第1話「人間に転生した、、、?」
世界が、白く染まっていた。
地平線の果てまで広がっていたはずの荒野は、今や光の檻に塗り潰されている。かつてここで何千もの兵が血を流し、大地が割れ、空が燃えた。だがその全ての痕跡が、今この瞬間、静かに消えていこうとしていた。
俺は膝をついていた。
生まれて初めて、膝をついていた。
右手に握った黒剣だけが、かろうじて俺を支えていた。刃を地面に突き立て、それを杖代わりにしなければ倒れていた。数百の傷口から血が滲み、鎧は原形を留めていない。魔力はほぼ尽きていた。
それでも、俺は立っていた。厳密には膝をついていたが——倒れてはいなかった。
目の前に、勇者が立っていた。
名前は、もう思い出せない。顔も霞んでいる。覚えているのは、その目だけだ。真っ直ぐで、迷いのない目。怒りでも憎しみでもなく、ただ揺るぎない意志だけを宿した目。
俺はその目が、嫌いではなかった。
「終わりだ、魔王」
勇者の声が、静寂の中に落ちた。
俺は答えなかった。答える言葉を持っていなかった。
封印の魔法陣が展開していた。足元から光の紋様が広がり、俺の体を絡め取っていく。抵抗しようとしたが、残った魔力では焼け石に水だった。
負けた。
単純な、揺るぎのない事実だった。
俺は世界最強の魔王だった。力において、誰にも負けたことがなかった。魔族の頂点に立ち、人間の国々を震わせ、神の使いとさえ刃を交えた。それでも俺は勝ち続けた。
なのに、この男一人に負けた。
なぜだ。
光が俺の視界を覆い始める中、俺はその問いを手放せなかった。力の差ではなかった。技術の差でもなかった。では何が——
答えは、光の中でふと降りてきた。
体だ。
俺には体がなかった。
正確には、あった。だが魔王という存在は肉体ではなく魔力で構成された異形だ。痛みを感じない。疲弊しない。恐怖を知らない。それが強さだと思っていた。
だが今、膝をついて血を流して、それでも立とうとするこの感覚——これは何だ。
魔力が尽きても、体が動こうとする。折れた骨が悲鳴を上げても、立ち上がろうとする。理屈ではない、理屈を超えた何かが俺の中に芽生えていた。
勇者にはそれが最初からあった。
人間として生まれ、傷つき、恐れ、それでも立ち上がることを繰り返した体が持つ、諦めの悪さ。俺が数百年かけて魔力を積み上げる間、あの男は傷の数だけ強くなっていた。
光が、全てを塗り潰した。
意識が遠くなる中、俺はただ一つだけ思った。
――もし俺が、人間として生まれていたら。
傷つくことを知った体で、痛みを知った肉と骨で戦っていたら。俺はもっと強くなれたのか。あの男と、もっと対等に戦えたのか。
答えは永遠に出ないと思っていた。
封印の光が完成し、世界が消えた。
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それから、どれだけの時間が経ったのかわからない。
光の檻の中で、俺は在り続けた。眠るわけでも、消えるわけでもなく。ただ在り続けた。
時折、外の世界の気配が届いた。戦争の振動。文明の匂い。魔力の流れが変化していく感覚。世界が変わっていくのが、封印の向こうから伝わってきた。
だが俺には何もできなかった。
それが一番、堪えた。
力があっても、体がなければ何もできない。存在しているのに、何も変えられない。俺は初めて、自分の無力を知った。魔王として君臨していた頃には、想像すらしなかった感覚だった。
そして気づいた。
人間たちが恐れていたのは、俺の力ではなかったのかもしれない。
体を持ちながら、それでも立ち上がり続ける、あの諦めの悪さを——俺は恐れていたのだ。
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光の中で、俺は静かに待った。
いつか終わりが来るとしたら、その時にもう一度だけ問いに答えを出したかった。
人間の体で、俺はどこまで行けるのか。
答えが出るとしたら——きっとそれは、青空の下だと思った。
魔王として生きた俺の世界に、空などなかったから。
―― そして数百年後、
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目が覚めたら、青空だった。
白い雲がゆっくりと流れている。風が草を揺らす音がする。どこかで鳥が鳴いていた。
のどかだ。実にのどかな光景だった。
――だが、俺には見覚えがない。
「…………」
俺は上半身を起こし、周囲を見渡した。見渡す限りの草原。遠くに山脈。空気は澄んでいて、土の匂いがする。
知らない景色だ。
最後に俺が見た光景は、光の檻だった。勇者が放った封印の魔法陣が展開し、世界が白く染まって——そこで記憶が途切れている。
俺の名はヴァルゼイド。
かつて世界を震わせた魔王だ。
…………だった、というべきか。
「封印されたはずなんだがな」
声に出してみて、気づいた。声が高い。いや、高いというより、若い。俺の声じゃない。
手を見る。細い。傷一つない、白くて細い手だ。かつての俺の手は、幾千の戦場を駆けた爪痕だらけの大きな手だったはずだ。
立ち上がってみると、目線も低い。体が軽すぎて逆に怖い。
俺は今、間違いなく別の体に入っている。
「転生……か」
言葉にすると、妙に腑に落ちた。
封印される瞬間、俺は確かに願った。もし人間として生まれ直せたなら、と。あの勇者に負けた時、力でも技でもなく、人間という器の差だったのかもしれないと、そう思ったのだ。
まさか本当に叶うとは思っていなかったが。
「まあ、なんとかなるだろ」
俺は立ち上がり、服の埃を払った。
ひとまず状況を整理する必要がある。
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草原を歩くこと三十分、ようやく街道らしき道に出た。石畳ではなくアスファルト、というやつだ。魔王時代にはなかったものだが、転生後の記憶——この体の元の持ち主の記憶——がそれを教えてくれた。
どうやらこの体の名前は、黒瀬煉という。十六歳。両親なし。孤児院育ちで、つい先日まで普通の学生だったらしい。
そして今日、この体の持ち主は死んだ。
川に落ちて、溺死した。それが転生の引き金になったのかどうかは知らないが、魂が抜けたこの体に俺が滑り込んだ格好だ。
悪いな、黒瀬煉。お前の体、しばらく借りるぞ。
道を歩きながら、この体の記憶を整理する。まず分かったのは、ここが「異能力社会」だということだ。人々が「異能」と呼ばれる力に目覚め、その強さで階級が決まる世界。弱肉強食とはまた違う、もう少し制度化された話だが、力が全てという点では魔王時代と大差ない。
階級は下から順に、下級、中級、上級、そして最上位が覇級——アルティマ。
世界に数人しかいない、文字通りの頂点だ。
なるほど、面白い世界になったもんだ。
「で」
俺は足を止めて、腰の感触を確かめた。
そこにあった。確かにあった。
黒い鞘に収まった、一本の剣。
俺が魔王時代から使い続けた相棒——黒剣ヴァルム。転生した体に、なぜかこれだけが一緒についてきていた。理屈はわからない。だが今はそれでいい。
鞘から少しだけ抜いてみると、刃が黒く光った。魔力を帯びた特殊な金属で作られたこの剣は、魔王時代の俺の全てを知っている。何百年経とうと、刃こぼれ一つない。
「お前も転生してたのか」
剣は当然答えない。ただ、黒い光がわずかに揺れた気がした。
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街に入ると、すぐに視線を感じた。
いや、正確には俺ではなく、俺の腰の剣に向けられた視線だ。通行人が目を丸くしている。老人が眉をひそめる。子どもが指差して親に叱られていた。
そうか、この世界では剣はめずらしいものか。
この体の記憶によれば、異能者たちは基本的に素手か、異能力に適合した専用の「能力武装」を使うらしい。普通の剣など、実戦では役に立たない——というのが常識のようだ。
俺は気にせず歩き続けた。
常識など、俺には関係ない。
街の中心部に差し掛かった時、騒ぎが起きていた。路地の入り口に人だかりができている。野次馬の隙間から覗くと、三人の少年が一人の少女を壁際に追い詰めていた。
少年たちは制服姿で、腕に「異能者認定証」のエンブレムが光っている。中級異能者の証だ。対する少女は、エンブレムがない。未覚醒か、あるいは——
「無能者のくせに生意気なんだよ」
三人のうちの一人が言った。
「この辺は俺たちの縄張りだって言っただろ。通行料を払えないなら、別の方法で払ってもらうしかないよなあ」
下卑た笑い声が上がる。周りの野次馬は見て見ぬふりだ。相手が中級異能者では、一般人には手の出しようもない。
俺は人だかりをかき分けて前に出た。
「おい」
声をかけると、三人がこちらを向いた。
「なんだよ、お前」
「通してくれ。その子と話がある」
俺は少女の方を顎でしゃくった。少女がぱちくりと目を瞬かせる。
「はあ? 誰だよお前。関係ないだろ」
「関係ある。俺は今暇で、お前らがうるさい。だから関係ある」
三人が顔を見合わせた後、リーダー格らしい一人が鼻で笑った。
「……エンブレムもないじゃないか。無能者か。なら丁度いい、一緒に痛い目見てもらうか」
異能が発動した。リーダーの周囲の空気が歪み、衝撃波が形成される。「空圧系」の異能だろう。中級にしては素直な能力だ。
衝撃波が俺に向けて放たれた。
俺は一歩、右に踏み出した。
それだけだ。
衝撃波は俺の左肩をかすりもせず、背後の壁を砕いた。
「…………は?」
リーダーが固まった。
俺は何もしていない。ただ、軌道を読んで動いただけだ。魔王時代、俺はそれより百倍速い攻撃を何千回と躱してきた。この程度、目をつぶっても避けられる。
「もう一回やるか?」
俺は穏やかに聞いた。
三人は顔を青くして、足がすくんだように動けなくなった。
野次馬がざわめく。
俺は三人の間を抜けて少女の隣に立ち、耳元で小さく言った。
「逃げるなら今のうちだぞ」
少女は一瞬だけ俺を見上げ——それから駆け出した。
俺も踵を返して歩き出した。
「お、おい待て! ただで済むと思うな!」
背後から怒鳴り声がした。
俺は振り返らずに答えた。
「思ってない。ただ、お前らが何かするより俺の方が先に動けるってだけだ」
しばらく間があった。
追ってはこなかった。
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路地を抜けた先の広場で、少女が待っていた。
栗色の髪を一つに束ねた、眼鏡をかけた少女だ。制服の胸元にエンブレムはない。俺と同じ、無能者か。
「あの……助けてくれて、ありがとうございました」
少女が頭を下げた。
「別に。通りかかっただけだ」
「でも、中級異能者の攻撃を、あなたは……」
少女が不思議そうに俺を見た。俺が何者か測りかねている目だ。
「剣、持ってますよね。異能者じゃないんですか?」
「無能者だ」
「え……」
「お前と同じ」
少女がぽかんと口を開けた。
俺はそれ以上説明するつもりもなく、広場の中心を見た。掲示板に一枚の紙が貼られている。
そこには大きな文字でこう書かれていた。
――「覇凰学園 特別推薦入試 実施のお知らせ」
「ほう」
俺は少し目を細めた。
覇凰学園——異能者育成の最高峰。アルティマを輩出した唯一の機関。入るだけで将来が保証されると言われる、この世界の頂点への登竜門だ。
特別推薦入試。異能の有無を問わず、実力さえあれば誰でも受けられる試験。
俺は掲示板の前で少し考えて、それからにやりとした。
「まあ、なんとかなるだろ」
隣で少女がおそるおそる聞いた。
「……もしかして、受けるつもりですか? 無能者なのに?」
「悪いか」
「悪くは……ないですけど」
「なら問題ない」
俺は掲示板から目を離し、空を見上げた。
青い空が広がっていた。転生してから、ずっとこの空だ。
魔王だった頃、俺はいつも暗い玉座にいた。空を見上げたことなんて、ほとんどなかった。
人間の体は不便だ。力は百分の一以下、魔力もない、異能もない。
だが——悪くない。
「お前、名前は」
俺は隣の少女に聞いた。
「……朝霧澪です」
「そうか。俺は黒瀬煉」
俺は歩き出した。
「また会うかもな」
「え? あの、待って——」
澪の声が背後に遠ざかる。
俺は振り返らなかった。
今日から俺は黒瀬煉だ。異能なし、剣一本。
それで、この世界の頂点まで上り詰めてみせる。
魔王だった頃にできなかったことを——人間として、やり遂げる。
理由なんてそれだけで十分だ。




