49次は君の番だ
使われなくなって久しい物件なのか、玄関戸は重く、ちょっと押しただけでギイギイと軋みをあげた。息を殺していたって、こんなに耳障りな雑音を出していたのではちっとも忍んだことにならない。万里はいきなり上手く行かなくて苛立ちを覚える。
不幸中の幸いで、一階には誰もおらず、雑音に気づく範囲に人はいないようだった。ということは、何かあるとしたら二階以上ということになる。階段を上がる時こそは、慎重に、足音を極限まで消して、一歩ずつ上がって行った。
電気は当然切られているようで、外から差し込む陽光だけが頼りで、階段は少々薄暗かった。それでも、積もっていたはずの埃が乱れているのはかろうじて判別でき、この階段を誰かがばたばたと慌ただしく上がって行ったことは間違いないようだった。
抜き足差し足で階段を上がると、二階の部屋に続く硝子戸は開け放たれていた。踊り場に身を潜めたまま陰から扉の向こうを覗きこむ。部屋と言っても、どうやらワンフロアが丸々ぶち抜きになっている上、調度も何もない。建物が使われなくなった時に、中にあったものは一切合財持ち出されたようだ。がらんとした広いスペースだけが確保されている。
その何もないフロアで、向かい合う二つの人影。手前側に立つのは、身長百八十前後の男で、この暑い中、黒いジャケットを着ている。背中を向けて立っているので顔は見えず、年の頃は解らない。そしてもう一人は奥の壁にぴったりと背中をつけていて、追い詰められている風に見える男。こちらは身長百六十くらいで、男性にしてはやや背が低め。黒のスラックスに白い半袖ワイシャツを着ていて、黒縁の眼鏡をかけている。第一印象は会社員風だが、右手に持っているのは、まっとうな会社員なら持ち歩かないであろう、大振りのシースナイフだ。
実戦向けの刃物というよりは装飾品に近いのか、鞘にはごてごてとした装飾が施されている。どういう意匠かまでは、万里の位置からでは遠くて見えなかったが、ただ鞘に嵌めこまれた赤い石だけははっきりと見えた。
眼鏡の男が持っているナイフが遺産だろう。万里は、そのナイフに見覚えがあるか、記憶を掘り起こしてみた。一通り記憶を浚ってみたが、どうも覚えがない。救済社の目録には記載がなかったのかもしれない。
もう少し近くで遺産を観察したいところだが、部屋の中に突入するにはまだ状況が把握できていないので、これ以上は近づけない。幸い、男は二人とも、まだ万里の存在に気づいた様子はない。このまま姿を隠した状態で、様子を窺おうと万里はいっそう息を殺す。
眼鏡の男は、何やら怯えたような様子で、震える声を上げた。
「わ、解った……この遺産は、お前に渡す。俺にとっては、身を危険にさらしてまで固執するほどの価値がある遺産ではない」
命乞いのような台詞を口にするところからすると、先刻聞いた悲鳴の主は、この眼鏡の男なのだろうか、と万里は推測する。
普段から漁夫の利を狙って苦労せず遺産を手に入れることがある万里なので、眼鏡の男の話は飛びつきたくなるような申し出だったのだが、暑苦しい格好の男はくつくつと笑った。
「解っていないようだね、アズマヤ君。私の目的は遺産の回収ではない、遺産を力ずくで略奪することだ。さあ、全力で抗ってみたまえ」
交渉が通じないと見るや、アズマヤと呼ばれた眼鏡の男は舌打ち交じりにナイフを高く掲げる。鞘におさめたままのナイフで何をするつもりなのかと訝しんでいると、ナイフが赤く発光し、アズマヤの周りに幾本もの刃が出現した。宙に浮かぶナイフは一様に切っ先を相対する黒衣の男に向けている。
どうやら実体のあるコピーを作り出し遠隔操作できる遺産のようだ。本体のナイフは、刃を鞘から抜く必要もなければ振り回す必要もないらしい。作り出されたコピーはせいぜい十本程度で、アズマヤはさほど遺産を使いこなせてはいない。身を危険にさらしてまで固執するものではないというのは本音だろう。
とはいえ、いきなり刃物が十本も吹っ飛んで来たら、神速で走れる某エージェントでもない限り、少しは手こずるかもしれない。万里は戦いの行方を固唾をのんで見守る。黒衣の男が敗れるようなら、その後アズマヤからナイフを奪えばいいし、アズマヤが負けて遺産を奪われるようなら、黒衣の男の方から更に奪えばいい。戦闘で消耗してくれれば、どちらに転んでも万里にとっては問題ない。
びゅん、とナイフが黒衣の男に向けて放たれる。鋭い切っ先が全て己に向かって飛来するという状況下で、しかし黒衣の男は決して焦ることなく、右手を前へ突き出した。ぱちん、と何かの予兆か、小さく弾けるような音がした。
瞬間、青白い光が閃いた。
黒衣の男の掌から放たれたのは電撃だ。ピシャリと耳を劈く激しい音と共に、稲妻は幾筋にも伸びて、向かってきた刃を尽く叩き落す。そしてそれだけでは飽き足らず、その奥のアズマヤにも牙を剥く。アズマヤは慌てて逃げようとしたようだが、既に壁際まで追い詰められている彼に退路はない。まごついているうちに電撃はアズマヤの体の中心を射抜いた。衝撃を受けたアズマヤは後ろの壁に後頭部を打ちつけ、その反動で前にのめって床に崩れた。
うつぶせに倒れたアズマヤの表情は窺えない。死んではいないようだが、指先がびくびくと痙攣していて、立ち上がる気配はない。
決着は一瞬だった。予想していなかった展開に、万里は呆然とする。互いにぶつかって疲れ切ったところに乱入して漁夫の利を得るのが、万里のいつものパターンなのだが、これほどまでに一瞬で勝負が決まってしまっては、好機を窺っていた意味が殆どない。その上、思った以上に、黒衣の男は強力な異能を持っているようだ。
これは失敗だったかもしれない、と万里は自分の迂闊さを恥じる。アズマヤがさっさと命乞いをした時点で可能性の一つとして検討するべきだった。遺産保持者があっさり命乞いという選択を採らざるを得ないほど、彼らには明らかな実力差がある、つまり黒衣の男は相当強い、という可能性を。
電撃の異能を司る遺産に心当たりはないが、何にせよ、この男を相手取るとなると苦戦しそうだ、と万里はいつになく弱気な気分になる。
さて、どうしたものか、と万里は逡巡する。アズマヤのナイフを、ここで飛び出してまで手に入れるべきか否か。
黒衣の男はアズマヤの方へゆっくりと歩み寄る。すぐ傍で立ち止まると、アズマヤの手から零れ落ちていたナイフを見下ろした。そして、それを拾うのかと思われた、次の瞬間、男は右脚を持ち上げ、ナイフを踏みつけた。
男の黒い革靴に踏みしだかれたナイフ、その鞘に埋め込まれていた赤い石は無残に砕け散った。特異な力の核が破壊されては、そこにあるのは、どこにでもある、ただの刃物である。
確かに、比較的大した力は持っていない遺産のようではあったが、だからといっていきなり壊してしまう必要はないだろうに。何かの役に立つ可能性も否定はできないし、売れば多少の金にはなるかもしれない。わざわざ壊してしまうのでは、何のためにわざわざ遺産の所持者と戦ったのだ。
そう疑問に思ったとき、万里の脳裏に、いつか聞いた在処の忠告が蘇る。
『最近「破壊庁」……遺産の回収ではなく破壊を至上目的とする面倒な連中が動いている。保持者が何人か襲われているのよ』
まさか、この男がそうなのか? 万里は男の一挙手一投足に集中する。せめて顔くらいは確認しておきたい。
「――さて、待たせて悪かったね。次は君の番だ」
男が振り返ることなくそう告げた瞬間、万里の心臓がどきりと跳ねた。気づかれたのだろうか、と己のしくじりに苦々しい気分でいると、男が振り返り顔を見せた。三十代くらいで、柔らかい笑みを浮かべた、パッと見は温厚そうに見える男だった。男はじっと万里の方に視線を注いできている。もう隠れている意味はなさそうだと観念して、万里は姿を現し部屋に踏み込んだ。
「破壊庁の人間か?」
万里の問いに、男は笑みを深くする。
「ご名答。さて、そういう君は……いや、名乗る必要はない。君のことは見覚えがある……救済社の、碓氷万里君、だったかな」
男は記憶を引っ張り出そうとするようにこめかみを指でコンコンと叩いていたが、やがてぴたりと万里の名を言い当てた。派手に動いていると各所で面が割れるのが鬱陶しいものだと、万里は厭わしく思う。
「私だけが知っているのでは不公平だろうから、礼儀としてこちらも名乗っておこうか。私は行平槐。異能者だ」
遺産の保持者ではなく、異能者。すなわち、遺産を使いこなせる人種だ。
「ここで君に会えたのは、嬉しい偶然だ。実を言うと、近いうちに君のことは探さなければとは思っていたんだ」
「何?」
「私は基本的に、遺産は見つけ次第破壊するようにと指示を受けているが、それとは別にもう一つ、与えられた仕事がある。何人かの対象者については、特に力を入れて探し出して、速やかに遺産を破壊するように、と。要するに、君は破壊庁のブラックリストに入っているわけだ」
「一応言うが、俺は異能者だ。同化した遺産を、どうやって壊すって?」
「異能者が死んだあと、遺産はどうなるか知っているか?」
質問に、なんだか物騒な質問で返された。
「遺産が人間と同化するのは適合率が高いためだが、その適合率を左右するのは主に肉体ではなく精神だ。精神が壊れ、肉体だけとなった死骸では遺産の適合率は著しく低下し、排出される。敵を倒せば戦利品が手に入る、ゲームで言うところのアイテムドロップみたいだね」
それから行平槐は「今日はいい天気だな」とでも言い出しそうな、ごく平和的な顔で、当たり前のように告げる。
「そういうわけだから、遺産を壊すためにまず君から壊す」
余計なことに首を突っ込んだかもしれない、と万里は嘆息する。
人間と同化した遺産を生きたまま分離させる方法というのは判明していない。それでも遺産を破壊したいなら、器である人間が生きていることにはこの際こだわらなくてもいいのでは、という極論。
こうして対峙するまで、実践する奴が本当にいるとは、思っていなかったけれど。




