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『魔物を煮込むな! 外伝 ~規格外の天才料理人に振り回される人々のごちそう回想録~』  作者: にゃん


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路地裏の幽霊と、筆頭魔術師の焦燥

「……おかしい。計算が合わん」


王都外縁、第十二区。


立ち並ぶ煤けた建物の影に、およそこの場所には不釣り合いなほど上質な外套を羽織った男が立っていた。


王宮魔術師団筆頭、カシアンである。


彼は今、手にした魔力測定器の針が狂ったように振れているのを見つめていた。


廃棄場で啜った「琥珀色の奇跡」。


あの調律の残り香を魔道的に追跡し、彼はついにこの薄汚れた下町まで辿り着いていた。


「閣下、本当にこんな場所に『食の神』がいるのですか? 私の鼻には下水の匂いしかしませんが……」


供を命じられた若い魔術師レオが、鼻を押さえながら不安げに尋ねる。


「黙れ、レオ。お前の鼻は飾りか? ……漂っているだろう、この空気の層を切り裂くような、圧倒的に純粋な『調律』の波動が。……近い。すぐそこだ」


カシアンは恍惚とした表情で、迷路のような路地の奥を見据えた。


その先にあるのは、小さな食堂『ひだまり亭』


店の前には、日雇い労働者や怪我をした老兵たちが、まるで聖地巡礼でもするかのように列をなしている。


「……あそこか」


カシアンが足を踏み出そうとした、その時だった。


「お兄さんたち、悪いけど今日はもうお終いだよ! スープが底を突いちまった!」


店から出てきたのは、熊のような大男――店主のバルドだった。


その後ろから、大きな空の鍋を抱えた、小さな人影がひょいと顔を出す。


「ごめんなさいね! また明日、たっぷり作っておくから!」


カシアンの心臓が、鐘を叩いたように激しく跳ねた。


声の内容はどうでもよかった。


重要なのは、その少女が発した言葉と共に霧散した、濃密な魔力の粒子だ。


(……あの波形だ。間違いない。廃棄場の鍋の底に沈んでいた、あの黄金の旋律……!)


少女は、王宮の端くれであることを示す、見習い制服を着ていた。


しかし、その背中から立ち上るオーラは、王立魔導図書館の禁書に記された聖者のそれよりも遥かに清らかで、力強い。


「おい、君! 待ちなさい!」


カシアンが叫び、なりふり構わず人混みをかき分けて進もうとした瞬間。


路地の角から、ガシャン! と派手な金属音が響いた。


「衛生局だ! 通報があった、道をあけろ!」


賄賂で動く下級役人たちが、抜き身の剣を手に乱入してきたのだ。


「何だ、何事だ!」「役人が何の用だ!」と労働者たちが騒ぎ出し、現場は一瞬でパニックに陥る。


「逃げろ! こいつら、端から潰す気だ!」


店主バルドの怒声。


少女は驚きながらも、バルドに背中を押されるようにして、空の鍋を抱えたまま裏路地へ駆け出した。


「待て! 待つのだ、私の……至高の幽霊ゴースト!」


カシアンは魔術を使い、群衆を飛び越えようとした。


だが、運悪く積み上げられていた空の木箱が崩れ落ち、カシアンの行く手を阻む。


「……くっ、どけ! 国家機密の調査中だと言っているだろう!」


カシアンが瓦礫を吹き飛ばし、彼女が消えた路地裏へ辿り着いた時には――そこには、脱ぎ捨てられた『ひだまり亭』のエプロンが一つ、地面に転がっているだけだった。


「…………」


カシアンはおもむろに膝をつき、そのエプロンを恭しく拾い上げた。


鼻を近づければ、そこからは先ほどまで煮込まれていたであろう、芳醇な魔物の出汁と、清涼な薬草の香りが漂ってくる。


(……この配合、この抽出の深さ。廃棄場のあの味と、魔力波形が完全に一致する。……間違いない、あそこにいたのは、私の魔力回路を『調律』できる唯一の存在だ)


だが、視界の端に映った少女の残像は、あまりにも「普通の見習い」のものだった。


「閣下……残念でしたね。正体、わからずじまいで」


「……いや、レオ。収穫はあった。彼女の波形は完全に記憶した。この『調律』の導きがある限り、私は地の果てまで追いかけるぞ。たとえそれが、どんな姿形をしていようとな」


カシアンはエプロンを懐にしまい込み、誰もいない北の空を見上げて不敵に笑った。


彼の頭の中では、まだ見ぬ「至高の料理師」が、銀の食器を操る聖女のような姿で偶像化されつつあった。


――数ヶ月後、彼が王都の詰所で「野生児そのもの」のリゼットに出会い、その姿と『調律の味』のギャップに悶絶し、「私の研究所で成分を解明する必要がある!」と叫ぶことになるのは、もう少し先の話である。


その頃、当のリゼットは――役人たちの追及を逃れ、バルドに促されて店の二階の物置に隠れ、息を潜めていた。


「……怖かった。でも、バルドおじさんが守ってくれたわ」


胸を撫で下ろすリゼット。しかし、この騒動が静まった後に訪れる「別れ」の予感に、彼女はまだ気づいていなかった。


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