第二十話 熊虎ノ王
青空。春の陽光が降り注ぐそこには、自由気ままな雲たちが泳いでいる。
「始まった......!」
そろそろアイリーン達と”猿猴”がぶつかるということで、山名に連れ出され、タマガキ近辺を俯瞰できる櫓に訪れた。ここには取り付けられた望遠鏡があり、その様子を仔細に教えてくれる。
いや、もはや望遠鏡を覗く必要もないだろう。
そこで行われている戦いは、文字通り人の枠を超越したものだった。
「山名。あの巨大な熊が......」
「そうだ。あれがアイリーンの特殊霊技能。『熊虎ノ王』だ」
そう肯定した山名が続けた。アイリーンが持つ特殊霊技能。『熊虎ノ王』はその身を熊に変化させる能力で、使用する霊力の量によってその容姿・強さが変わるそうだ。
今回魔獣と戦うに当たって、彼女は全力も全力。最初からフルパワーで能力を行使している。その結果、魔獣である猿猴をも超える大きさとなり、肉弾戦に持ち込んでいた。
「アイリーンの能力は燃費が悪くてな。あそこまで使えば、単身での連戦は不可能だ。この後の戦い。坊主を頼ることになる」
俺の姿を見て、彼がふんと鼻を鳴らす。
俺は郷長に返事も返さず、両者の戦いに見入っていた。
ぶつかり合う巨躯と巨躯。
魔獣の体は非常に大きく、鈍足であると考える人がいるがそれは大きな間違いである。
奴らはその体躯に似合わず、俊敏に、かつ不気味に動き、油断すれば一瞬で殺される。そんな恐ろしい敵なのだ。その上しぶとい。
対しアイリーンも、現実にいる熊とは比べ物にならない、想像も出来ない速さで動いている。大きく距離を取った後、彼女が猿猴の後ろに回ろうとしていた。
魔獣と防人の戦いにおいて、この圧倒的速度は兵員たちの参戦を難しくする要因の一つである。彼らのスピードでは魔獣に追いつくことが出来ない。
しかし指を咥えて見つめている訳ではなく、彼らは彼らができることを全うしようとしていた。
猿猴とアイリーンが取っ組み合いに入る。そこに兵員たちが大きく回り込み、弓を構えた。
その弓に番えられた矢には、縄のようなものが紐づけられている。
縛矢。人類が持つ対魔獣兵装の一つ。
矢が放たれ紐づけられた縄が弧を描く。その瞬間。縄が霊力の光で満ちた。
この縄の芯となる部分には霊力の通りが良くなる素材が使われており、魔力と反発する霊力を縄全体に通すことによって、魔獣の動きを阻害しようという狙いがある。
しかしこれは平地向きの武装ではない。魔獣の行動範囲をできる限り制限しようという目的で使用されるため、森林地帯で、木に刺して使ったりするからだ。平地ではうまく縄を張れない。
そう思ったのも束の間。ゆっくりと空を飛び、ゆらりと動いた縄が、魔獣の体に上手く絡まる。なんという技量。これが魔獣戦に慣れた西部兵の練度か。
続いて、アイリーンの爪牙による一撃が猿猴に強く突き刺さり、魔獣特有のどす黒い血が吹き出る。新種だと聞いて驚いていたが、押している。彼女の宣言通り確実に仕留められるだろう。
安心した。これを積み重ねていけばきっと勝てる。
表情に楽観が出ていたのか、山名が俺を見た後口を開いた。
「まだ油断するな。これでは一体だけで攻めてきた理由がない。何か理由が......」
その瞬間。追い詰められていた猿猴が体を甲羅の中に引っ込めて地にうずくまり、亀の様な形になった。
それを見た山名が呟く。
「形態変化......? やはり油断できない。これは......」
山名が目を瞑り何か考え始めた後、櫓の下から兵士の一人が走ってこちらまでやってくる。息切れしていて、様子がおかしい。
「申し上げます! 霊信室の参謀陣の方々が、郷長に直ぐお戻りになってほしいとのことです! そしてこちらの手紙を至急届けろと!」
兵員から伝聞が記されているであろう紙を山名が受け取る。彼がその紙を開いて一瞥した後、大きく舌打ちをした。
「郷長。一体何が」
そう聞いた俺に、山名が紙を投げて寄越した。
「坊主。戻るぞ」
魔獣南西方面ヨリ出現。妨害ヲ試ミルモ此方ヲ無視シタマガキヘ直行。注意サレタシ。
彼に握られた紙は、くしゃくしゃになっていた。