第1話:海の墓場
※本作は、サッカーの応援としても有名な『バイキング・ロー(バイキング・クラップ)』の歴史的な
なれそめと、9世紀の過酷な海を生きた男たちの誇りを描いた歴史架空戦記中編(全7話)です。
全話一挙公開しておりますので、ぜひ最後まで男たちの熱い咆哮を一気にお楽しみください!
最初の鼓動事の始まりは、故郷の村を満たした『死の臭い』だった。
9世紀、北欧ノルウェーのフィヨルド。
そこは一年の半分が凍りつき、作物など何一つ育たない岩だらけの絶望の土地だった。
前年の冬、ハラルドの村では飢えのために幼い子供や老人が次々と息絶えた。
ガリガリに痩せ細り、冷たくなった我が子を抱いて泣き叫ぶ母親たちの姿を、ハラルドはただ拳を血が出るほど握りしめて見つめることしかできなかった。
このまま村にいれば、次の冬で全員が全滅する。
生きる道は、たった一つ。羅針盤も地図もない、暗黒の北海へとロングシップ(木造船)を漕ぎ出し、海の向こうにあるという肥沃な新天地を略奪するか、あるいは、開墾するしかない。
「死にに行くのではない。俺たちは、命を奪い返しに行くんだ」若きリーダー、ハラルドのその言葉に、三十人の男たちが応じた。
彼らは奴隷ではない。同じ飢えを耐え、同じ冷たい血を分けた、命を預け合う対等な村の仲間、誇り高き戦士たちだった。
そうして漕ぎ出した海は――彼らの想像を絶する『地獄』だった。
*ゴオオオオオオオオオッ……!!凄まじい大気の咆哮とともに、漆黒の荒波が、まるで巨大な怪物の顎のようにロングシップに襲いかかっていた。
現在のパテーの海(暗黒の北海)は、文字通り『海の墓場』と化していた。
視界は激しい雨と波飛沫で完全に遮られ、上下の感覚すら失われる。
船体が波の頂点へと押し上げられたかと思えば、次の瞬間には数十メートル下の闇の底へと、叩きつけられるように急降下する。
バキバキ、ミシミシと、船の背骨である竜骨が、今にも真っ二つに裂けそうな悲鳴を上げ続けていた。
船の中は、凄まじい壮絶さに満ちていた。
「う、あああぁぁぁッ!!」一人の男が、激しい揺れと恐怖、そして押し寄せる海水による極限の船酔いに耐えかねて、胃袋の中の全内容物を血混じりで床にぶちまけた。
だが、それを気にする余裕など誰にもない。別の男は、波の衝撃でへし折れたオールの破片が顔面に突き刺さり、片目を潰されながらも、鮮血に染まった顔で「まだ引ける! 引けぇ!」と狂ったように叫んでいた。
冷たい海水が絶え間なく体温を奪っていく。三十人の漕ぎ手たちの腕の筋肉は、何時間も全力でオールをこぎ続けたせいで、とうに限界を迎えていた。指先は凍傷で黒ずみ、オールの木肌に皮膚が張り付いて、引くたびにベリベリと肉が裂け、生血が水たまりを赤く染めてゆく。
「もう駄目だ……! 波の高さが船の長さを超えている!」
「腕の感覚がねえ! 筋肉が千切れる! もう一歩も、一寸もオールが動かねえんだよ!」
一人の若い漕ぎ手が、ついに恐怖と疲労の限界を迎え、白目を剥いてオールから手を離し、床の吐瀉物と血の海の中に崩れ落ちた。
ズレた。オールのピッチが狂った瞬間、船体は激流に足をすくわれ、大きく傾く。右舷から、一呑みで船を沈めるほどの巨万の海水が流れ込んできた。
男たちの瞳から、生への執着が消え、濁りきった『絶望』の闇が広がっていく。
ここまでか。俺たちは、故郷の家族に麦の一粒も届けることができず、この暗黒の冷たい底で、魚の餌になるのか。戦士たちの魂が完全に死にかけた、その瞬間だった。
船の最前線、吹き荒れる嵐と血飛沫のど真ん中に、ハラルドが立ち上がった。
足を踏ん張り、波の衝撃を全身でいなしながら、腰に帯びた鋼の剣を、凄まじい金属音とともに抜き放つ。へたることすら許されぬ死線の中で、ハラルドは手にした剣の腹を、左腕に構えた木製の『盾』へと、思い切り叩きつけた。
ドカン――ッ!!!分厚いオークの板が割れんばかりの、地鳴りのような衝撃音が、嵐の轟音を完全にねじ伏せた。
男たちが、血と泥にまみれた顔を驚愕に跳ね上げる。ハラルドは凍える顎を引き、血走った目で仲間たち全員の顔を睨みつけ、喉が裂け、肺が破れんばかりの大音声を張り上げた。
「目を開けろ、北海の狼どもォッ!!!」その、魂を直接鷲掴みにするような咆哮に、漕ぎ手たちの凍りついた身体がビクリと震えた。
「何が絶望だ! 何が海の墓場だ!お前たちのその腕にあるのは、クソみたいな運命に怯えて震えるための、ただの腐った肉か!?違うはずだ! この海を、この嵐を捩じ伏せて、故郷の飢えた家族に生きるための実りをもたらすための、命そのものだろうが!!」
ハラルドは再び、一定の、心臓の鼓動よりも重いテンポで、剣を盾に叩きつけた。
ガツン!「……オー!」男たちが言葉を失う中、彼は一歩も退かずに、さらに力強く盾を叩く。
ガツン!「……ハッ!!!」それは、絶望に凍りつきかけた男たちの心臓を、内側から力ずくで叩き起こす、剥き出しの命の鼓動だった。
「死ぬときは全員一緒だ!だが、ただ波に呑まれて、惨めに溺れ死んでたまるか!お前たちの命の音を、俺の盾に、このクソッタレな海に響かせろ!呼吸を合わせろ! 命を一つに合わせろォッ!!!」
ガツン!
「オー!」
「――ハッ!!!!」ハラルドの咆哮と、魂のセリフが、片目を潰された老戦士の胸に、消えかけていた業火を爆発させた。
老戦士は裂けた皮膚の痛みに叫びながら、オールを血まみれの手で握り直し、拳を胸に叩きつけて獣のような雄叫びを返した。
ガツン!
「オー!」
「――ハッ!!!!」
一人、また一人と、ハラルドのリズムに、彼の剥き出しの魂に同調していく。
さっきまでバラバラに絶望していた男たちの呼吸が、吐瀉物と血の海を越えて、一つの巨大な『地鳴り』へと変わり始めていた。
ハラルドは不敵に笑い、手拍子の速度を、徐々に、徐々に速めていく。
それに連動して、オールの速度が爆発的に跳ね上がっていく。
嵐の激流よりも速く、深く。三十人の男たちのすべてのエネルギーが、一本の船の推進力へと集中していく。
それは、1000年後の緑のピッチの上で、絶望に直面した彼らの末裔たちが、スタジアムの何万もの大群衆と共に鳴り響かせることになる、あの伝説の咆哮――『バイキング・ロー』が産声を上げた、人類最初の奇跡の瞬間だった。




