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64かかっておいでなさい

 靴を脱いで脱出する作戦は、もう使えない。その場の勢いだけで突進するのが危険なのはよく解った。さて、どうしたものかと、桐子は冷静に考える。

 拘束のせいで《神速撃》の異能は十分に威力を発揮できていない。両手は、動かせるのは手首から先のみ。スカートの下にはいつものように警棒を隠してはいるものの、当然ながら振り回せない。

 できることは制限されている。圧倒的に不利な状況だ。しかし裏を返せば、相手は格段に有利な状況で、それゆえに油断があるはずだ、と信じたい。優位に立って調子に乗っている敵の隙をつく一手を打つことができれば、勝機はあるものだ。

 初瀬は嘲りを含んだ笑みを浮かべている。

「威勢はいいようだけれど、その状態でいったい何ができるのかしら。近づけば『落とし穴』に嵌り、かといって遠くから攻撃する手段はない。要するに、あなたは手詰まり。あなたの遺産、破壊させてもらうわよ」

 初瀬の指が円を描き、円月輪を生み出した。

「なぜあなたたちは、遺産の破壊にこだわるの。遺産を欲する人間は腐るほど見てきたけれど。壊そうとする動機がよく解らないわね」

 有効打を思いつくまでの時間稼ぎのつもりで問いかけてみれば、初瀬は意外にも話に乗ってきた。

「破壊庁の人間が遺産を壊す理由は、それぞれ違うわ。私のことをいうなら、そうね、私は遺産が憎いの」

「憎い?」

「そう。遺産のせいで、哀しい目に遭った後輩たちが、たくさんいたわ」

 不意に初瀬は過去を思い出すような遠い目をする。破壊至上主義の過激な思想からは考えつかないくらい寂しそうな表情を浮かべている。思いがけず、彼女の核心に近い話を引き出してしまったのかもしれない。

「私は事故で両親を亡くして、他に身寄りもなくて、十五歳から『帆引学園』という施設で育った。当時は私が一番の年長だったわ。私は十八歳まで施設にいたけれど、三年の間に、私より小さな子たちが何人も里親に引き取られていった。あの子たちはみんな、新しい家族のもとで幸せになったと、そう思っていた」

 思っていた、と初瀬は過去形で語った。つまり、実際にはそうではなかったのだ。

「私は偶然知ってしまった。里親に引き取られたと思っていた子どもたちのうちの何人かは、実際には遺産を研究する組織に引き渡されていた。里親のふりをして、いなくなっても問題の起きにくい孤児を見繕って売買する奴らがいたのよ。奴らは、子供を攫って家族を黙らせるのは大変だから、元々家族のいない子供を狙うの」

「里親のふりして連れてくって、言うほど簡単にできることじゃないでしょ」

「勿論、身分を偽り、書類を偽造し、場合によっては遺産を使ったかもしれない、とにかく、あらゆる手を使って、秘密裏に子供を捕まえるの。おおっぴらに誘拐事件を起こして隠蔽するよりはマシってことなんでしょうけれど、それでも結構な手間がかかっていたと思うわ。そうまでして捕まえた子供の用途に、だいたい察しはつくかしら。彼らの末路は、強制的に異能者を作り出すための実験のモルモットよ」

「何よ、それ」

 要約すれば、人身売買と人体実験。予想だにしなかった言葉に桐子は息を呑む。こちらを動揺させるためにいい加減なことを言っているのだろうか、と一瞬だけ疑った。しかし、初瀬の表情は真に迫っていて、とても出鱈目を言っているとは思えない。だとしたら、事実だというのか、「実験」というのは。

「遺産には相性がある。誰でも異能者になれるわけではないわ。だというのに、研究者たちは強引に異能者として覚醒させるために、まだ年端もいかない子供たちを実験台にして、投薬や拷問によって異能者に仕立て上げた。畜生にも劣る最低の奴らよ」

「……そいつらが最低なのは解ったわ。けれど、どうしてそこから、遺産を全部壊す話になるの」

「勿論、悪いのは人よ。遺産そのものには善も悪もない。けれど、この世界にはどうしようもなく、使い方を誤る人間がたくさんいるの。そういう人たちを一人残らず駆逐することは不可能よ。だったら現実的に考えて、遺産を破壊するほうが早いし確実だわ。遺産なんてなくても世界は回るんだから」

 初瀬の主張は一つの正論だと、桐子は思う。彼女には彼女なりの「正義」がある。

 けれど、桐子には桐子の信じる正義がある。人それぞれ正義は違う、なんて、もうすっかり使い古されたような言い回しを今更使うことになるとは思わなかったけれど。

「解ってる……遺産はなくても世界は回る。けれど、遺産があったからこそ救われた人もいる」

 遺産に救われて、そして次は自分が救う側になろうとする人がいる。桐子は、優しい瞳をした女性の笑顔を思い出していた。

 できることなら、遺産が、人に優しい奇跡だけを齎す日が来てほしい。きっとそれは遠い未来の話だろうし、もしかしたら訪れないかもしれない。それでも、いつかそんな日が来ることを祈って、その日まで遺産を回収して適正に管理する、それが桐子の信じる道だ。

 お互いが信じているものが違うなら、あとは正々堂々、正面からぶつかり合って我を通すしかないのだ。

「いいわ。あなたは、ほかの連中とは違うのね。けれど、私のほうも譲る気はありませんし、私のブーツを駄目にしたことを許す気もありません――かかっておいでなさい」

 降伏するつもりはない。静かな宣戦布告。不利な状況であろうとも、自分の正しいと思うことのために、受けて立つ。

 これがきっと最後の激突になるだろう。決着まではそう遠くない。

 初瀬が円月輪を擲った。首を狩る勢いで飛来する刃、それを桐子はまっすぐに見据え、異能を発動、右足を振り上げた。蹴り返すのではなく、飛来する刃を足の指で挟んで受け止める。

 ほんの少しでもタイミングを誤れば指を切断する羽目になるわけだが、そこは脚をメインアームとする桐子のこと、失敗するはずもない。手が使えない状態ながらも、桐子は初瀬の攻撃を受け止めた。

 そして初瀬のほうは、こんな形で受け止められるとは夢にも思っていなかっただろう。想定外の光景に目を剥いている。だが桐子のほうは防御だけでは終わらない。奪い取った得物を、足を振るって投げ返した。

 自分が投げた以上に高速で打ち返されてきた円月輪を、初瀬は完全には避け損ねて、刃は彼女の頬を切り裂いた。初瀬は完全にペースを乱していた。

 桐子は初瀬の隙を逃すまいと跳躍する。風でスカートが翻る、その下の腿のベルトに潜ませていた特殊警棒を、桐子はかろうじて動く指先でつまんで引き抜いた。振り回すことはできない、しかし、蹴り飛ばすことはできる。抜いた警棒は握ることなくそのまま宙に放り出す。その持ち手の底部を、渾身の力で蹴り抜いた。

 やたらと頑丈にできている特殊警棒は桐子の蹴撃にも耐え、敵の額めがけて豪速で打ち出された。


★★★


 まずはショットガンを一発。万里は大量の散弾をばら撒いた。そこそこの範囲にもれなく弾丸の雨を降らせれば、回避は難しい。そして、案の定それは解っているようで、行平は無理に避けようとはせず、吸収した風を放出して、もれなく弾丸を地面に落とした。

「やっぱり、普通に撃つだけじゃ弾の無駄だな」

 万里は舌打ちをして銃を《武器庫》に放り込んだ。それからすぐに次の武器を用意する。その間にも行平は素早く駆け距離を詰めにかかるが、敵の間合いに入るより先に、万里は《武器庫》から取り出した棍を振り上げる。身の丈ほどもある棍は行平よりもリーチが長い。行平の手がこちらに届く前に、敵の顎先を狙った。

 行平の反応は早かった。万里の得物が顎先を撥ねる直前でブレーキをかけてのけ反るような形で回避した。続けざまに放った横薙ぎの一撃も、後ろに飛んで躱してしまう。

 今近づくのは困難と判断したのか、行平は強引に接近するのをやめ、徐に右手を頭上に翳した。異能力で何かを吸収している。行平の《死の抱擁》が吸収できるのは触れているもののみ。今の状況で右手が触れているものは空気だけだ。吸収したものを放出することで攻撃に変換できる異能力が、次に放とうとしているのは空気――風の一撃に他ならない。

 万里が警戒態勢に入ると同時に、行平は上向けていた右手を万里のほうへ向けた。瞬間、吹き荒れる突風。咄嗟に棍を前に掲げてみるが、当然ながら風はそんな防御はするりとすり抜ける。その上、圧縮された風は刃のように鋭く尖り、棍を細かく切りつけ、ついでとばかりに万里の皮膚を裂いた。さながら鎌鼬のごとき攻撃で、その威力は、風専門の異能力者がいたら号泣するレベルだ。行平は風を自在に操り、四方からしつこく風の刃を放ってくる。暴力的な風の攻撃に、万里は怯まざるを得ない。

 執拗な鎌鼬がようやく止むと、行平は今度こそ距離を詰め、万里の手から得物を蹴り飛ばした。明後日のほうへ消えていく得物、それを万里は、深追いはしない。無防備になったところで、行平は万里に手を伸ばしてくる。

 だが、こんなところで捕まるわけにはいかない。

 行平の手が到達するより先に、万里は《武器庫》から呼び出したライオットシールドでそれを遮る。左手で盾を支えながら、右手では手榴弾を召喚する。口でピンを抜き取って、盾の向こう側に手榴弾を放り投げる。安全地帯を確保した上で、壁を一枚隔てた向こうを二秒後に淡々と爆破した。

 吸収の異能を使う隙を与えず、矢継ぎ早に攻めまくる、というのが一つの方法だ。行平は予想していないものは吸収できない。おそらく彼は、異能の発動の際、頭の中で対象を指定する必要があるのだろう。それには、ほんの一拍の、考える「間」がある。それを与えない、というのが、手っ取り早い対抗策というわけだ。

 期待通り、行平は爆風を吸収する暇はなかったようで、爆音は気持ちよく響いた。だが、破壊の嵐から逃れるように行平は反射で後方に飛び退いていた。今ので仕留められなかったのは口惜しいものだと、万里は盾を消し去りながら舌打ちする。

 行平は涼しい顔で体勢を立て直す。今のところ、たった一撃すら食らわせられていない。対する万里は、そろそろ苦しくなってきた。敵の異能への対処方法があるといっても、あまりいい状況とは言い難い。

「成程、接近も反撃も、異能発動の隙さえも許さない間断ない攻撃か。悪くないね、特に今の爆破は少しひやりとしたよ」

 そういうコメントはダメージ受けてから言え、と万里は内心で舌打ちする。

 万里が有利とは言えない事態に内心で微かに焦っているのをよそに、行平の方は実に余裕ぶった態度だった。

「……だが、それでは私には敵わないな。君はこの状況でも本気を出さないつもりかな」

 流石にその言いようにはカチンときて、万里は不機嫌を隠さず言う。

「俺がいつ手を抜いたって?」

「だって、そうだろう。銃弾もそうだが、手榴弾の威力も高くはない。あの至近距離で仕留め損なうなど、普通ならありえない。敵を殺さないという大前提が君の根底にあるのだろう。それは素晴らしい美学だとは思うけれど、この状況下では致命的な弱点だよ、それは。端的に言えば、私は君がちっとも恐ろしくない。そして、私は戦いを愉しんでいる。対する君はどうだ。愉しくない上に、私が恐ろしくて竦んでいるだろう」

 面白くない指摘に万里は舌打ちする。

 行平は万里を恐れない。故に迷いなく攻撃を仕掛けてくる。身の危険を顧みることなく懐に飛び込んでくることができる。それは決して捨て身などではなく、どうせ息の根を止めることなどできまいと侮って高をくくっているからだ。その慢心を真っ向から打ち砕くことができれば一泡吹かせることもできるだろうが、生憎、行平の指摘はもっともで、敵の侮りを覆すほどの殺意は持ち合わせていない。

 万全に異能を使いこなし、かつ戦いを楽しむようなイカレた奴と戦うには、万里の戦い方は温すぎる。行平槐は、万里にとっては天敵中の天敵、ということだ。

 そんな厄介すぎる天敵をどうにか倒す方法は――

 万里はここから先の展開を計算する。

 しかし――唐突に襲ってきた眩暈によってそれは中断させられた。

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