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朱の欠片、忘却の徒花

作者: 勇氣
掲載日:2026/08/12

挿絵(By みてみん)

 その物語は、燃えるような朱色あかねいろから始まる。空を覆うのは、鉄の巨鳥と、火を噴く魔法の筒。平和という名の薄氷が割れたあの日、少年少女たちは「学生」であることをやめ、「兵器」であることを受け入れた。彼らが纏う外套は、返り血を浴びても目立たぬよう、深い紅に染まっている。世界には、残酷な慈悲があった。死んだ者の記憶は、生きている者の心から跡形もなく消え去る。昨日まで隣で笑っていた友の顔も、共に語った将来の夢も、息絶えた瞬間に、霧が晴れるように失われてしまう。

 「ねえ、さっきまでここに誰かいた気がするんだ」

 壊れた校舎の片隅で、一人の少女が呟く。彼女の手には、持ち主を失った一枚のカードが握られていた。しかし、そのカードを誰が使っていたのか、どうしても思い出せない。ただ、胸の奥に刺さった棘のような痛みだけが、そこにかつて「誰か」がいたことを証明していた。彼らは、ある特別な組織に属する、名前ではなく「数字」で呼ばれる子供たちだった。ある者は鎌を振るい、ある者は笛を吹き、ある者はトランプの札を舞わせる。彼らは死を恐れないのではない。死んでも誰の記憶にも残らないという「無」を、何よりも恐れていた。戦場は、命のやり取りというよりは、命の回収作業に近かった。倒れた敵の胸元から、ぼんやりと輝く生命のおりを抜き取る。それが彼らの力の源であり、この歪んだ世界を維持するための燃料だった。

 「僕たちは、何のために戦っているんだろう」

 最年少の少年が、血に汚れた手を震わせる。

 「平和のためだよ」と、リーダー格の少年が答える。その声に感情はこもっていない。

 「平和が来れば、もう誰も忘れられなくて済む。僕たちが流したこの朱色の涙が、いつかはこの国を救う光になるはずだ」

 だが、終わりの時は容赦なく訪れた。世界が崩壊の淵に立ち、空が不吉な黄金色に染まる。彼らに与えられた最後の任務は、救いをもたらす「伝説の存在」になることではなく、ただひたすらに、押し寄せる絶望の嵐の中で「人間」として踏みとどまることだった。最後の戦いの後、彼らはボロボロになった教室へと戻ってきた。壁は崩れ、窓ガラスは砕け散っている。かつて教科書を広げた机には、冷たい灰が積もっていた。一人、また一人と、崩れ落ちるように座り込む。致命傷を負っていない者は一人もいなかった。それでも、彼らの表情にはどこか晴れやかなものがあった。

 「……ねえ、怖いよ」

 誰かが小さく漏らした。強がっていた少年も、冷徹だった少女も、その言葉に静かに頷いた。死ぬのが怖いのではない。自分たちが消えた後、誰も自分たちのことを語り継いでくれないことが、たまらなく寂しかった。

 「手を繋ごう」

誰かが言った。彼らは円陣を組むようにして、互いの手を握りしめた。温かい血が、冷え切った指先を伝わって混じり合う。

 「僕たちは、ここにいたんだ」

 「みんなで笑って、みんなで泣いたんだ」

 「忘れてもいい。でも、今この瞬間だけは、僕たちは一人じゃない」

 夕刻の光が、教室に差し込む。彼らの朱色の外套が、夕日に溶けて、さらに深く、鮮やかに輝いた。

翌朝、そこには静寂だけが残っていた。瓦礫の山となった教室の中で、十数人の少年少女たちが、互いに手を繋いだまま眠るように息絶えていた。彼らの名前を知る者は、この世界にはもう一人もいない。彼らがどんな戦いを潜り抜け、どんな思いで最後を迎えたのかを覚えている者もいない。

 しかし、彼らが最期に流した涙の跡が、乾いた床に小さな模様を描いていた。それは、どんな歴史書にも記されることのない、名もなき英雄たちの証。

世界は回り続ける。

彼らが命を賭して守った、この残酷で、それでいて美しい、朱色の空の下で世界は一変した。空を覆っていた分厚い雲は去り、そこには残酷なまでの青空が広がっている。何よりも大きな変化は、「死者を忘れる」という世界のことわりが壊れたことだった。人々は、昨日失った家族を思い、数年前に逝った友を数え、その喪失感に耐えきれず、至る所で慟哭の声が上がっていた。それは呪いからの解放であり、同時に、重すぎる罰の始まりでもあった。かつて「魔導の都」と呼ばれた場所は、今や静かな廃墟となっていた。瓦礫の隙間から、名もなき野花が芽吹いている。一人の青年と、一人の少女が、その廃墟の坂道を登っていた。青年の腕には、戦いの中で負った癒えぬ傷がある。少女の瞳には、かつて多くの命を救った優しい光が宿っていた。

 「ここだね」

 少女が足を止めた。目の前には、半壊した古い校舎。かつて、この国で最も優秀で、最も過酷な運命を背負わされた子供たちが集った場所。二人はゆっくりと、奥にある教室へと向かった。扉はとうに朽ち果て、床には乾いた砂が満ちている。そこには、奇跡のような光景が残っていた。円を描くようにして倒れた、十数人の骸。彼らの身体はすでに土へと還りつつあったが、その指先だけは、今もしっかりと互いを離さずに繋がっていた。

 「……ねえ、思い出せる?」

 少女の問いに、青年は唇を噛みしめ、首を振った。

 「いや……名前は、どうしても出てこないんだ。僕たちが共に過ごした日々も、彼らがどんな声で笑ったかも、霧の向こうにある」

 世界の理が壊れたとはいえ、理が壊れる「前」に失われた記憶までは戻ってこなかった。彼らは、世界を救った英雄でありながら、誰の記憶にも名前を刻めなかった「空白の世代」だった。青年は、瓦礫の中に落ちていた一枚の布を拾い上げた。ボロボロになり、色は褪せていたが、それは間違いなく、かつて彼らが誇りを持って纏っていた「朱色」の外套の断片だった。青年はその布を強く握りしめる。

 「名前なんて、いらないのかもしれないな」

 「え?」

 「彼らは、誰かに褒められるために戦ったんじゃない。誰かの記憶に刻まれるために死んだんでもない。ただ、明日という日が、僕たちの頭上にこの青空が広がることを信じて、ここで手を繋いだんだ」

 青年は、懐から一冊の古い手帳を取り出した。それは、死にゆく彼らが、後に続く者たちのために残した、血と泥にまみれた記録。そこには、戦術や命令ではなく、ただ一行、震える文字でこう記されていた。

 『僕たちは、確かにここにいた。』

 少女は、繋がれたままの骸の側に、持ってきた小さな花束を供えた。それは、朱色によく似た、鮮やかな赤いガーベラだった。花言葉は「前進」、そして「限りなき挑戦」。

 「あなたたちのことは忘れない。いえ……思い出せないけれど、この胸の痛みだけは、一生持っていくわ」

 少女の目から、一筋の雫が零れ、乾いた床に落ちた。かつて彼らが流した涙と同じ場所に、新しい命の種を濡らすための雫が。二人は、教室の窓から外を眺めた。遠くでは、生き残った人々が寄り添い合い、新しい街を築こうとしている。かつてのように「死」を無かったことにする世界ではない。悲しみを抱え、死者を悼み、それでもなお歩み続ける、不自由で人間らしい世界が始まっていた。

 「行こう。僕たちが、彼らの物語の『続き』なんだ」

 青年は、朱色の布を風に解き放った。布は鳥のようにひらひらと舞い、青空へと吸い込まれていく。その色は、昇り始めた朝日の色に似ていた。あるいは、戦場に散った若者たちの、燃えるような魂の色に。彼らの名は、永遠に失われた。けれど、彼らが繋いだ「手」が作った平和という名の鎖は、今もこの世界を、優しく縛り続けている。

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