イクト、狼誅に遭う
彼女との夫婦生活は驚きと羨望で溢れていた
先ず、僕が普段通りに畑仕事に繰り出せば。
「イクト、時間は有限なんだから、畑仕事は大事だけどやり方を変えよう」
「やり方?」
と言っても、この世界に耕耘機といった機械類はないはずだ。
「今日は何をやるんだ? 麦畑の収穫? なら私にお任せあれ」
機械のない世界で麦刈りは収穫作業の中でも骨が折れる苦行だ。
でも、何でこの世界に機械が存在しないのか当てはつく。
彼女が麦畑の中央に立つと、次の瞬間には麦は一陣の風と共に切り取られ。
収穫された麦は糸繰り人形のようにマリーの目の前に積み上げられてゆく。
まるで魔法のようだ。
「なぁ、今のどうやったんだ?」
「おかしいことを聞く……でもこんな辺境だと魔術の存在は伝わってないのか」
「そうだと思う、僕も名前ぐらないなら齧ってはいるけど」
それも前世のサブカルチャーとしてだが。
「それで、小麦の売値はどれくらいなんだ?」
「今の収穫量で大体銀貨80枚」
「しょぼいな」
どうやら僕が大金と思っていた額は彼女にとって小金だったらしい。
ここに来る前の彼女の私生活が気に掛かる所だ。
「……しゃくだけど、あいつを呼ぶか」
「待ってくれ、あいつって誰のことだ? どんな人だ」
「人じゃない、私の使い魔の一匹だ」
なるほど、魔術が存在するのなら、使い魔がいたっておかしくない。
「とにかく煩い奴で王都に置いて来たんだけど、有能なのは有能なんだ」
有能な使い魔とやらを想像してみる。
僕が知っている魔女の使い魔と言えば、猫、カエル、犬に鳥類などだ。
「では、盟約に従いご登場頂きましょう。来いよ、ラプラス」
マリーはパチンと指を鳴らし、ある一人の女性を召喚した。
直毛のボブカットを携え、Yシャツと黒いスラックスの軽装の女性は顔立ちが整っている。
どうでもいいが、この世界の魔術とやらにはエフェクトがないのか。
「お呼びでしょうかマリー。『小さな世界で燻るだけの人生は嫌だ、私は本当の世界を知りいずれ祖父を超える大物になって帰って来る』と、息巻いた割には一週間と持たずして私を呼び寄せましたね」
「うるせぇぞビッチ」
うわー、ギスギスしてるー。
「そちらに居るのが例のイクト様でいらっしゃいますか?」
「そう、ちゃんと結婚してやったぞ」
「祖父であるブライアン様の言い付け通りに、ですね」
「爺さんは何か言ってたか」
「まさか、貴方が巣立ってからの我が家は平和そのものでしたし」
会話している所悪いが。
確かマリーは『人じゃない、私の使い魔の一匹だ』と言ってなかったか?
彼女はどう見ても人間だ。
「ラプラスさんはマリーの使い魔なんじゃ?」
「さん、などと畏まらずに、私のことはどうぞゾウリムシとお呼びください」
「へりくだるにしては自虐が過ぎますね」
「私の正体については追々知るといいでしょう、夜伽の相手も出来ますから」
「行く先々の男にそういって誑し込めてるんだこいつ、だから通称ビッチ」
ラプラスさんはマリーの言う通り有能だった。
彼女はマリーの家で主に家事を受け持っていたらしく。
種まきから収穫に至るまでの畑仕事の工程も直ぐに覚えた。
彼女は僕達の代わりに働いてくれて、僕としては大助かりだ。
空いた時間はマリーとの新婚生活にあて、マリーと心の距離を詰めた。
例えば僕が居間で前世から続けていた執筆をしていた時。
「イクト、何やってるんだ?」
「ちょっとした創作だよ、小説を書いてる」
「頑張ってるお前の姿を見ると、頭がどうにかなっちゃいそう」
そう言われ、僕達は互いに愛おしくなったのだろう。
自然とキスを交わしていた。
今では彼女とのキスにも抵抗はなくなっている。
むしろ彼女とのキスがないと生きていけない錯覚さえ覚えていた。
「肩凝ってるな、余り根詰めない方がいいんじゃない?」
「ありがとう、でも」
「でもは無し。今度私とハイキングしに行かないか」
「と言われても、ここいらは平地だから」
目立つ山といえば、山頂が薄っすらと遠望できるプレンザ山。
きっとマリーのお目当てはあの山だろう。
あの山は化け物の住処だって父さんから聞かされている。
「けど君がどうしても行きたいのなら、ついて行くしかない」
でも大丈夫だろう。
父さんの話にしたって幼い頃に聞かされたものではあるし。
あの山を経由して時々旅人が訪れるほど、今は平和だ。
◇
「行ってらっしゃいませ」
「私達が留守にする間、この家に男をあげるなよ」
「マリーが普段から私をどのような目で見てるのか理解しました」
翌日、僕とマリーは家をラプラスに一任してプレンザ山へと赴いていた。標高2000メートルはあるだろうこの山は、山頂に向かうにつれ緑葉色から山の黒い岩肌へと変わる。いわゆるこの世界での森林限界を体現していた。今は晩秋だし、木々の梢も朱色に色づき、紅葉狩りには絶好の機会だった。
「綺麗だなー、王都の山はこの壮観な光景を小さく収めた感じだよ」
「僕も初めて来たけど……本当に綺麗だ」
人の手が入った獣道で僕達はプレンザ山の絶景にのめり込んでいる。
化け物よりも熊が出て来そうだけど、マリーが居れば大丈夫。
彼女の魔術は人智を超えている、規格外の能力だった。
「イクト、こっちに小川が流れてるぞ」
「たぶん、僕達がいつも水を汲んでるプレンザ川の上流だよ」
「へぇ……丁度いい、あそこの畔でご飯にしませんか?」
「君が丁寧語使う時は、本気で困ってる時だけだよな」
「そこまで私のこと知っちゃってくれてたか」
所を察するに、彼女はかなりお腹が空いてるようだ。
魔術って極端にカロリーを使うのだろうか?
ここに来るのもマリーの魔術によって来たことだし。
僕達は小川の畔の砂利に2平方メートルのテーブルクロスを敷いた。
お弁当の中身は自家製の食パンと、行商から買ったオレンジジュースとチーズ。
「見た目はしょぼいけど、意外と美味しいんだよな」
「素材の美味さが際立ってるんだと思う、じゃあ頂こうかマリー」
「頂きます! さ、食べよ食べよ」
今は簡素な食事しか摂れてないが、いずれは彼女の舌を唸らせる一品を作ってみたいものだ。
「お前との同居生活は幸せだけど、このままじゃじり貧だと私は思う」
マリーはチーズを鍋に掛けて、即席のチーズフォンデュでパンを食していた。
そしたら彼女は今の生活の不満を打ち明ける。
もしかしたら彼女は僕と同じ自覚を持ってるんじゃないだろうか。
今は二人の仲も高調しているが、いずれ熱は冷める。
彼女と寝食を共にし、幸せを感じていられるのも一過性にしかすぎなくて。
「いずれ私達の仲も冷めるだろう、そしたらお前はどうする」
僕の推測は的を射ていた。
「私はいいけど、私に捨てられたらイクトは行き場を失わないか?」
「いいんだマリー、僕は一時だけでも君とこうなれて満足してるよ」
所詮、僕は農民の息子だ。彼女とは住む世界が違う。
いくら転生者とは言え、僕は彼女に相応しくない。
悄然とする僕を憐れみたのか、彼女は慈しんだ眼差しで肉薄する。
その時だった。
「――絶界陣」
「っ!? 誰だ!」
マリーとキスしようとした瞬間、僕達は見えない壁に引き裂かれ。
「誰でもない、俺は一匹の獣だ……オレニ名ナドナイ」
僕達が通って来た獣道から一匹の獣を名乗る狼の面をした人影が現れた。
恐らくあれは人狼とかいう存在だろう。
「ウォーウルフか、とりあえずイクトは逃げてくれ」
「逃げるって、君を置いて行けないだろ」
「状況を簡潔に整理しよう。今私はウォーウルフが掛けた結界の中に閉じ込められている。どうやらイクトにはその結界は張られていない。賢者の孫娘とは言え、この結界を破るにはちょっと時間が掛かりそう。ってか破った影響で近くにいるお前が死んじゃう。お分かり?」
「要約すれば、僕は君の足手まといにしかならない。だから逃げろと?」
「正解だよ、だからお逃げなさい」
「……お前らは恋仲なのか? 愛ヲカタライアフ、愛ヲ……でも殺すしかない」
「逃げろイクト、奴は正気を失ってる。奴の話しに耳を貸すな」
僕は逡巡していた。
このまま彼女を置いて逃げれば、そこで僕らの関係は終わる。
なら、ここで僕が取るべき行動は。
「逃げろ!!」
「……ごめん、マリー」
僕は彼女を置き去りにして逃げた。
「それでいいんだって」
「ミグルシイ、ユルセナイナ、アノオトコ、マッタクモッテ、見苦しい――ッ!」
「っ!? ばっ、ちょ待て!」
その臆病な行動が人狼の逆鱗に触れたようだ。
人狼は僕目掛けて勢いよく跳ね、襲い掛かって来た。
普通の凡人だった僕はすぐさま追いつかれ、足を掴まれ体勢を崩した。
「なぁ少年、どうして逃げたりしたんだ」
「っ、どうしてってお前が襲って」
「俺ノコトハコノサイドウデモイイダロ」
マリーの言った通り、この人狼は正気を失っているようだ。
「見てられないんだよ、少年。君は、オマエハ嘗テノ俺の、ようで……」
――殺すしかない。
人狼の殺意に中てられた僕は足が竦んでしまった。
「シニタイカ?」
僕は人狼の問い掛けに首を横に振った。
「イキタイカ?」
次の質問には首を縦を振る。
すると狂気と正気の狭間で揺らいでいた人狼は血生臭い息を吐き。
「なら、俺を殺してくれ」
まるで縋るようにそう言って。
終いには僕の首を鷲掴みしたのだ。
僕の命を摘み取るように。