第22話 約束
田原武馬
早朝、シュンヤは目を覚ました。
まだ薄暗い天井を見上げて、昨夜の事を思い出す。
リリーやホワイトヴェールとの会話を思い出していると、天井がカーテンの隙間から漏れる朝日で照らされていった。
今日はリリーの乗り運動を開始する日。その責任重大なファーストコンタクトをシュンヤは任されている。
「今日も頑張るか!」
シュンヤは勢いをつけて寝床から立ち上がった。
壁の時計を見ると午前四時。手早く顔を洗い支度を済ませた。
そして恒例となった当歳馬達の朝の給餌へ向かう。
六月といえども北海道の朝は少し冷える。シュンヤは温まりきらない体を擦りながら厩舎へ歩を進めた。
入り口に着くと、馬房の鉄柵から顔を覗かせた仔馬達は待ちきれないといった様子で目を輝かせている。
「はいはい、今あげるからねー」
最初は手前の鹿毛の子からだ。馬房脇のネームプレートには『ジルワダイコ』と書かれている。
用意してある飼い葉桶を、馬房入り口の脇にあるフックに手早くセットしてやる。
そうしてやると、その子は一心不乱に桶に顔を突っ込んで草を咀嚼していた。
全馬の給餌を終えた後、リリーの馬房に行くと、とても嬉しそうにしていた。
朝の「おはよう」の一言だけでシュンヤも顔がほころんでしまう。
その後、芹澤宅の朝食に同席させてもらった。
「久我君、今日リリーに乗る日だべ?」
ほかほかと湯気をたてるトーストをかじりながら芹澤が聞く。
「はい!」
「肩の力抜いてな。状態は徐々に上げていけばいいから」
「ふっふっふ。久我騎手、リリーに乗ったら驚くと思うよー。あの子春よりも筋肉量、かなり増えてるから」
百合は人差し指を立て、得意気だ。
「確かに背が高くなってるのは感じました」
「久我君、本当か!」
芹澤はめでたいめでたい、と目を細めた。
その様子に百合が呆れたようにため息をつく。
「芹澤さん、仮にも社長なんですから、馬の変化には細かく気づいてあげないと」
「いやぁーそこんとこ全くわかんないのよ。仔馬ならまだわかんだけどね?」
言い合う二人を横目に、シュンヤは朝食を終えた。
「ごちそうさまでした!準備をしてきます」
「おぅ!頼むぞ」
◇◇◇
シュンヤは自室に戻ると、騎乗のための準備を始めた。
しばらく着用していなかったため埃を被っている道具をきれいにし、点検していく。
「えっと、プロテクターにヘルメット、グローブは……あった。っと―」
視界の端で青色のスマートフォンが震えた。
明るくなった画面には『佐伯璃子』と文字が浮かんでいる。
「璃子さんだ。どうしたんだろ」
画面に表示された名前に指を伸ばそうとした瞬間、
「おーい!久我騎手!きてきて!リリーの馬装終わったよー!」
百合がドア越しに大声で叫んだ。
「は、はい!今行きます!」
シュンヤは後ろ手に叫び返すとスマートフォンをジーンズのポケットにねじ込んだ。
◇◇◇
数十ヘクタールはあろうかという広大な芝生の大地。
その傍らに、柵で囲われた縦に拡がるコースがあった。
その柵の切れ目はリリーの鞍上にいるシュンヤから見ても遥か遠く。その長さは約千m程か。
ウッドチップが敷き詰められたそのコースはトレセンのそれと比べればかなり小さいが、表面のウッドチップは踏み心地もよく、管理が行き届いている事が伺える。
「どうだい久我君。使用されていない放牧地を改修して作った芹澤ファーム特製の調教コースさ」
芹澤が馬上のシュンヤを見上げ、得意気に話している。
「この施設、リリーちゃんと久我騎手昨年の賞金で建てたんです。当歳馬の筋力強化のためにって。由美子さん、怒ってたけど」と、百合。
「いいでないか。こうして久我君達の役に立つんだから」
「それもそうですね」
「じゃあ軽くでいいべ。行ってみよう」
「はい!」
シュンヤはリリーとの呼吸を合わせることに集中した。
やがて、世界には一人と一頭だけになる。
「いけるね?」
シュンヤが小声で囁く。リリーはグイと手綱を引き、力強く応えた。
リリーは真っ白な馬体を陽光の元に晒し、小味良いリズムで駈歩を開始する。
乳白色の蹄は地面のウッドチップを力強く捉え、脚を踏み抜く。
軽く走っているだけにも関わらず、『ドドドッドドドッ』と衝撃がシュンヤの腹に伝わる。
「いいぞ!リリー」
「いいわね。このコース。走りやすいわ!」
「まだ行けそう?」
「ええ!行きましょう!」
シュンヤは軽く手綱を促す。
疾風迅雷。向かい風もなんのその。
あっという間に加速し、コースの端に辿り着いてしまった。
「まだまだ物足りないわね」
リリーは全く息が上がっていないようだ。彫刻のように白く透き通った首をぶるりと振るわせるとコースの開始地点を向き直る。
「もう一回、今度は来た道を走りましょう!」
「僕も同じ事を思ってたよ」
開始地点には芹澤と百合、数名のスタッフが手を上げているのが見えた。
「みんなに君の成長を見せてあげよう!」
「ええ!」
再加速。
先ほどの向かい風が今は追い風となり、二人を包んでいる。
加速の中、リリーの愉快そうな声が聞こえてきた。
「シュンヤ!やっぱりあなたと走ると気持ちがいいわ!」
「僕もさ!ずっとずっと君の背中が恋しかったよ!」
「本当に?」
愉快そうにしていたリリーだが、加速する足を少し緩め、顔を俯かせた。
その仕草は不安で仕方のない子どものよう。とシュンヤは思った。
(体がこんなに大きくて、いつも頼もしいけど、リリーは女の子だもんな)
シュンヤはリリーの手綱を握り直すと叫んだ。吹き荒ぶ風にも負けぬように。
「嘘なんかつくもんか!君に乗れないなら、騎手だって辞めてやる!」
その言葉にリリーは驚いたように身を震わせた。
コースは残り後半分ほど。しかし、リリーの走りは今やほとんど歩くような速度になっている。
「もう君を絶対に離さない。約束だ。だから……これからも僕と一緒に走ってほしい」
シュンヤは腹の底にある感情を全て、目の前の白毛馬に伝えた。離れたくない。本気でそう思った。
「そう……フフフ。わかったわ。シュンヤ。約束よ?もう、私から離れないで」
「うん」
「戻りましょうか」
リリーはスキップを踏むような、楽し気な足取りで走り始めた―
◇◇◇
京都府某所
時刻は午後六時すぎ。
閑静な住宅街に木造の一軒家がそびえ立っている。瓦葺きの屋根に大きな黒鉄色の門。
戸口までのびる石畳の道。広い庭には大きな池があり、その傍には石灯籠が立っている。そのどれもがよく手入れをされているようだ。
庭の扉は開け放たれており、廊下を挟んだ一つ奥、居間から光が扇状に漏れ出ている。
居間には若い女性が一人、机に向かって座っている。背筋がピンと張った黒髪の女性。前髪を眉の上で真一文字に切り揃え、大和撫子という言葉がよく似合う。佐伯璃子である。
彼女の前の机には参考書と思しき本が無数に並べられている。
表紙には『牧場経営のキホン』『配合飼料入門』『高齢馬の管理』と書かれている。
大量に付箋の貼られたそれらを忙しなくめくっては手元のノートに何やら書き込んでいた。
しばらく机に向かっていた璃子だが、傍のスマートフォンの振動で顔を上げた。
画面に映る名前を見て、桜色の薄い唇が綻んだ。
「シュンヤさん」
彼女は軽やかな動作で着信を取った。
「璃子さん、こんばんは。さっきは電話に出られなくてごめん。なんの用事だったの?」
一週間前、何も言わずに北海道へ行ってしまったシュンヤ。言いたい事は沢山あったが璃子はそれを飲み込み電話口に向き直る。
「シュンヤさん、決まりました。リリーちゃんの次のレース」
「本当に!?」
「ええ。次はG2、ローズステークスです。そこをステップにG1レース、秋華賞に向かいます」
「……!」
シュンヤの息を呑む音が聞こえてくる。
「最後の一冠、頑張ってくださいね!」
「ありがとう!」
「そういえば、今日は確か……リリーちゃんの乗り運動でしたよね?」
「そうだよ。よく知ってたね」
「それはおじいちゃんが逐一知らせてくれますもの。みんな楽しみにしているんですよ。シュンヤさん達の復活を。もちろん私も」
「ありがとう……!そうだ、今日の乗り運動なんだけどね、リリー、軽く追っただけなのにあっという間にコースの端まで行っちゃった。やっぱりリリーはすごいよ!」
電話の先から聞こえてくる明るい声に璃子は安心しつつも、少しの寂しさを覚えた。
腰まである黒髪を手で掬い、くるくると回してみた。滑らかなそれはすぐに璃子の手から滑り落ちていった。
「その様子だとシュンヤさんの足も大丈夫そうですね」
「うん……大丈夫。そうだ……黙って北海道に行っちゃってゴメン」
一転して、とても申し訳なさそうなシュンヤの態度に璃子は笑みを漏らした。
「良いんですよ。シュンヤさんなら……リリーちゃんのために、そうするだろうなって思ってましたから」
「えっ、そうなの?」
シュンヤの能天気な返事に璃子は憤りを感じた。
「そうです!シュンヤさんはリリーちゃんの事になると一直線だから。
でも、やっぱり本当は、心配しましたよ……次は何も言わずにいなくなったりしないでください!」
璃子の視界の端で、池のこいが身を捩らせて跳ねた。それに他の何匹かがつられて跳ね、激しい水音が鳴る。
「璃子さん……」
「……なんて、私らしく無かったですね。すみません」
最後は落ち着いた様子で言い切った璃子だったが、心臓はどくどくと早鐘を打っている。
シュンヤに憤りを感じた理由が、自分でもわからなかった。
「いや、僕の方もごめん。僕がリハビリを頑張れたのは、璃子さんの助けがあってこそだよ。次は事前に相談するね」
「ありがとう…ございます」
璃子がそう返した時、先ほどの喧騒はどこへやら。池は波紋を残し静まり返っていた。
「今度何かお礼をさせてよ。リハビリの。璃子さん、今欲しいものとかある?」
「そんなのいいですよ。私が好きでやった事ですから――いえ、お願いしたいもの、ありました!」
「なに?」
璃子はいたずらっぽく笑い、電話口にささやいた。
「シュンヤさん、こちらに帰ってきたら、私とデートしてください……約束ですよ?」
もう一度、こいが跳ねた。
最後まで読んでいただきましてありがとうございます。
次回もお楽しみに!




