35お引き取り願いましょうか
神栖を黙らせたのはいいが、これで綺麗さっぱりお終い、めでたしめでたしというわけにはいかない。喫緊の問題として、体育館で火災が起きているというから、とっとと避難しなければならない。屋上で救助を待つというのも一つの手だが、半裸の女子生徒と昏倒している男性教諭の組み合わせは、人に目撃されると説明が面倒すぎる。誰かが来る前にトンズラするのが一番いいに違いない。
「桐子、悪いけど、下までおろしてくれない?」
万里は桐子に軽い調子で頼む。一応は敵である彼女に当たり前のように頼るのもどうかとは思ったのだが、自力で頑張る方法が思いつかなかったのだ。
「それは構いませんけれど……これ、どうするの」
もう「この人」ですらなく「これ」と物扱いで桐子は神栖を指差す。
「火災現場に放置はできないだろ、敵とはいえ」
「そうよねえ」
桐子は露骨に顔を顰める。「私が運ぶの?」と言いたげだ。万里も、桐子に任せるのは少し酷かなとは思う。だが、他に運べる人間がいないから仕方がない。万里には神栖を担いで屋上から飛び降りるような芸当はできない。
「子供ならともかく、大人二人を一度に抱えるのはできないわよ、重いから。順番ね、順番」
「どっちが先でもいいから頼むよ」
「仕方がありませんね。とりあえず、拘束するくらいはあなたがやって」
できる限り触れたくないらしく桐子が苦り切った顔で指図する。もはや彼女には神栖が汚物か何かに見えているのかもしれない。
仰せの通り、万里は神栖を拘束すべく《武器庫》から手錠を取り出して神栖の傍らに膝をついて手を伸ばす。
と、機を見計らったかのように神栖がカッと目を見開いた。
「なっ……!」
桐子に蹴り飛ばされた奴がそんなに早く目を覚ますわけがないと、正直なところ高をくくっていた。神栖が目を血走らせて吠えるのを目の前に捉えながら、万里は「しくじった」と悟った。
驚異の早さで復活した神栖は、目を覚ましたばかりのくせにやたらと俊敏で、万里の首に大きな手が素早くかかった。力任せに締め上げられれば、蛙みたいな声が喉の奥で漏れる。息が詰まり、怯んだ隙を突かれ万里は屋上に押し倒され、神栖はその上に馬乗りになる。追い詰めていたはずが、一気に立場が逆転した。
「万里!」
桐子が事態に気づいて警棒を拾う。ほぼ同時に、神栖は靴の踵から針を引き抜く。曲がりなりにも教師のくせに、とんでもないところに暗器を仕込んでいたものだ。
万里の両手は神栖の膝に押さえつけられている。それを振り払って銃を抜くには、時間が足りなそうだ。
神栖は瞳に殺意を爛々と漲らせて針を振りかざす。万里は思わず目を閉じた。
その瞬間、凛とした声が緊迫した瞬間を切り裂くように割り込む。
「――そこまで」
静かながらも有無を言わせぬ迫力を持つ声に全員の動きが止まる。奇妙なことで、万里も、そして神栖でさえも、声の主を振り返らずにはいられなかった。
いつからそこにいたのだろう、気配もなく屋上に現れたのは、生徒会長・帯刀深雪だった。
「帯刀先輩、どうして」
「帯刀さん、なぜ……いや、これは」
神栖が目に見えて狼狽する。どう言い訳するか迷っているのだろう。教師が生徒を襲っている図は言い訳のしようのない光景なのだが、どうにか誤魔化そうとしているようで目が泳いでいる。
「言い訳は無用です、状況は理解していますから」
帯刀はふだんと変わらぬ薄い微笑みを浮かべている。この非常識な状況を目の当たりにしても一切表情を変えないのが、かえって末恐ろしい。
否、よくよく考えれば不思議なことではないのかもしれない。なにせ彼女自身が、常に刀を所持しているという非常識そのものの存在ではないか。
帯刀は刀の柄に手をかけて告げる。
「神栖先生……いえ、生徒に害をなすあなたを、もはや先生と呼ぶべきではありませんね」
「何?」
「あなたは私の敵です。私の生徒に手を出す不届きな輩には、お引き取り願いましょうか」
宣戦布告と同時に帯刀が刀を抜いた。
帯刀と神栖との距離は十五メートルほど。帯刀の間合いではない。否、届くとか届かないとかそれ以前に、帯刀の刀には、柄から先、肝心の刃がなかった。
「柄だけ……?」
呆気にとられて万里が思わず呟くと帯刀は可笑しそうに言う。
「流石の私も校内で真剣を持ち歩けるはずがない。このとおり、ただの玩具だ。もっとも」
柄の先、何もなかった場所に、白い光が一筋。光が束ねられ、なかったはずの刀身を作り出していく。それは紛れもない異能の産物だった。
「ご覧のとおり、私の異能《夢幻刀》があれば、柄だけで充分だ」
帯刀の瞳に怜悧な光が宿る。白い光の刃を、帯刀が一閃する。その場からでは届きようのない距離があった。しかし、光の刃は間合いなどお構いなしとばかりに、その切っ先を神栖へと延ばす。
刃が万里の頭上すれすれを通り過ぎて、神栖の胴を両断する。あまりにも一瞬すぎる出来事で、神栖は悲鳴すら上げる暇もなかったようだ。胴体が真っ二つになる凄惨な光景を想像したが、そうはならなかった。刃が通過した神栖の腹部は、しかし傷一つなく、血が噴き出すこともなかった。
ただし、斬られた瞬間に、神栖の体からがくりと力が抜けたのが解った。万里が試しに軽く押してみると、神栖は抵抗なく崩れ倒れた。
いったい何が起きたのか、万里はまだ理解できていなかった。体を起こし、倒れた神栖を見ると、彼は意識はあるようだが、ぽかんと口は開いたままで、ぼんやりとした様子で機械的に瞬きだけを繰り返している。呼吸は正常だが、息をしているだけだとも言える。
まるで廃人のような状態――そうなった人間を、万里は以前にも見たことがあった。五月に襲撃してきた遺産保持者・鷺沼がまさしくこの状態だった。てっきり仲間に切り捨てられ口封じされたものと思っていたが。
「……先輩の仕業だったんですね」
帯刀に向き直ると、彼女の刀は既に柄だけの状態に戻っていた。
「帯刀先輩、どうやってここまで来たんですか。体育館は火災になっているという話ですけれど」
「安心していいよ。火災発生のアナウンスは私が流した嘘だから」
「は?」
「素敵なアシストだっただろう?」
まあ、あの放送で神栖に隙ができたのは事実だが。
「全校放送で嘘ついて大丈夫ですか。というか、どこまで把握しているんです」
「ふむ……話が長くなりそうだ。生徒会室へ行こう。お茶と着替えくらいなら出すよ」
未だ謎めいた存在の帯刀を警戒する万里は提案に乗るかどうか逡巡したが、迷っている間に「着替え」に飛びついた桐子がさっさと話に乗ってしまった。仕方がないので、万里も溜息交じりについていくことにした。
一生のうちに一度座れるかどうかだと思っていた豪奢なソファに二度も座ってしまった。万里は落ち着かない気分でいた。前回は生徒会に勧誘された時で、恐れ多くて落ち着かなかったのだが、今回は帯刀が謎すぎて落ち着かない。万里は自信を持って断言できる、生徒会なんか入らなくてよかったと。
警戒心を隠しもしない万里とは対照的に、隣に座る桐子は、新しい制服で餌付けされたためか、帯刀と談笑しながら呑気に勧められた紅茶を飲んでいる。その呑気さのせいで、万里の方は気分がささくれ立ってきていた。
「桐子、君はどうしてそんなに呑気なんだ」
「あなたは逆に、どうしてそんなにピリピリしているのかしら。助けてもらったのに、そこまで警戒しなくてもいいんじゃないの」
「真意が解らない上に異能者だぞ、警戒要素しかないじゃないか」
聞こえよがしに言ってやると、向かいに座る帯刀は微苦笑を浮かべる。
「その真意については、今から説明しよう。それと、私の異能はさほど警戒には値しないよ。私の異能は制約が多いからね」
帯刀は優雅に紅茶を啜り、友人とティータイムを楽しんでいるときのような気楽さで語る。
「私の目的はシンプルだ。生徒会長として舟織一高を守ること。時には異能を使ってでも、ね」
「守る……その割に、怪しい言動が多くありませんでしたか」
「事件の黒幕は私だとでも思っていたのかな」
「……」
「幸いにも真犯人の方から出てきてくれたから、勘違いの推理を披露するのは免れた、と」
「…………」
当てこすりを言った瞬間カウンターを喰らった。「そうだったの?」と桐子が目線で問うてくる。もう触れないでほしいので、万里は憮然としたままひらひらと手を振って、さっさと続きを話せと先を促す。
「嘘は言わなかったけれど、誤解されそうなことを言ったことは認めるよ。君たちがどちら側の人間か見極めたかったから、少し試したくて」
「どちら側って」
「遺産と学校、どちらを優先する人間か。碓氷君、君のことは生徒会に入れて監視下に置きたかったのだけれど、あっさり拒否されてしまったから、特に注意して見ていた」
それを試される機会は、神栖の暗躍によって幾度となく訪れた。
「月曜日の件と今日のこと、裏で誰かが動いているのは解っていた。黒幕をさっさと突き止めてしまってもよかったのだけれど、いい機会だからと思って、黒幕も君たちのことも泳がせておいた」
「俺たちが校内で遺産絡みの事件が起きた時にどう動くか、事件に便乗して監視していたわけですね。ついでに俺たちが勝手に動いて黒幕を突き止めてくれれば一石二鳥と」
「身も蓋もない言い方をすればその通りだ。遺産の暴走が君たちの手に負えなそうになったら介入しようと思っていたけれど、君たちは首尾よく解決してくれた。そして黒幕まで辿り着いた」
ちなみにその黒幕は、「転んで頭でも打ったんじゃないですか」という帯刀の雑な嘘に見送られて病院に搬送された。
「そういうわけで、私の当初の目的もおおよそ達せられたよ」
「だから全部明かす気になったんですね」
「そう。なんだか、危なそうな雰囲気だったし」
確かに、先刻の万里は完全に不意をつかれて、神栖にしてやられるところだった。帯刀の助けがなかったら、無傷ではいられなかっただろう。それに、その前の放送にも助けられた。アナウンスのおかげで神栖に隙が生まれ反撃のチャンスが訪れ、辛くも舟織一高無差別爆破の難は退けられたのである。
「火災発生なんて、嘘の放送をして大丈夫だったんですか」
桐子が帯刀を案ずるように問う。そのあたりは抜かりはないようで、帯刀は心配無用と断言する。
「先生たちの許可は事前に取ってあるからね。避難訓練ということで」
「無理がないですか、それ。何か異常事態があったって、勘ぐる奴もいるでしょう」
「大丈夫だよ、私は人徳ある生徒会長だから」
自分で言っていれば世話がない。
「会長の異能は、何なんですか」
「《夢幻刀》は、物体を斬れない代わりに、それ以外のものは何でも斬れる。精神を斬れば、神栖のように、体は無傷のまま廃人にすることも可能だ。いろいろ制約はあるけれどね」
その制約というのは、たとえば生徒のことは斬れない、というのが一つだという。生徒会長として舟織一高の生徒を守るという使命感によって遺産と適合しているためだと帯刀は分析しているようだ。
「会長は、俺と桐子の関係を知っているんですよね」
ずっと気になっていたことを口にすると、桐子がふっと厳しい表情になる。彼女のほうは、素性が割れているとまでは思っていなかったのだろう。
「君たちが敵対する組織に所属していることは把握している。生徒の家庭事情を把握するのは生徒会長として当然だ」
裏社会の組織に所属している事実は果たして家庭事情の範疇に入るのか疑問だが、とりあえず万里はツッコまないでおく。
「君たちが学校でまでドンパチを始めるようならどうしようかと思っていたけれど、校内ではとりあえず普通の高校生で通しているんだろう? 休戦しているなら、私は特に口を出すつもりはない」
「普通の高校生……屋上で教師とドンパチしてましたけどね」
「組織のエージェントなら、あの状況では、人質の生徒に何人犠牲が出ようと構わず神栖の遺産の回収するよ。君たちは組織の異能者ではなく、高校生として行動した。生徒の安全を最優先し、遺産を破壊することを選んだわけだ。普通の高校生は異能なんて使わないと言うかもしれないけれどね、大事なもののために自分のできることをしようとするのは、普通の高校生的な思考回路だと思うね。手段こそ異能ではあるけれど、そんなものは別に、異能を使うのもそのへんの石ころを拾ってぶん投げるのも、本質的には変わらない行動じゃないか?」
その言葉は、不思議なほど、万里の胸にすんなりと入ってきた。
学校で、異能を使って戦って、桐子と協力する。そんな自分は、組織の人間なのかただの高校生なのか。公私混同しないと決めていたのに、自分で引いた線がいつのまにか掠れてしまって、交じってしまっているような気がして、本当にこれでいいのかと、もやもやしていた。けれど、公私の区別はたぶん、異能を使うかどうかの問題ではない。何を優先するかの問題なのだ。そう考えれば、今までの自分の行動が、何も誤魔化すことなく納得できる決断だったと言える気がした。
いろいろと騒がしい一週間だったが、蟠りが解消されたのは収穫だったかもしれない。ただ、一つだけ納得できない点がある。万里は思い切り抗議の意を込めて言う。
「その理屈でいくと、異能があっても――帯刀先輩でも普通の高校生ってことになりますけど、先輩を普通と言い張るのはかなり無理がありませんか」
すると帯刀は、万里の言葉を予期していたかのように、いつになく悪戯っぽい笑みを浮かべて即答する。
「私は特別だよ。だって、生徒会長だからね」




