死者を迎える
朝の王宮葬送院は、まだ廊下の石床に夜の冷たさを残していた。
リゼット・オルディスは更衣室で濃色の上衣を脱ぎ、白い処置衣へ腕を通した。袖口を留め、前掛けを結ぶ。肩甲骨の下まである髪を低い位置でまとめ、最後に細い金属枠の眼鏡を掛ける。
右の蔓が耳の後ろへ収まるまで押し込んでから、処置室へ入った。
作業台の上には、すでに必要なものが並べられている。
布。洗浄用の器。小さな鋏。櫛。薬液の瓶。
リゼットは瓶を一つ持ち上げ、栓を確かめた。布の数を数え、器の内側に汚れがないか光へ傾ける。
「そこまで見ても増えませんよ、布は」
背後から声がした。
ネリス・フェインが、抱えていた清潔な布を棚へ置いた。
「昨日、資材部から十二枚来たはずです」
「十一枚しかない」
「一枚は私が使いました」
「なら十一枚で合ってる」
「そう言ってます」
ネリスは笑いもせず答えた。こういうやり取りは珍しくない。
「先に言って」
「昨日言いました」
「聞いてない」
「でしょうね」
ほどなくして、朝最初の遺体が運び込まれた。
高齢の女だった。
長く王宮に仕え、数年前に職を退いた元女官だと受領記録にある。病死。引き渡しまでに必要な確認は済んでいる。
リゼットは記録紙を台の端へ置き、遺体へ向き直った。
まず顔を見る。
病のためだろう、頬は深く落ち、口元には力がない。髪は薄くなっていたが、丁寧に梳かれた跡が残っている。額から目尻へ走る皺は深い。
年を取った人間の顔だった。
それを確認してから、手へ移る。
爪。指。手首。
細い指だった。節は大きくなっている。
長く働いたことまで一目で分かるような、都合のいい印はない。
だから、分かることだけを見る。
リゼットは記録を取りながら、身体の状態を順に確かめていった。
途中で遺族が到着した。
処置室の外で話を聞くため、リゼットは手を洗い、袖覆いを外した。
遺族のひとりが、少し迷ってから言った。
「できれば、元気だった頃のようにしていただけないでしょうか」
リゼットは黙って続きを待った。
「病気になってから、ずいぶん痩せました。顔も……本人じゃないみたいになってしまって」
「頬と口元は整えられます」
相手の顔がわずかに明るくなった。
「では、少し若く見えるようにも」
「それはしません」
表情が止まった。
「病気で崩れた部分は戻します。でも、年齢まで変える処置はしません」
「でも、昔はもっと」
「昔の顔にはできません」
言い終えてから、相手が口を閉ざしたことに気づいた。
不可能なことを不可能だと言った。それだけのつもりだった。
横にいたネリスが口を挟む。
「若い頃のお顔へ作り替えることはできません。でも、病気になる前に皆さまが見ていたお顔へ近づけることはできます」
遺族の視線がネリスへ動いた。
「皺まで消してしまうと、別のお顔になってしまいますから。残せるところは残して、つらかった時期に変わったところを整える、ということです」
「ああ……」
今度は頷いた。
「それなら、お願いします」
遺族が離れてから、ネリスが小声で言った。
「同じことを言っているんですけどね」
「違った?」
「だいぶ」
「内容は同じ」
「内容は」
二人は処置室へ戻った。
台の上の女の顔は、さっきまでと変わらない。
遺族の言葉を聞いたからといって、若い頃の顔が急に分かるわけでもなかった。
リゼットは頬へ指を添えた。
痩せた部分をすべて埋めればいいわけではない。左右を同じにすればいいわけでもない。
口角の位置を確認し、顎の線を見る。
病によって強く落ち込んだところだけを少しずつ整えた。
額の皺には触れなかった。
目尻もそのままにした。
「そこ、残すんですね」
隣で髪を整えていたネリスが言った。
「消す理由がない」
「遺族は若くって言ってましたよ」
「病気になる前に近づける、ってあなたが言った」
「私のせいにしないでください」
「してない」
ネリスが櫛を通す。
「この方、現役の頃は怖かったそうですよ」
「誰に聞いたの」
「さっき来た人に。新人女官の襟が曲がっていると、自分で直すまで部屋に入れなかったとか」
リゼットは遺体の襟元を見た。
「曲がってる」
「今それ言います?」
「直す?」
「直しますよ」
その話が本当かどうか、リゼットには分からない。
だから記録には書かない。
ただ、襟だけはきちんと揃えた。
昼を過ぎる頃、遺族が選んだ装束が届いた。
二人で身体をわずかに起こし、衣服を背へ滑らせる。腕を袖へ通し、引かないよう内側の布を整えた。
髪飾りも届けられていたが、リゼットは使わなかった。
「固定すると髪を引きます。入れるなら棺の中へ」
儀礼部の職員が頷き、副葬品として記録するよう係へ伝えた。
聖職者の祈りが終わると、棺が処置室へ入った。
リゼットは内側の布と身体を置く位置を確認し、ネリスとともに遺体を移した。
肩。
腰。
脚。
ずれないよう支えながら棺へ下ろす。
衣服の裾を整え、手を腹の上へ重ねた。
元女官は若くは見えなかった。
目尻の皺も、額の線も残っている。
ただ、朝に運ばれてきたときより、病に削られた印象は弱くなっていた。
リゼットはそこで手を止めた。
これ以上触る必要はない。
遺族が呼ばれた。
朝に話した女性が、最初に棺へ近づく。
しばらく誰も話さなかった。
やがて、女性が小さく息を吐いた。
「母らしい顔です」
リゼットは棺の中を見る。
朝には、昔の顔にしてほしいと言っていた。
そこにあるのは、若い頃の顔ではない。
「ありがとうございます」
頭を下げられた。
「はい」
リゼットも短く返した。
それで十分だった。
棺が運び出されたあと、処置室には空いた作業台だけが残った。
「ようやく終わりましたね」
「まだ片づけ」
「そういう意味じゃありません」
ネリスは諦めたように布を集め始めた。
リゼットも器具を戻し、処置記録へ最後の一行を書き加えた。
眼鏡の左側に白い汚れがついている。
乾いた薬液が飛んだらしい。
布で拭く。
一度では取れなかった。
「昼、食べました?」
ネリスが訊いた。
リゼットは手を止めた。
「まだ」
「もう昼じゃありませんけど」
「食べる」
「昨日も聞きました」
ネリスが先に処置室を出ていった。
リゼットは手袋を外したあとの手を見た。
何となく右手の指を左の手首へ置く。
一定の間隔で、指先の下が押し返してきた。
二つ。
三つ。
そこで手を離した。
腹が減っていた。
何を食べるか考えながら、リゼットも処置室を出た。




