第6話 次第に、疑心暗鬼になって・・・
忠雄は恋が展開されるような処々方々のあらゆる場所へ美春を連れて行った。
やがて、いつの間にか、美春の方が忠雄に血道を上げ始めた。忠雄には、美春が忠雄と一緒なら人生はどんなに愉しく幸せだろうと舞い上がるように喜び勇んでいるように見えた。
忠雄は正気を失いそうになった。
ところが、である。
上原忠雄の声が又しても忠雄の心に響く。
「恋は幻影だ。恋は危うい!女は魔物だ!女は美と愚、快と醜、妖と艶、智と呆、徳と不倫など、二面どころか幾つもの多面を持つ曲者だ。女に現を抜かしてはいけない。恋に溺れてはいけない!」
忠雄は意識するもしないも、次第に、疑心暗鬼になって、美春のときめきや輝きとは反対の側にあるものに眼も心も移ろうようになり、それまで見えなかったものが見えて来るようになった。思いもしなかったことを考え始めたのである。
美春は世の摂理や人の真理が何一つ解らないのではないか?
常識や規範を全く知らないのではないか?
道徳や倫理をわきまえないのではないか?
一日中、引っ切り無しに喋繰っているのではないか?
朝から晩まで他人の悪口雑言を吐いているのではあるまいか?
大口を開けて馬鹿笑いをしているのではないか?
キイキイ声を張り上げて愚にもつかない歌を唄っているのではないか?
クラシックなどとは程遠い騒々しい音楽に合わせて踊り狂っているのではないか?
同僚や近所の連中としょっちゅう喧嘩をしているのではないか?
絶えない諍いを毎日彼方此方で繰り広げているのではないか?
家の中の内幕を洗い浚い他人にぶちまけているのではないか?
性の愛技の秘密を友人達に打ち明けるのではないか?
恋人や愛人のことを彼等に悉く腐すのではないか?
職場における井戸端会議、囁き合う淫らな言葉、あらゆる猥談によって穢された精神、愚にもつかない噂話、失われた貞節、あさましい日常習慣、馬鹿げた信念、奇怪な意見、不思議な偏見、女に通有の偏狭な考え、などなど・・・
或る日、突然、美春が忠雄に訊いた。
「去年、見そびれた映画を観に行きたいんだけど、一緒に行かない?」
「ああ、良いね。行こう、行こう」
美春は一旦マンションへ帰って服を着替えてから、京都文化博物館の前で再び忠雄と待ち合わせた。エレベータで三階へ上がり、入口でチケットを買って、二人はフィルムシアターの中へ入って行った。今日、上映されるのは、オートクチュールのドレスが導く禁断の愛を描いた「ファントム・スレッド」という名画である。
女を最高に美しく見せる完璧主義の芸術家と男の色には決して染まらないミューズ。洗練を極めたオートクチュールの世界で艶やかな駆け引きが始まる。男は女にドレスを着せることを望み、女は男を丸裸にしたいと願う。一九五〇年代のロンドン。唯一無二のデザインと職人技術で英国の高級婦人ファッション界の中心に君臨する仕立屋のレイノルズは、ウエイトレスのアルマと惹かれ合い、彼女を新たなミューズに迎える。レイノルズにとってミューズは創作に不可欠なインスピレーションと一時の癒しをもたらす存在、それ以上でもそれ以下でもない筈だった。しかし若くて情熱的なアルマは、恐るべき愛の力でレイノルズの心に入り込み、彼が長年かけて築き上げた孤高の領域をかき乱していく。運命の恋に落ちた二人の男女は、相手をどこまで自分のものにできるのか?愛に屈し、自分を失うことは悦びなのか悲劇なのか?やがて狂い始める二人の関係は“ある秘密”を抱きながら激しさを増していき、誰もが想像し得ない境地にたどり着く・・・。
極上の恋愛にひと匙の媚薬を垂らし、観る者を虜にして離さない至高のドラマ。見終わった忠雄と美春はシアターの前に在るサロンに入って、暫し、甘美で狂おしい愛の心理に浸った。
あの愛のかたちは、歪んでいるのか?それとも純愛なのか・・・?
やがて我に返った二人は立ち上がり、階段を伝って一階へと降りて行った。話し乍ら忠雄と美春が表玄関のロビーまで出て来ると、大勢の人に混じって、ソファーに腰かけて新聞を読んでいる一人の男に出くわした。二人を認めた男が徐に立ち上がって美春に声を懸けると、美春も屈託なく気軽に笑顔で応えた。
「あら、あなた、久し振りね。此処で何をしているの?」
忠雄の胸は、一瞬、不快に膨れ上がった。
その夜、忠雄が美春をマンションの近くまで送り届けると、入口の近辺に男が一人立って居た。無論、昼の男とは別人である。美春は裏口へ廻り、足音を立てずに非常階段を登って部屋へ帰って行った。男は気付かない。彼は其処に立ったまま、美春の帰りを待つ心算らしい。




