37悠長にはしていられない
中学生の時までは、夏休みの宿題に「日記」があった。何時に起きて、天気がどうで、どんな出来事があったか。そんなことを、普段日記を書かない生徒であっても、毎日記録をつけておくことを要求された。長さはほんの数行程度の話なのだが、桐子はこれが酷く苦手だった。起床時間と天気くらいなら、毎日忘れずにノートに書けた。困ったのが、その日何があったか、である。小中学生の夏休みなんて、わざわざ日記に書くほどの特別な出来事は、そうそう毎日のようには起きない。たまにあったとしても、それは間違っても夏休み明けに担任教師に披露できるエピソードではなかった。桐子の夏休みと言えば、「特に何もなかった」か「バイトが大変だった(ただし詳しく書けない)」の二択が関の山だったのである。
高校生の宿題には、幸い日記などというものはないようだった。しかし、書かなくて良いとなった途端に、日記に書けるようなエピソードが出てくる。たとえば、桐子の夏休み初日は、もしも日記に書くとしたらこうなる。
自宅の冷房がぶっ壊れた。
舟織市の隣にある小さな街・美守町で、桐子は一人暮らしをしている。といっても、アパートを借りているのではなく、実家で一人暮らし。上原家の家長である父は現在単身赴任中である。昨年、仕事の関係でかなりの遠方に転勤が決まった時、父は一緒に勤務地のある市に引っ越すことを提案したが、桐子は生家を離れがたく美守町に留まらせてもらった。異能者であるゆえに周りよりは逞しく成長してはいるものの、まだ中学生だった少女の、最初で最後のわがままで、ちょっとした冒険だった。父は定期的に仕送りをくれるが、できる限り自分のバイト代で学費と生活費を賄うべく、桐子は騎士団のメンバーとしての仕事に精を出し、節制できるところは切り詰めている。その割に気に入ったブーツは高額でもポンと買ってしまう謎の金銭感覚なのだが。
それはともかくとして、そういう事情で一人暮らし中の桐子を襲った事件が、自室のエアコンの故障であった。
涼しい季節の間ずっと使っていなかったエアコンを、真夏にいきなりフル稼働させると壊れることがある、というのは聞いたことがあるのだが、フルパワー運転にすら辿り着かない一合目の段階で壊れてしまった。リモコンのボタンは、押せば健気にピッ、ピッと鳴るのだが、肝心の本体の方は、そんな命令は聞こえませんとばかりに沈黙を貫く。直接本体をべしべしと叩いてもみたが、やはり反応がない。桐子より年上の、買い替え適齢期をとうに過ぎたエアコンは、夏休み初日にご臨終された。
すぐに修理業者に連絡したものの、シーズンのため今日すぐには来てくれないらしく、桐子の部屋が再びエアコンの恩恵を受けられるようになるには、時間がかかりそうだ。しかし、業者は来てくれなくても、暑さは容赦なくやってくる。扇風機で何とかなるレベルを超える熱気に、桐子は困り果てた。
その日は快晴で、部屋でじっとしているだけでも暑かった。一階のリビングにも一応エアコンがあるにはあるのだが、このエアコンがこれまた古く、このロートルで広いリビングを快適に過ごせるレベルまで冷やそうと思ったら、設定温度がおかしなことになる。一人しかいないのにリビングのオンボロエアコンをフル稼働させるのは、経済的にも環境的にも、いろいろと抵抗がある。
そういう事情で桐子が行きついた結論は、「じゃあこんな暑い家にいなければいいんだ」というものだった。
行くあてについて、いくつかの選択肢を検討した桐子は、早めに宿題を片づけておこうと思い立ち、舟織市立図書館に向かうことにした。
偶然の事件とちょっとした気まぐれにより訪れることになった図書館――そこで遺産の問題に関わることになろうとは、暑さでうんざりしつつあった桐子は夢にも思っていなかった。
バスで舟織駅まで行けば、市立図書館はそこから徒歩五分ほどのすぐ近くにある。建物は三階建てで、舟織市に在住・通学・通勤している者は誰でも利用登録が可能で、利用カードを作れば本の貸し出しは勿論、学習用スペースを借りることもできる。
一階自動ドアを抜けると、快適な冷気が漂ってくる。館内は、入り口から見て右手にカウンター、左手にエレベーターがあり、奥には児童コーナー、文庫・新書の棚、ラウンジが広がっている。
桐子はカウンターで学習室の利用申請をする。学習室は衝立で仕切られた机が並ぶスペースで、受付カウンターに置かれた、机の並びと同じ五×十二に仕切られた木製の箱で空き状況が確認できる。席が空いていれば、箱から番号札を取って、札についているバーコードと自分の利用カードのバーコードをそれぞれ読み取ってもらい使用申請をするシステムだ。
空いていた席を借りると、エレベーターで三階へ。下りてすぐ左手にある部屋に入ると、ずらりと机が並ぶ学習室だ。席の埋まり具合は四割といったところだ。桐子は入口から二列目の端の席に荷物を置いた。
夏休みは一か月以上ある。とはいえ、そのすべてを自由に使えるわけではない。まず、定期的に騎士団でミーティングがある。実際、今日も夜には会議の予定がある。加えて、遺産の問題が起きれば不定期で仕事が入る場合もある。不測の事態に備えて、早め早めに宿題を片づけておく必要がある。
更に、夏休み明けには早々に実力考査なる試験が行われるため、宿題とは別に自主学習も決して手は抜けない。これまで数度の試験を実施しており、一般的には充分優秀といえる成績を収めてきた桐子だが、それでも結果に納得しているかといえば、ノーだ。なぜなら、今までの試験で一度も、万里から首位の座を奪うことはついに叶わなかったからである。仕事先にしょっちゅう現れる彼が、桐子以上の勉強時間を確保できているとは思えないのだが、なぜか彼はいつも涼しい顔で一位の座を掻っ攫っていく。万年二位に甘んじている現状は、桐子にとっては認めがたい屈辱なのである。
打倒万里――夏休み明けには、公私ともに万里をけちょんけちょんにしてやると密かに画策しながら、桐子はシャーペンを走らせ宿題の山を切り崩しにかかった。
★★★
くしゅん、と小さくくしゃみをしたら、通信端末の向こうから心配というよりは面白がるような声が飛んできた。
『なに、夏風邪?』
万里はローテーブルの上に放り出してあった冷房のリモコンを取り上げて設定温度を確認する。地球にやさしい二十八度設定である。装いは長袖のワイシャツにジーンズだから、決して寒いわけではない。
「誰かが噂でもしているんだろ」
適当な解釈をして、そんなことよりと、万里は通信相手の琴美に報告を求める。万里が荒事関係の仕事を奪い取っている関係で普段から実戦よりも情報収集任務の比重が高い琴美は、流石に手慣れているようで、まだ丸一日すら経っていないのに、必要な情報をあらかた調べて終えていた。
『お兄が思った通り、渋谷真里菜はアルバイトで定期的に大学構内から出てくるタイミングがあるよ』
「そうか。一人暮らししてるならバイトくらいしてるだろうとは思ったんだが、ヤマ勘が当たったな」
『思ったより楽に接触できそうだね。勤務先の住所と、シフトの情報を端末に送るよ』
「ああ。……ん?」
さらっと流しかけた万里だが、ふと不審に思って首を傾げた。
「勤務先はともかく、よくシフトまで調べたな」
『入手経路は知らない方がいいよ』
後ろ暗い方法で入手したことだけはよく解った。まあ、今更のことではあるが。
『経歴も調べたけれど、ごく普通の善良な市民だね。持ってるのが本当に遺産だとしたら、偶然入手しただけに一票』
「善良な一般市民から遺産を頂戴するのが、実は一番大変なんだよな」
『武力行使できないもんね』
遺産を狙う薄汚い連中を叩きのめすことや騎士団の某音速姫を蹴り飛ばすことには何の躊躇もない万里だが、何も知らないごく普通の人間に対して荒っぽい手段に出るほど腐ってはいない。
『一応、調べた経歴も一緒に送るから』
「了解。助かったよ」
『標的と接触するの?』
「新聞に載ったっていうのがマズイな。悠長にはしていられない」
『真昼間から公衆の面前で騒ぎを起こすのはどうかと思うけど』
「バイトが終わるのを待って声かけるに決まってるだろ。けど、節操のない連中が白昼堂々と仕掛けてきた場合は乱入する。とりあえず、勤務先の監視だな」
そう言うと、琴美は納得したようだった。
『確かに、騎士団の「音速姫」なんかが昼間から暴れ出したら面倒そうだしね』
琴美の懸念に、万里は応えない。ただ、内心では、「桐子は白昼堂々と暴れはしないだろう」と彼女の清廉さに妙な信頼を感じており、また同時に「そもそも桐子は今頃家で優等生らしく宿題をしているに違いない」とクラスメイト的な憶測を抱いていた。こんな推測は、間違っても救済社の仲間たちには漏らせないが。
数秒の後、端末が琴美からの情報を受信した。シフトの時間を確認し、これからの行動を計画する。
渋谷真里菜に関する情報を流し見ると、明らかに流出していたらアウトな個人情報が入っていて、いったい琴美はこんな情報をどんな後ろ暗い手で入手したのだろうと、万里は妹の将来を心配しつつ部屋を出た。
★★★
図書館の学習室には、勉強道具を持ち込んでもいいし、館内の資料を閲覧することもできる。桐子は、半分は英語やら数学やらの大量のワークブックを切り崩す時間にして、もう半分の時間で読書をしようと考えていた。
そう、読書である。単なる趣味ではなく、これも宿題、読書感想文のためである。普段は趣味に費やす時間があまりない桐子である、読書は滅多にしないし、家の本棚はすかすかである。冷房が壊れた時、図書館に行こうと思い立ったのは、読書感想文という難関のことが念頭にあったためでもある。
英数の問題集を、予定していたノルマのページまで終えた桐子は大きく伸びをして、気分転換も兼ねて感想文用の本を探そうと、学習室を出た。三階は丸々、学習室や研修室などのスペースになっているので、一般書架は二階にある。階段で下に降りると、本棚がずらりと並んでいた。学校の図書室よりもはるかに広く、蔵書数も多い。
なんとなく本を探しに来た桐子は、正直な話、途方に暮れつつあった。普段本を読まない彼女にとっては、この大量の本の海から自分に合った本を見つけ出すだけでも一苦労なのである。
とりあえず、端から順に見ていって題名に惹かれたものを手に取って見ようかと、ローラー作戦的なことを考えていると、近くを職員らしき女性が通りかかった。
「あの……何かお困りですか」
そのまま通り過ぎようとしていた職員が、立ち止まって桐子に声をかけてくる。
「……私、ですか?」
周りをきょろきょろと見回して、どうやら自分以外にいなそうだと把握した桐子は訝しげに訊き返す。そんなに傍目にも解りやすく「お困り」に見えたのだろうかと思っていると、女性職員は柔和に笑って答える。
「頭を抱えていらしたので」
種明かしをされた桐子は顔を赤くする。無意識のうちに頭を抱えていたらしい。とんだ醜態を晒したものだ。
とはいえ、せっかく声を掛けてもらったので、桐子は開き直って、困っていた理由を正直に打ち明けることにする。餅は餅屋、素人の自分が探すより、プロに頼んだ方がいいに決まっている。
「読書感想文の宿題があるんですけど、私、普段はあまり本を読まないので……」
「今の時期は、読書感想文向けに特設コーナーが作られていますよ。課題図書やおすすめの図書、読書感想文の書き方の図書などもあります」
桐子は女性職員に案内されて特設コーナーに辿り着く。桐子がローラーをかけようとしていたのとは正反対の場所にあった。やはり、解らないことはプロに訊くのが一番である。桐子には通りかかった職員が女神に見えた。
「ありがとうございます」
「また何かあったら、声を掛けてくださいね」
女神はにこりと微笑んだ。




