44全部ですね
渋谷を寮まで送り届けた後、桐子が桜泉女子大を出て夜道をのろのろと歩いていると、後ろからライトで照らされた。振り返ると、一台の乗用車が路肩に停車したところだった。窓が開き、運転手が顔を覗かせる。上司の夏井和希だった。
「夏井係長」
「上原さん、フォローが間に合わなくてごめんなさい。他の応援は先に帰らせたわ、あまり人に見せたい格好ではないでしょう」
桐子は自分の体をぼんやりと見下ろす。服はあちこち擦り切れた上に、ところどころに赤茶色の染みができている。とても人前に出られる格好ではない。
「乗りなさい。公共交通機関は使えないでしょう」
援護こそ間に合わなかったものの、このままでは桐子が帰るに帰れないだろうと考え、夏井だけは待っていてくれたようだ。
「車、汚れますよ」
桐子の懸念に対して、夏井は淡々と応じる。
「構いません、私の車ではありませんから。既にシートに弾痕があるようなオンボロ社用車です」
そういうことならと、桐子は荷物を後部座席に放り込み、自分は助手席に乗り込んだ。乗用車は夜の道を静かに発進する。
夏井は視線は前に向けたままで問う。
「急ぎ、手当てが必要ですか」
「いいえ、大した怪我では」
再度襲いかかってきた三人を八つ当たり気味に叩きのめし、彼らが泣いて謝って遺産を置いて逃げ帰るまで痛めつけた。異能が使えないおかげで、力任せに拳をふるうばかりの泥臭い戦闘模様で、とても人に見せられたものではなかった。腹立たしいことに少々の反撃も食らった。最終的には、桐子の服は男たちの鼻血やら何やらでぐちゃぐちゃに汚れて、もう着れたものじゃない状態になり、全身は打撲と擦過傷塗れになったわけである。
ただ、戦利品は三つ毟り取ってきた。後部座席に無造作に転がっているのがそれだ。身の丈ほどもある槌を見ても、夏井は表情をぴくりとも変えなかった。
騎士団には、渋谷から連絡を受けて飛び出した時に、状況を知らせておいた。渋谷の遺産を守るという目的上、味方にさえあまり関わらせたくはなかったのだが、万が一にも一人で手に負えない状況になって渋谷の身に危険が及ぶようでは本末転倒である。ゆえに念のため、予め増援を頼んでおいたのだ。現場には間違いなく音速で走る桐子が先に到着するわけだが、戦況が長引くようなら、何とか味方の援護が間に合えば、と思っていた。結果としては、夏井が駆けつけるより早く、戦いは不本意な決着を迎えてしまったのだが。
「私が着いた時は、保持者らしき三人組が半泣きになりながら帰っていくところで、詳しい状況は把握していないのですが。その様子では、今日の会議で話していた遺産は敵に獲られたようですね」
敵が泣きながら帰っていくところを目撃しておきながら、「遺産は奪われた」と夏井が判断したのだから、つまり桐子はそんなにも解りやすく落胆しているということなのだろう。桐子は正直に報告する。
「はい。あの三人は撃退しましたが、別の……救済社の異能者に乱入されて」
「三人を相手にしながら、更に救済社が割り込んできたのでは、あなた一人では荷が重かったでしょう。ですが、遺産を三つ持ち帰っているのですから、数の上ではこちらが断然勝っています。そう気を落とさないことです」
夏井は桐子を責めはしなかった。夏井から見れば、そして騎士団の他の誰から見ても、今回の結果はそう悪いものではない。寧ろ、上々だろう。
だが、他の遺産をいくつ回収できたところで、守ると約束した渋谷の鍵を奪われてしまったのでは意味がない。騎士団は、遺産を一つ取りはぐったくらいにしか考えないだろうが、桐子にとっては、数の問題ではない。無論、そんな苦悩は味方の誰にも告げることはできないのだが。
本当は渋谷の鍵を、彼女のために守りたかった――叛意とも受け取られかねないその真意を悟られないためには、失意のどん底みたいな顔をしてはいけない。悪くない結果だった、次はもっといい結果を出そうと、前向きなことを言わなければならないだろう。
だが桐子は、当分笑みを浮かべる気にはなれない。
オフィスに戻って、回収した遺産を課長に預け、桐子は夏井に勧められてまずはシャワーを浴びて返り血まみれの体を清めた。ロッカーに備えておいた服に着替えてから、医務室に向かった。擦り傷は消毒して、打撲には湿布くらい貼ってもらった方がいい、と夏井が指示したのだ。
夜間でも、医務室には医務官が交代で必ず詰めている。その日、夜勤に入っていたのは菅野穂波という三十代半ばの女性医師だった。消毒と湿布だけしてもらえればいいくらいに思っていた桐子だったが、その予定は十秒ほどで覆される羽目になった。菅野女医は桐子の頭のてっぺんから爪先までを一通り眺めるや、にっこり笑って告げた。
「折れてるね」
彼女はだいたいいつでも笑顔だ。どんな事実を伝える時でも、分け隔てなく笑みを浮かべている。少しくらい深刻そうな顔をしてくれても良さそうなものだが、菅野は決して笑みを崩さない。嬉々として、というわけではないだろうが、そう見えても仕方のない顔で彼女は続ける。
「一応ちゃんと検査はするけど、まあ、折れてるね」
彼女がそう指摘するのは桐子の左手である。
「異能者は普通よりも体力があるし回復力もあるからそんなに深刻な怪我ではないけれど、とはいえ、せめて二週間は大人しくしててよ」
菅野は異能者ではないが、医師免許を持っていて、豊富な知識と経験により、たいていの疾病・負傷は、対象者の観察によりぴたりと言い当てる。結局その後ちゃんとレントゲンは撮られたが、結果は変わらず、左前腕骨骨折とのことだった。言われてみれば、左手の痛みがいつまでたっても引かないとは思っていたのだが、まさか折れているとは。
「なんだろう、殴られたとか、撃たれたとか、転んだ拍子に手をついたとか、そういうことした?」
「ええ、全部ですね」
見ていたんですか、と訊きたくなるくらい、見事な的中ぶりである。
「フルコンボか、じゃあしょうがないね。まあ、適当に固定しておけばそのうちくっつくよ、若いんだし」
本当に医師免許を持っているのかときどき怪しくなる雑な言動をするのが玉に瑕なのだが、菅野の見立ては今までだいたい合っていたという実績がある。加えて桐子は、自分の怪我に頓着するような心の余裕がないので、菅野に対して文句もツッコミも出てこない。
反応が緩慢な桐子に対して思うところがあったのか、菅野がついでという風に付け加える。
「上原さん、左手以外にも折れているものがあるよね」
「そうなんですか」
「ハートブレイク。失意のどん底みたいな顔してるよ。一つアドバイスすると、仕事の失敗は誰だってある。あまり気にしすぎないことね」
「……けれど、絶対に失敗できない時って、あるじゃないですか」
話すつもりはなかったのだが、菅野が慰めるような言葉を口にするので、つい反駁してしまう。
「私は、今回ばかりは絶対に失敗できないと心に決めて臨みました。けれど結果は散々です。夏井係長は上々だと言ってくれましたが、私にしてみれば全然ダメだったんです。自分が評価していないことを他人から褒められるのは、あまり気分がよくありません。できることなら、叱ってほしかった。こっぴどく怒られて、これ以上ないくらいに扱き下ろしてもらったほうがよほど良かった」
「でも、叱られたら上原さんが少し楽になってお終いでしょう」
虚をつかれて桐子は菅野を見つめ返す。菅野は相変わらず微笑みながら核心を突くことを言う。
「失敗したと思っているなら、楽になる方に考えちゃ駄目よ。罪悪感に押し潰されながら、悩んで苦しんで、その上で、次は同じ失敗をしないようにって反省して、成長するものよ。そうね、しばらくは……手の怪我が治るまではクヨクヨしていてもいいけれど、それが治ったら、生産性のない後悔はきっぱり終わりにして、次どうするかを考えましょう」
「菅野先生、カウンセラーの資格も持っていたんでしたっけ」
「いいえ。私、元は産婦人科医だし」
骨折を見抜いたくせに整形外科医ですらないのか。桐子は野暮なツッコミをなんとか呑み込んだ。
左手の処置を終えると、菅野は容赦なく「じゃあもう帰っていいよ」と追い払うようなことをのたまう。桐子は大人しく退室した。
機動第三課に戻り、誰もいない事務スペースでひっそりと、片手しか使えず不便な思いをしながら報告書をまとめてから、ぐったりした気分で帰途に就いた。その後、怪我の状況を菅野か夏井あたりから聞いたらしい永倉から連絡が入り、しばらく仕事の方は気にしなくていいというような旨を伝えられた。課長にしてみれば怪我人をいたわってのことだろうが、桐子にしてみれば謹慎処分を受けたみたいな気分だった。
桐子の部屋のエアコンは、翌日、修理業者が見に来たが、部品の交換が必要で、繁忙期のため納品まで一週間ほどかかるということになった。部屋はしばらく暑いままである。しかし桐子は、どこにも出かける気になれなくて家に閉じこもった。無論、図書館になどは、行く決意がつかなかった。
本来ならすぐに渋谷に謝りに行くべきだ。だが、いったいどんな顔で会いに行けばいいのだと、現実逃避するようにやるべきことを先延ばしにした。




