋するとその相手の魂しか食べれなくなる。噂だとまろやかでのど越しの良い善人の魂よりずっと美味くて、濃厚でとろけるような味わいらしい。動物の魂とか人間界の飯も確かに美味いんだけど、入ってる力が少なすぎていくら食べても意味がない。つまりグルメな割に生きるための食料源が限られてるってことなんだよなぁ。生きるために食べるのか、食べるために生きるのか。あー何かめんどくさくなってきた考えるのやーめたっ。

「動かないで。消滅させるよ?」

いきなり背後から声がした思うと、空中を飛んでいた俺の首筋に鋭く光る大鎌があてられた。「奴」がまた来たか。俺はゆっくりと口を開く。

「この間サキュバスのラミスちゃん見て鼻血出してたの誰だったかな~。他の奴らにも言っちゃおうかな~」

「何で知ってるの!!?いつ見た!?やめろ絶対言うなお願いしますからあ!!」

「お前こそいつも俺に会う時に刺客のふりするのやめてくれねぇ?いい加減飽きちまうよ」

予想通りの反応と共に首筋の鎌はすぐに外された。「奴」なんてもったいぶったが敵でも何でもない。ただの悪友、ラビリスである。明るい茶髪の猫っ毛と男にしては大きめで髪と同じ色の瞳、白い肌。人はこいつを可愛い系と呼ぶらしい。俺的には可愛さを演じてモテたいという本性が見え見えすぎて、微塵もそうは感じられないんだけど。死神を生業としている彼は白シャツと黒いスラックス、裾の長い黒のローブを見にまとい、身長ほどもある大きな鎌を抱えている。

死神は人間の魂を輪廻の輪に連れていくのが仕事、悪魔は契約を結んだりして人間の魂を食べることが生きるための行動であり仕事。だからお互いがお互いの扱ってる魂を奪い合うなんて日常茶飯事で、世間的に死神と悪魔は仲が良くない。だけどラビリスと俺は例外で、お互いの嫌いなやつの仕事を邪魔しあってる相棒関係だ。先程のような馬鹿な茶番をするくらいには仲が良い。

「登場がワンパターンで悪うございましたねぇ。でも元気そうで良かったよ、そろそろ昇格できそう?」

「会ってすぐ昇格の話かよ、がめつっ!俺はまだなかなかなぁ…そっちは?」

「僕もぜんぜーん。ちゃんと僕の隣町担当してる死神の邪魔しといてよね~?あーあ、早く偉くなってチヤホヤされたいな~」

「あー、ホントそれな!俺もとっとと偉くなって楽してぇ~」

2人して夜空に浮いたままうだうだと駄弁り始める。魔界の仕事はほぼ完全出来高性だ。目安程度の割り当て区域はあるけどどこまで足を伸ばしてもいいし、悪魔の場合は魂を食った分だけ力がついて強く偉くなれる。死神も魂を運べば運ぶだけ偉くなれるらしい。でも食べる魂や運ぶ魂が底を尽きないためのルールもあるから他の奴より群を抜いて強くなるのは意外と難しい。それに下級中級上級と位はあるが階級内でも大きな序列の幅が存在していて、上級だから偉いに直結する訳でもない。だから俺は上級悪魔なのにあっちへ飛びこっちへ飛びとあくせく働かなくちゃいけない。言うなれば中間管理職。ちなみにラビリスは筋のいいしたっぱって所か。とどのつまり俺らにとって、トップに近い存在になってせかせか働かなくても済む生活をするという夢はまだまだ遠いのだ。あー世知辛え。ラビリスとしばらく話していたが、だんだん夜が明けそうなのでお互いの割り当て区域に戻ることになった。



あーあ、早く昇格してぇな。そんな呟きをもらしながらほの暗い街なかに降り立った。日が出てから悪魔の姿を人に見られると大変なので、角や尻尾を引っ込めて人間と同じ歩く移動に切り替える。自分の家に帰ろうと足を進めたとき、ふと違和感を覚えた。どこかから歌が聞こえる。おかしい、こんな夜とも朝方ともつかない時間に起きているのはいつも俺しかいないはずなのに。聞こえる歌声は透き通るように美しく、かえって気味の悪さを増長させている。俺の足は違和感に急かされるまま、音の発生源へ向かった。


まだ水の出ていない噴水を曲がり橋を越え、住宅街を抜けて人の気のない暗い林へ入る。そこで俺は見つけた。草が乱雑に生えた地面に座り込んで目を閉じたまま歌うボロボロの小さな天使を。思わず目を見開き、呼吸を忘れて目の前の存在を見つめる。背中の中ほどまであるゆるいウェーブのかかった金髪は泥で汚れ、神話の挿し絵では雪のごとく白いはずのワンピースや羽は所々破れたりちぎれたりしていて、頭の上の光輪も力なく発光するのみ。そして極めつけに閉じられた目は血で汚れて酷い有り様だった。これでは目が機能するのかどうかもわからない。羽や光輪があるので天使だと分かりはするが、正直そこら辺の野良犬の方がましだと感じるくらいの身なりだ。力なく木の幹に体を預け、気をまぎらわすように弱々しい歌声を発している。こいつの状態も信じがたいが、そもそも天界でお高くとまっている天使が人間を庇護するでもなく地上にいる事がありえない。もしや数百年ぶりに悪魔狩りでも始まるのかと、天界の住人の持つ強大な力に思いを巡らせ身構える。その時やっと俺に気づいたのか歌声が止んだ。目を閉じたままの天使が不安げに声を発する。

「…貴方は誰ですか?」

その声に何となく悟った。こいつ目、見えてねぇな。さっきまで驚きと緊張で固まっていた頭が急に冴え渡るのを感じた。悪魔にとって天使は天敵だが、同時に極上の栄養源でもある。人型で力に溢れた魂。天使と戦ってその魂を食べる事に成功した悪魔はめったにいない。食べればさぞかし大きな力が手に入ることだろう。兼ねてから夢見た昇格の2文字が一気に近づく。匿って世話をして油断させてから、力が回復した状態で俺の糧になってもらおう。俺マジ天才。俺の口は弧を描き、とびきり優しい声で聖母のように言葉を紡いだ。

「…俺はディック。心配しないで。君は俺が守ってあげる。」

柔らかい声に俺を仲間の天使と勘違いしたのか、彼女はほっとしたように顔を緩ませた。彼女が俺に向かって細く白い手を差し出す。夜明けの光に照らされながら、俺は今にも折れてしまいそうなその手をそっと取った。


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