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エレノアの悲しみ

家に着くまで、エレノアの顔には完璧な微笑みがのっていた。

しかし、自室の扉を閉めると途端に、その笑みが無惨に歪んだ。

「エレノア様?」

アンが驚いたように駆け寄ったが、エレノアはかまわず寝台に倒れ伏して泣いた。

二人の関係は、気付いたときには終わってしまっていたけれど、胸の痛みは今のものだ。

コールという優しい婚約者を失った喪失感。

捨てられたという悲しみ。

先が見えなくなった不安。

でもやっぱり何より、婚約者を、初めての恋を、大事にできなかった後悔。

「何があったのです、エレノア様」

そっと背中をさするアンに、顔を上げないままエレノアは言った。

「・・・じきにお父様宛に、婚約解消のお話しが来るわ」

声は枕でくぐもった。

「婚約・・・解消ですか」

アンは一瞬声を固くしたが、すぐにエレノアを慮るように和らげた。

「お飲み物を用意しますね」

少し待っていて下さいと言い置いてアンが部屋を出て行くと、エレノアは再び悲しみの海に沈んだ。

これでアンから領地の父へ連絡が行くだろう。後は父に任せておけばいい。そうすれば、数日後には自分とコールには、何の関係もなくなる。エレノア・ガーラントはニコラス・マクレーンと他人に戻るのだ。そう思えばまた涙がどっとあふれ出た。

泣いて泣いて、枕をぐっしょりとぬらしながら、エレノアの心は幾度も過去をさまよった。

初めてニコラスに会ったときのときめき、年上の彼への憧れの気持ち。

初めてのデートで優しくエスコートされ、微笑まれて舞い上がったこと。

婚約者としてふさわしくありたくて、嫌われたくなくて、淑女らしくあろうと頑張ったこと。

デビューの夜に踊ってくれたこと。

いつもいつも、まっすぐ目を合わせることも出来ないほど、どきどき胸を高鳴らせていた。

たくさん間違えたのかもしれない。カーラやアイリーンに話せば、貴方が悪いと言われるのかもしれない。けれど、間違いなく恋をしていた。それが相手をよく見つめることもできない、独りよがりの恋だったとしても。

泣いても泣いても、枕に顔をうずめて世界を遮断しても、疲れた頭に浮かぶのはニコラスとの思い出。アンが用意してくれた飲み物にも手をつけず、着替えもしないまま、エレノアは夜中まで泣き続けた。


その夜、エレノアは髪を揺らす風を感じて目を覚ました。

いつの間にか泣き疲れて眠ってしまっていたらしい。

背中の痛みに重たい身体を起こせば、カーテンが引かれた部屋は暗かった。

寝台の側で蝋燭が一本だけついて、それがぼんやりと部屋の中のものを浮かび上がらせている。アンの心配りを感じ、エレノアの目にまた涙が浮かんだ。

アンはまた、寝台のそばの机に軽食を置いてくれてもいた。エレノアの好きなフルーツサンドののった皿と、水差しだ。のどは渇いていたけれど手をつける気にはなれず、エレノアは水に浮かんだレモンをぼやけた視界で見つめた。

急にぶるりと身体が震えた。

先程の風のせいだろうか。窓が開いているのだろう。エレノアはふらふらと立ち上がった。そして薄暗い部屋の中、窓辺に向かった。おかしなことに窓は閉まっており、エレノアは勘違いだったのだろうとカーテンを閉め直そうと思った。

そのとき、ふわりと甘く優しい香りがした。

開いたままのカーテンの隙間から月明かりが差し込み、エレノアの視界を照らす。

香りのもとをたどって、エレノアの目は窓辺の机の上にたどり着いた。そこに薔薇の影を見つけ、エレノアは目を見開いた。月明かりに浮かび上がる、淡い色合いの・・・薔薇。エレノアはそっとそれを持ち上げた。

「良い香り・・・」

鼻腔に広がるその香りで、頭の中まで満たされるような気がした。

ニコラスのはずがないその花の送り主を、エレノアは一人しか思いつかなかった。



王都について4日目、ウィリアムとシンシアが王都の屋敷へ戻ってきた。

ようやく王都の通行も正常に戻ったことやシンシアの学校の事情もあっただろうが、まだ全快とは言えない母を置いてのことだ、エレノアは自分のせいで家族に心配をかけていると思わずにはいられなかった。

「大丈夫だよ、エレノア」

根拠も何もなくとも必死に大丈夫だと言い聞かせる父に、エレノアはほんの少しだけ慰められた。

「きちんとあちらの非を認めさせて、エレノア様が困らないようにして下さいませ」

影でアンがウィリアムの尻を叩いているのも聞いてしまった。

「あちらの当主は平謝りだよ。愚息が不始末をしでかして申し訳ないって」

ウィリアムの応える声に、マクレーン家の赤ら顔の気のいい当主と、真心を持って接してくれた奥方が思い浮かぶ。彼らとの関係も絶たれてしまったと思うと、さらに悲しみが増した。

「当主は息子に思い直させたかったようだけれど、こちらとしては今さらやり直すと言ってもね」

「これだけエレノア様が傷付いたのに、元通りになど考えられませんわ」

アンがまさかと言いたげに語気を荒くした。普段穏やかなウィリアムもそれに同意する。

「うん。僕も同じ考えだよ。あちらもそれは理解している」

エレノアはそれだけ聞いて、そっとその場を離れた。

この家の中でマクレーンという言葉がぴたりと使われなくなったことにも、エレノアはまた寂しさを覚える。多くのものが、自分のために壊れてしまったのをエレノアは感じていた。

アンもウィリアムもニコラスの心変わりに憤慨し、エレノアのせいだとは思っていない。

貴族の婚約が若者二人の間柄とはまた違う意味をもつことももちろん分かる。家の繁栄を考えれば、アイリーン王女の計画のため極秘に動いていたエレノアに非はなく、むしろその間に心変わりしたニコラスこそが浮気者と非難される。だから当主の間でどういう取り決めが成されるかにはエレノアは口を挟む気はない。

けれど、それとは別にエレノアは自分を責めるのをやめられなかった。ニコラスが心変わりしたのはエレノアのせいでもあると、彼女だけは知っているのだ。それに、たとえエレノアに応える気がなかろうと、ファレルの行動に他意があったことも実は事実で、そうなればなおのことニコラスを責めることは出来ない。

自分が悪いと思うから、ひどいと嘆くこともできない。

だからといって一度壊れたものを無理矢理やり直そうとすがることもできない。

エレノアはただただ悲しかった。

「はあ・・・」

知らずまたひとつ、ため息がこぼれる。

それに応えるように、かすかに花びらが揺れた。

エレノアは気を取り直して水をかえた花瓶を置き、そこに花を生ける。

薄紫の秋薔薇は、毎夜エレノアの寝ている内に届けられる。

もう一度3輪の薔薇の香りをかいでから、エレノアは空を見上げた。

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