『ひだまり亭』の新生と、受け継がれる黄金の火
王都の北西、石畳の路地が入り組む下町。かつてそこには、知る人ぞ知る、という言葉さえ過分なほど、ひっそりと佇む一軒の定食屋があった。名は『ひだまり亭』。
店主のバルドが一人で鍋を振り、数人の常連が静かに酒を煽るだけの、どこにでもある古びた店。
だが、今のその場所を訪れた者は、誰もが自分の目を疑うことになる。
「――はい、いらっしゃい! 空いてる席へどうぞ! 詰めて座ってね!」
店内に響き渡るのは、鈴を転がすような、けれど芯の通った若い娘の声だ。
かつてはバルド一人だったこの店には今、新しく雇われた給仕係の娘、ミーナの姿があった。
リゼットが北へ旅立ってからというもの、店に押し寄せる客の数は、バルドという一人の男の限界を軽々と突破してしまったのだ。
「おい、ミーナちゃん! こっちに『魔魚の香草焼き』とエール、もう一つ!」
「はいはい、今行くわよ! バルドさん、二番テーブルに焼き物追加!」
「うるせえ! 言われなくても分かってる!」
厨房から返ってくるバルドの怒声。
しかし、その声は以前の不器用な静けさとは異なり、心地よいリズムを刻んでいた。
客席は、王都の衛兵、近所の職人、果てはリゼットの噂を聞きつけてわざわざ上区からやってきた商人まで、多種多様な人々で溢れかえっている。
店の空気を変えたのは、間違いなく、あの「さらし姿の野生児」が残した功績だった。
リゼットがいた数週間、彼女はこの店の厨房に革命をもたらした。
王宮から追放される原因となった「魔物食材」を、彼女は独自の理論――というよりは野生の勘で、誰もが驚愕する美食へと昇華させたのだ。
バルドは、彼女が旅立つ前に残していった、油汚れでボロボロのメモを大切に厨房の壁に貼っている。
そこには『筋の切り方』『毒消しのための香草の順序』、そして何より『食べる人の顔を思い浮かべること』という、リゼットらしい言葉が綴られていた。
「……ったく。あいつはとんだ爆弾を置いていきやがった」
バルドは、リゼットに託した自分の愛用の鉈を思い出しながら、今持っている包丁を力強く振り下ろした。
リゼット直伝の「下処理」を施した肉は、以前とは比べ物にならないほど柔らかく、深い旨味を湛えている。彼女がいた頃は、その美味しさに「魔法でも使ったのか」と疑う客もいたが、今のバルドはそれを、自分の腕とリゼットへの意地で再現し続けていた。
「ねえ、店主さん。さっきのお客さん、またリゼットさんの話をしてたよ」
ピークを過ぎた昼下がり。ミーナが額の汗を拭いながら、カウンターに手をついた。
彼女は、この店に採用される際、バルドから「前の看板娘は、お前より十倍は働いたぞ」と脅された娘だ。
最初は「そんな人いるわけない」と笑っていたが、毎日店にやってくる客たちの口から語られるリゼットの伝説を聞くうちに、彼女の中でその姿は、憧れに近い神話へと変わっていた。
「『さらし一枚で巨大なイノシシを担いできた』とか、『怒った衛兵にスープを一杯飲ませただけで、男を骨抜きにして帰した』とか……。店主さん、リゼットさんって、本当はどんな人だったの?」
バルドは、焼きあがった肉の香りを確かめながら、不器用な口元を少しだけ緩めた。
「……あいつか。あいつは、ただの『大食らい』だ。自分の胃袋が満たされるのが好きで、それ以上に、他人の胃袋が満たされるのを見るのが三度の飯より好きな、ただの馬鹿正直な料理人だよ」
バルドの脳裏には、調理室の隅で、完成した新作のスープを誰よりも幸せそうに、そして豪快に啜っていたリゼットの姿が浮かんでいた。
彼女は、王宮の形式や衛生管理という「数字」ではなく、目の前の人間が「美味い」と言って笑う、その「温度」だけを信じていた。
「あいつがいなくなって、店は広げなきゃならなくなったし、お前みたいな新入りを雇う羽目にもなった。……だがな、ミーナ。あいつが教えてくれたのは、レシピじゃねえ」
バルドは、リゼットが好んで使っていた大鍋を、愛おしそうに磨き上げた。
「『美味いものを食えば、明日はきっとマシな日になる』。……その、たった一つの確信だ。この店に来る連中はな、飯を食いに来てるんじゃねえ。リゼットが残していった、その『希望』を一口啜りに来てるんだ」
その時、店の扉が勢いよく開いた。
「おっ、やってるか! 噂の『魔物煮込み』、四人分頼むぞ!」
入ってきたのは、街道の警備を終えたばかりの若手の騎士たちだった。
「はい、いらっしゃいませ! 最高の煮込み、すぐに出しますから!」
ミーナが元気に駆け寄る。
バルドは再び、黄金色に輝く火を鍋の下に灯した。
窓の外を見れば、北の空にはリゼットが向かったであろう高い山々が霞んで見えた。
あのがさつな看板娘がいなくなったとしても、『ひだまり亭』の灯が消えることはない。
彼女がここで振るった包丁の音、こぼした笑い声、そしてパツパツのさらしの中で躍動していた熱い情熱は、今もこの店の香りと共に生き続けている。
下町の繁盛店『ひだまり亭』。
そこは、リゼットという名の風が吹き抜けた後、より温かく、より力強い「帰る場所」として、今日も王都の住人たちの胃袋を救い続けている。
看板娘は、もういない。
けれど、彼女が灯した火は、今日も王都で一番熱く燃え盛っていた。




