第八話 孤独な世界で、ふたりきり
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ぼくの周囲一帯に、春が広がる。菜の花の香りは、ふわふわと浮かんでいて、ヘリウム入りの風船みたいだ。
クッキーの割れる音は、もう聞こえない。変わりにあるのは、小さな息遣いと、菜の花の綺麗な香りだけだった。
「おーい」
今日、リレー中に聞こえた声。関わったことの無いぼくの名を、流れるように口にした声。そんな声が聞こえた。
一瞬の沈黙が、ゆったりと流れる。彼女は、ぼくが振り向くのを待っているのだと、簡単にわかった。
「死んでる? 死んでるなら、死んでるって返事して!」
死人が喋れるわけ無いだろう。彼女のバカげた言葉に、不覚にも笑ってしまった。
その結果、ぼくの意識があることが、完全にばれてしまった。
「あ、笑った。生きてるじゃん! ちょっとー、無視しないでよ」
これ以上無視することは不可能だと考え、ゆっくりと振り向いた。
目の前には、濃い茶色の瞳があった。誰かさんの青い瞳とは違う、本当の宝石みたいな輝き。
キャラメル色の髪は、一つの束にまとめられている。そのポニーテールが風で靡き、優雅に踊っているみたいだ。
白いシュシュは、そんなダンサーを支えるように、ステージとしてじっとしている。
「蓮香君。君も、カセット持ってるの?」
ぼくの名を、彼女は告げた。一度も関わっていないぼくの名を、簡単に告げた。
クラスの陽キャって、怖いな……。
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「は、はい。ぼくも、持っています」
この世界にアクセスするには、カセットが必須じゃないのか? そんなことを言ったら機嫌を損ねるかもしれないので、あえて言わないでおく。
そんなぼくの言葉に、目の前の彼女は、大きな声で笑い始めた。
「あはは。敬語とか使わなくていいよー、同学年だよ? 蓮香君って、思ってたより面白いねー」
敬語を使ったことにツッコミを入れてくる彼女は、屈託のない笑みをしていた。
いや、中学一年生以降、同年代の異性と話すことなんて無かったから、接し方を忘れただけなんだけど……。
彼女に本音を隠したまま、適当に言葉を紡ぐ。
「あ、そ、そうですね。以後、気を付けます」
「あはは。敬語のまんまじゃん」
そう言って彼女は、さらに笑ってしまった。
しばらく笑った彼女は、深く息を吸った。暴れ狂う肺に、新鮮な空気を集める如く、スーっと、息を吸っていた。
「ごめんごめん、笑いすぎちゃった。無理にため口にする必要は無いから、楽に話して」
そんな彼女の声は、菜の花みたいだった。いや、菜の花よりも美しかった。
ポカポカしたその言葉に、ぼくは心底救われた。
――この人は、味方になってくれるかもしれない。
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……。女の子と、どうやって接したら良いんだっけ?
ぼくの悲痛な叫びが、体中をギシギシと駆け回る。ぼくは今、窮地に立たされていた。
日本一川幅が広い川。そんな川をまたぐ橋を歩き、車のいない大通りの歩道を歩く。車が来るとしたら、誰もいないバスだけだ。公共交通機関のみ、無人で動き続けるから恐ろしい。この世界、本当になんなのか。
それと、ぼくが近かったのか、彼女の距離感が近いからかはわからないが、道中に手が当たってしまった時の気まずさは、さすがにキツすぎた。冷え切った空気が、ぼくの皮膚を切り裂いてくるように感じていた。
そんなこんなでたどり着いた場所は、とある駅だった。目的地は、そこに隣接した、二つの大きなショッピングモール。
来菜さん曰く、連休だからちょっと遠くを探検しよう、とのことでここに決まった。
大きな自動ドアが、巨大なダンジョンの扉みたいに、ゆったりと開く。ま、スライドしてるだけだけど。
……、そこまでは良かったんだ。そこまでは……。
「高級チョコ無料で食べれるとか、最高だよねー」
「は、はい。美味しいですよね」
とか、
「クレーンゲームとか、鍵開けちゃえば全部取り放題じゃん!」
「あはは、現実とかでもしたいですね」
とか、
「あ、このラノベ! 私これ好きなんだよねー」
「す、好きなものがあるのは、いいと思います」
とか……。
いくらなんでも、ぼくの話面白くなさすぎないかい!
ぼくは、肌でひしひしと感じてしまっていた。楽しそうな彼女の声が、どんどん少なくなっていることを。
う、つまらない男でごめんなさい。ぼくの中では、そんな言葉が爆発しそうになっていた。
面白くない人間で、ごめんなさい。相槌が下手で、ごめんなさい。
そんなことを思っていると、目の中に、とんでもない光景が映った。
「ま、マカロン!」
「へ?」
隣の少女は、きょとんとした顔をして、ぼくの視線の先を見る。
まあ、無理もないか。さっきまで、ほとんどごみみたいな反応をしていたぼくが、大きな声を出してしまったから。
ただ、それよりも、目の前の宝石に集中だ。
そう思い、ぼくは彩りに輝く、美しきマカロンたちへと、足を早めに運んだ。
そんなこんなで既に、一時間が経過しようとしていた。
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緑色の草が、ぼくらを優しく包み込む。
屋上の広場は、風に靡いていた。ぼくの隣に座る彼女、来菜さんのポニーテールも、ゆらゆらと靡いていた。
「蓮香君は、マカロンが好きなの?」
突然の言葉に、ぼくはびっくりとしてしまった。
目の前のマカロンたちは、子犬のような目でぼくを見つめてくる。赤、黄、青、緑、桃、茶、白。カラフルなマカロンが、ぼくを見つめてくる。
「う、うん」
ぼくは小さく返事をし、大きく息を吸った。
「マカロンはね、サクサクとふわふわの間のコックと、波みたいに綺麗なピエと、味をレベルアップさせる濃厚なフィリングが必須なの! 特に大事なのは、ピエ。レースみたいな膨らみでね、マカロンの特徴的な部分なんだよね。アーモンドプードルと卵白と砂糖、そしてフィリングに使う材料のバランスが、特に重要なんだよね。ぼくのおすすめのお店は……、」
そこで、ぼくの声は止まった。
目の前の少女は、体育座りをしながら、ぼくの方を向いている。その顔は、驚きで塗りつぶされていた。
ぼくは、自分の意識を現実に取返し、思った。やってしまった、と。
唖然としている彼女。このままでは、関係の浅い人にマカロンを語るだけの変人になってしまう。
ぼくは焦った、とても焦った、ひどく焦った。
だからこそ、口が滑ってしまった。
「お母さんが、よく作ってくれたの」
人生最大のミス。ぼくは爆弾を投下してしまった。
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「お母さん?」
長い語りの次に流れた言葉を、彼女は聞き逃してくれなかった。こういうことは言わない方がいいとわかっているが、ここで言わないのも、彼女のモヤになるかもしれない。
十秒程考えて、ぼくは吹っ切れることにした。
「こんな話、来菜さんにするようなことじゃないと思うんですけど、聞きたい?」
まずは、念のために彼女の許可を得る。
重い話をするんだ。そういう話が苦手な人かもし……、
「大丈夫。教えて?」
ぼくの思考が遮られた。まじかよこの人。彼女の高を括る速度に、心の中でツッコンでしまった。
驚きの感情を一旦置き、ぼくは酸素を取り入れた。
揺れていた草も、ポニーテールも止まっている。そんな中、ぼくの手元では、マカロンたちがじゃれ合っていた。
そして、息を吸うぼくを、彼女の瞳の濃い茶色がしっかりと見ていた。
彼女の瞳に、一人の頼りない男が見えた。
「じゃあ、話すね」
ぶわっと、一気に風が吹いた。彼女の長いまつ毛が、ファサファサと揺れる。リレーのスタートを示すピストルみたいな風が、ぼくらを撃ち抜いてきた。
でも、火薬の匂いがすることが無かった。
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「ぼくのお母さんは、とっても素敵な人でした」
震える声が、弱々しく空に昇っていく。彼女の瞳は、ぼくを完全にロックオンしていた。
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静寂な世界に、二人分の呼吸音だけが、小さく流れる。
続きの言葉を思い浮かべ、文章を構築していく。その間も、彼女はただ単に、ぼくを見ていた。視線を逸らすことなく、ぼくを見続けていた。
「仲の良い家族だった。平和な家族だった。それなのに、悪夢は、突然起こりました」
嫌な記憶がフラッシュバックしてくる。何年も前のことが、今朝の記憶のように、鮮明に浮かび上がってくる。
消したい記憶が、頑固な油汚れみたく、こびりついて離れてくれない。
「大切なお母さんは、病気に殺されました。優しいお母さんは、もういません……」
鮮明過ぎる記憶が、脳を焼こうとしてくる。走馬灯のように、忘れられない過去が、ぼくを襲った。
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グワングワンと鳴り響く音。機械のランプが点滅し、数字がみるみる変わっていく。
お父さんが大きな声をあげる。
「おい! 大丈夫だ。俺がついてる。だから、戻ってきてくれ」
幼いぼくには、何が起きているか理解できなかった。
わかるのは、ドタバタした足音と、病院特有な匂い。そして、真っ白な部屋。それだけだった。
「先生、お願いです! 妻を、妻を、助けてください!」
お父さんの声が、弱々しい。こんな声、初めて聞いた。
「最善は、尽くします。みんな、今から緊急オペを行う。準備を頼む」
白い服を着たおじさんの声が聞こえた。すると数名の女性と男性が、さらにドタバタとし始めた。
「お父様」
「はい」
「奥…………る確…は、………弱…す。そ……………………す」
白いおじさんは、お父さんに声を掛けていた。でも、周りの音に掻き消されて、話の内容はあまりわからなかった。
お母さんが、重い扉の奥へと消えた。それと同時に、赤い電気が輝いた。『使用中』と書かれている。
椅子に座るぼくの横で、お父さんは頭を抱えていた。
「お願いします、お願いします、お願いします、お願いします」
そんな声が、ぼくの耳を流れる。鼓膜を震わすその声は一切変わることが無く、念仏のようだった。
「俺は、どうなっても構いません。ですから、妻の命だけは、お助けください。殺すなら、俺にしてください。妻の苦しみを、ぼくへ移してください」
お父さんの目は、輝いている。おかしいくらいに、輝いている。そして、ゆらゆらと揺れている。
その数秒後、お父さんの右目から、透明な雫が零れ落ちてきた。
輝きの正体は、ひと手間加えたら闇に染まりそうな、儚げで美しい、透明な水滴……涙だった。
それから、どれくらいの時間が経ったのかはわからない。ただ、白い服のおじさんは、冷たい言葉を言い放った。
「奥様は、もって今日までです」
手術室の前、ぼくらの周りは、ドライアイスに囲まれた。
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ピー。ピー。ピー。ピー。
病室に響く、刃物のような機械音。降りしきる雨は、お母さんを世界から隠す、複数のカーテンみたいである。
画面に映る涙。さっきまで規則正しかった波形が、真っ直ぐになる。これが、カーテンの裏での出来事。
白い服のおじさんが、お母さんの目を無理矢理開ける。お母さんが、可哀想だからやめて欲しい。
そんなことはお構い無しに、おじさんは手を動かす。おじさんの持つ小型なライトは、お母さんの開いた目を照らしている。お母さん、絶対眩しいよ……。
そんなことを考えている幼い男の子の横で、医者のおじさんは、なんとも表現しにくい表情をした。そして、ゆったりと口を開いた。
ひしひしと張り詰めた空気から、今起きている異常さを感じ取れた。
「光乃蓮奈さんは、お亡くなりになられました」
お母さんの名前が、告げられた。
それと同時に、理解できない言葉が紡がれた。亡くなる?
幼い少年には、実感の湧かない言葉だった。でも、今なら、どういうことかがわかる。
――お母さんは、もう帰ってこない。
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その日を堺に、ぼくらの家から光が消えた。
お父さんももう、どうにでもなれ、と諦めた風に呟いていた。
仏壇に飾られる、お母さんの写真を見ると、どうしても、火葬の前の冷え切ったお母さんを思い出してしまう。
冷凍庫よりも冷たい、温もりが消えたお母さんは、どこか寂しそうに見えた。
死んだお母さんとの思い出が、振りに振った炭酸飲料みたいに、ドバーっと溢れてくる。
初めて自転車に乗れた日。初めてかけっこで一位になれた日。一緒に旅行に行った日。
忘れようとした記憶が、どんどん溢れてくる。
さわさわ。優しい風が、ぼくの頬を撫でる。視界が滲んでいて、建物が二重にあるように見える。
「そんなお母さんとの一番濃い思い出が、マカロンなんだ」
ぼくは、無理矢理笑ってみせた。笑顔、得意だから。
目元をこすると、視界の揺らぎが消え、少し潤んだ濃い茶色があった。
ぼくが重い話をするから、彼女ももらい泣きをしてしまったのかもしれない。
そんな疑問を打ち砕くように、彼女は声を出した。
「マカロンは、お母さんとの思い出なんだね」
こんな風に言われるとは、全く考えていなかった。
もっと、初対面に近しい人に重い話をする、色々とヤバい奴とでも思われるかと思っていた。
「蓮香君」
「はい」
「これから、よろしくね」
そう言って、右手をさしのべる来菜さんは、いつの間にか立ち上がっていた。その姿はどこか天女のように美しく、可愛らしかった。
「え」
突然の出来事に困惑する。
「いいからいいから。私と、もっと遊ぼ?」
そう言って、ぼくの手を無理矢理掴んできた。
「え、ちょ」
ぼくのことを無理矢理立ち上がらせ、引っ張ってくる。
「私、もっと君と仲良くしたいの」
久々に聞いた、仲良くしたいといえ言葉。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
気づいた時には、そんなことを話していた。
握られた手は、思ったよりも小さくて、すべすべとしている。そして、少し力が籠っていた。
マカロンと一緒に、彼女の姿に引っ張られていく。
時間も近いため、手を振りながらお互いにログアウトをすることになった。
「またね」
ぼくの言葉に、目を輝かせた彼女が口を開いた。
「またね!」
目を開くと、見知った部屋に戻っていた。
(10/10)
今までほとんど話したことの無い男の子が、ログアウトをした。
「……やっぱり、似てる、かも?」
私は、さっきまで目の前にいた男の子のことを考えつつログアウトする。
目の前には、乱雑に並べられた教科書、ノート、シャーペン、消しゴムがある。
そんな荒地みたいな机の端、一つのデジタル時計が、今日の日付を教えてくれている。
五月八日。どうやら、私は約二時間、ひとあその世界にいたらしい。
「あのポンコツ。こんな扱いにくい世界を作っちゃってさ……。はぁ」
私のため息が、無惨な荒地を進む。まるで、からっ風みたいだ。
「確信ができるまでは、友達でいよう」
私の小さな宣言は、オレンジ色に輝く太陽は当然、自分の部屋の薄暗い照明にすら、届くことがなかった。




