第5話:命の血判状、そして1000年の咆哮
満月の夜。イギリスの沿岸を洗う黒い波を割って、一本の影が音もなく滑り出した。
ハラルド率いる二十人の奇襲部隊を乗せた、ロングシップ(木造船)だ。
今夜の海は不気味なほどに静まり返っていた。
月光が水面を銀色に染める中、男たちは一言も発さず、ただ静かに、しかし力強くオールを引いていた。
オールの木肌が擦れる小さな音と、夜の海を切り裂く微かな水音だけが、闇の中に響く。
「……見えたぞ。あれが『聖マリア修道院』だ」前方の闇を見据えていたハラルドが、低く、押し殺した声で告げた。
海から深く内陸へと繋がる、大きな川の河口。その崖の上に、大理石で造られた巨大な教会が、まるで民を見下ろす白い怪物の如くそびえ立っていた。
ハラルドの合図とともに、二十本のオールが一斉に動きを止める。
船は教会の真下、断崖絶壁の影へと音もなく滑り込んでいった。
村を襲うために最強の『神聖騎士団』が出撃した今、この本拠地の背後は、完璧にガラ空きだった。
「――剣を抜け」ハラルドが漆黒の闇の中で牙を剥く。
男たちは音もなく船を降り、大斧を背負って一歩一歩、教会の最深部へと、静かに死の足音を近づけていった。
数分後、教会の美しい大理石の回廊は、血と鉄錆の臭いに染まっていた。
奇襲は成功した。だが、留守を守る騎士の生き残りも、信仰に狂ったプロだった。
狭い回廊での、お互いの丸盾を重ね合わせ、文字通り肉と肉、骨と骨を軋ませて押し合う、息の詰まるような「盾の壁」の圧殺戦。
教会の騎士たちの放つ、鉄兜の頭突きがバイキングの鼻面を叩き割り、鮮血と歯が床に散る。
だが、嵐の海で指の皮を狂ったように引き裂いてきた海の男たちは、鼻を折られてもなお、狂犬の如き笑みを浮かべて敵の盾に身体ごとぶつかり返していた。
「前へ出ろ! 盾を引くな! 往った仲間の骸を跨いででも、一歩も退くなァッ!!」
ハラルドの怒号が響く。一人倒れ、二人倒れ。ハラルドのすぐ隣で、あの嵐の海を共に生き抜いた親友の胸が、敵の長槍に深く貫かれた。
「ハラルド……新天地を、家族を……頼む……っ」血を吐いて崩れ落ちする戦友。
その温かい血飛沫を顔面に浴びながらも、ハラルドは前へ、前へと肉の壁を押し進めていった。
そしてついに――。ハラルドたちの血塗られた歩みは、教会の最深部、悪徳司教たちが震えて隠れる大聖堂の扉をぶち破った。
ハラルドはボロボロに引き裂かれた『オークの盾』を、残されたすべての力を振り絞って、剣の柄で思い切り叩きつけた。
ドカン――――――――ッッッ!!!大聖堂の天井を、そして大理石の柱を粉々に砕くような、大砲の如き轟音が響き渡る。
「ここが決戦の場だ、強盗どもォッ!!」
ハラルドの、凄まじい覇気を孕んだ咆哮。
金銀財宝で肥え太った教会の司祭たちに、海の男たちの圧倒的な牙に抗う力など、もう一寸も残されていなかった。
戦いは終わった。教会の不条理は完璧に叩き潰され、ハラルドたちは生きるための豊かな農地を手に入れた。
しかし、修道院の回廊へと戻ったハラルドたちの前には、二度と動かなくなった、大切な仲間たちの冷たい骸が並んでいた。
甘い救いなど、この過酷な9世紀の海にはどこにもない。
ハラルドは、大切な親友の遺体を抱きしめ、血混じりの雨が降るイギリスの空を仰ぎ、喉を掻き切るような大音声で最後の咆哮をあげた。
「――お前たちの命の音を!! 往った奴らの魂に届けろォッ!!!」
ガツン!
「「「――ウーッ!!」」」
生き残ったバイキング、開墾の仲間となったイギリスの農民たちが、血まみれの拳を胸に叩きつけて咆哮を返す。
ガツン!!
「「「――ハッ!!!!」」」
それは、死者を悼み、残された者たちがこれからも海も陸もない「家族」としてこの土地で生き抜くという、命の血判状のリズムだった。
その手拍子は、徐々に速度を上げ、彼らが新天地に打ち立てた新たな『掟』の地鳴りとなって、イギリスの大地へと深く、深く刻み込まれていった。
*
同じ頃、ハラルドたちが守ると誓った「村の防衛線」でも、もう一つの戦いが決着を迎えようとしていた。
満月の夜、いつも通り民衆を毟り取るためにやってきた教会の徴税官は、村の境界線にたどり着いた瞬間、その異様な光景に身を震わせた。
いつもなら怯えて泥に平伏するはずの農民たちが、一歩も引かず、クワや大鎌を握りしめて自分たちを睨みつけているのだ。
その最前線には、十人の巨大なバイキングの漢たちが、壁のように立ち塞がっている。
「不信心者どもめ、神聖騎士団の刃が怖くないのか!」徴税官が怯えを隠すように鞭を鳴らし、教会の騎士たちが前に出て脅しをかける。
だが、その鉄の威圧を正面から受け止めた十人のバイキングたちは、一歩も退くに不敵に笑い飛ばした。
「ハッ! 神の命令だか何だか知らねえが、誰かに命令されて握る剣の、なんと軽いことか!」
一人の巨漢のバイキングが、正面から突き出された騎士の槍を、その桁外れの怪力で剥き出しの素手で掴み取った。
手のひらから生血が滴るが、男は牙を剥き出しにして吼えた。
「俺たちは誰の奴隷でもねえ! 自分の命の使い道は、俺たちがシング(民会)で、自分たち自身で決めたんだ! 自分の掟のために死ねる俺たちの腕が、お前らの生ぬるい鉄に、負けるわけがねえだろうがァッ!!」
力ずくで引きずり下ろされ、泥の中に叩き落とされる教会の騎士。
そのバイキングたちの、どこまでも自由な『生き様の輝き』を見た瞬間、イギリスの農民たちの胸の奥で、長年縛られていた奴隷の鎖が完全に弾け飛んだ。
「俺たちも……俺たちも、奴隷じゃないッ!!」
「――声を合わせろッ! 家族を守るぞォッ!!」
ドンッ! と太鼓の音が響いた瞬間、十人の大男たちが、何百人ものイギリスの農民たちと共に一斉に咆哮をあげた。
「「「――ウーッ!!!!」」」
その地鳴りのような圧倒的な結束の覇気に、騎士たちの馬が恐怖で竿立ちになる。
農民たちの放つクワや大鎌の一撃が、次々と教会の不条理を打ち砕いていく。
無敵と恐れられた神聖騎士団の兵士たちが、恐怖に耐えかねて、徴税官の馬車を置いて一斉にクモの子を散らすように敗走を始めた。
「……勝った。俺たちは、勝ったんだ……!」
次の瞬間、イギリスの大地を引き裂くような、割れんばかりの凄まじい「勝鬨」の歓声が、夜空へと燃え上がった。
自分たちの力で、大切な家を、家族を、未来を護り抜いたのだ。
その手拍子は、徐々に速度を上げ、彼らが新天地に打ち立てた新たな『掟』の地鳴りとなって、イギリスの大地へと深く、深く刻み込まれていった。
――その後、ハラルドたちが拓いた土地には、故郷ノルウェーから飢えを逃れてきた一族の者たちが次々と合流した。
かつては恐怖に怯えていた現地のイギリス農民たちも、今ではバイキングたちの腕っぷしを頼りにし、共に泥にまみれて豊作を祝う、かけがえのない『家族』となっていた。
海を越えた漢たちの泥臭い誠実さが、陸の不条理を塗り替え、新天地に血の流れない共生の楽園を創り上げたのだ。
時は流れ、現代――。スタンドを埋め尽くす何万もの大群衆の手が、一斉に掲げられる。
静寂を引き裂く、地鳴りのような太鼓の音。
「ドン……(沈黙)……ハッ!」
スタジアムの空気を爆発させる『バイキング・ロー』。それは、単なる応援歌ではない。
かつて1000年前の凍てつくイギリスの沿岸で、生きるために戦い、大切な仲間を失いながらも、共に生き抜くと誓って男たちが泥と血の中で鳴らし続けた、あの『命の結束の記憶』そのものなのだ。
失われた戦友たちの魂は、1000年の時を超えて、今も末裔たちの咆哮の中に、確かに生き続けている。
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【おまけの歴史裏設定:1000年後の名前の奇跡】本作のラストで、1000年後の現代(2026年)のピッチへと受け継がれた『バイキング・ロー』の咆哮。
実は、現在のサッカー界において、その北欧ノルウェー代表のエースとして圧倒的な怪物ぶりを発揮し、スタジアムの地鳴りを一身に浴びてピッチを駆ける重戦車のようなストライカーの苗字は、奇しくも――『ハーランド(Haaland)』といいます。
歴史・言語学の事実を紐解けば、9世紀の若きリーダーのファーストネームである「ハラルド(Harald=軍勢を率いる統治者)」と、21世紀の怪物の苗字である「ハーランド(Haaland=高い土地)」は、本来は別のルーツを持つ偶然の響きにすぎません。
しかし、195センチを超える巨体と金髪をなびかせ、まるで大斧を振り回すかのように世界のディフェンダーをなぎ倒してゴールを奪う彼の姿を見るとき。そして、そのゴールの瞬間にスタジアム全体で「ドン……ハッ!」とバイキング・ローの咆哮が巻き起こる時。
読者の皆様の目には、かつて暗黒の嵐の海で、泥と血の中で最初に盾を打ち鳴らしたハラルドの魂が、1000年の時を超えて彼らの肉体と名前に宿り、今もなお戦い続けているように見えてくるのではないでしょうか。
歴史の偶然すらも味方につけた、漢たちの命の結束の物語。最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
(『バイキング・ロー 〜最初の咆哮〜』・完)
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
本作は、映画のような単なる「野蛮な略奪者」ではない、歴史の真実におけるバイキングたちの『自由民(誰の奴隷でもない)としての誇り』と『命の結束』を、自分自身が大好きな剥き出しのセリフと熱い咆哮で描きたいという想いから生まれた物語です。
劇的な全員無傷のハッピーエンドにはしませんでした。
生身同士の戦いの凄惨なリアル、一人倒れ二人倒れても絶対に盾を引かない泥臭い犠牲があったからこそ、最後にハラルドたちが血の海の中で鳴らした『バイキング・ロー』の地鳴りが、時を超えて2026年現代のスタジアムの熱狂へと繋がっていく。
その1000年の魂のバトンを、少しでも熱く感じていただけたなら、作者としてこれ以上ない幸せです。
前作『ジャネット・パテーの復興記』に続き、もし少しでも「魂が震えた」「クソ格好いい」と感じていただけましたら、下部にある【評価(☆)】や【ブックマーク】で応援していただけると、今後の創作活動の凄まじい励みになります!




