30日目 積日
ヨームさんが帰ってきたのは翌日の夜だった。
わたしはずっと屋敷で待っていた。セレンさんのお見舞いに行きたかったけど、ヨームさんの許可が下りなかった。セレンさんは魔力を極限まで使って、昏睡状態に陥っているのだという。セレンさんは寝れば回復する、わたしも怪我をしているのだからと部屋に閉じ込められた。
ナダンさんと茶色ローブの少年は、傷を手当され牢で裁判を待つ身。イアリカ様は火傷がひどいものの、一命は取りとめているらしい。しかし、今回の事件とその怪我で、もう二度と表に出ることはないだろう、とヨームさんは話した。
キアスさんは途中からセレンさんの側についていたらしい。イアリカ様の企みについてはヨームさんにある程度伝えていたとか。ヨームさんがわたしにイアリカ様のことを深く知らせなかったのは、余計な心配をかけたくなかったからだ、と言った。
「わたし、てっきり、ヨームさんがイアリカ様のことを引きずってるのかと」
苦笑してしまう。気をつけていたつもりだったのに、ナダンさんに振り回されてしまった。
「引きずってる?」
「ヨームさんがイアリカ様を好きだったって、ナダンさんが言っていたから」
「余計なことを……」
向かいに座ったヨームさんがテーブルに肘をついて、頭を抱える。わたしはテーブルの下で服を握る。
「好きだったのは、本当なんですか」
「……憧れのようなものです。遠くから見るしかなかった、学生時代に。しかし軍に入ってからは、ただの上司としか。猫を被っていても、セレン様を憎悪しているのはすぐにわかりましたし」
「そう、ですか」
張り詰めてしまっていた息を吐いた。もしまだ気持ちがあるのだとしたら、昨日のことはとても酷なことだろうと思ったから。安堵しているのは、それだけが理由ではないけど。
躊躇いがちに、ヨームさんは尋ねる。
「……怪我の、具合は?」
わたしは椅子から立ち上がり、その場で足踏みしてみせた。
「全然平気ですよ」
動かせば痛いものの、膝下の傷はそんなにひどくない。切断されなかっただけありがたいような気もする。
ヨームさんも立ち上がった。
手をとられて、袖で隠れていた包帯があらわになる。硝子玉を握りこんでできた傷だ。
「これは自分でやったようなものですし」
自分でやったとはいえ、手が血まみれで破片が食い込んでいるのを見たときは震えた。逃れようと必死で躊躇なんてしていられなかったから、ひどい有様だった。
ヨームさんは何も言わない。
今度は首元に手が伸びてきて、思わずあとずさりかけた足を留める。つい、息を止めてしまう。長い指がガーゼの端に触れ、あ、と思い出す。
剣を向けられたときか、抵抗したときかはわからないけど、首筋が切れたらしかった。あのときはそれどころじゃなくて、全然気づかなかったけど。気づかなかったくらいだから、傷は浅い。
「すぐ治りますよ」
ヨームさんの手が、わたしの頭に移る。髪をなぞられる感触。でも、前と違ってすぐに終わる。
拘束から抜けて駆け出したとき、剣はわたしの後ろ髪を切った。不恰好だから切り揃えると、肩につかない程度の髪型になった。これについても、髪だけで済んで良かったと思っている。
「髪だってすぐ伸びます」
それなのに、ヨームさんは痛みに堪えるような目をする。
「ヨームさんの方が大怪我負ってますよね?」
「それほどひどいものではありません」
左腕をざっくり切られていたはずだ。けろりとした顔で軍服を着ているけど、その腕には包帯が巻かれているはずで。細かい傷だってたくさん負っていたはず。
「自分の身体を労わってください」
「怪我も仕事のうちですから」
当たり前みたいに言ってのけるけど。
剣を扱っているのだから、怪我なんて日常茶飯事なのかもしれない。仕事として来てくれたのだとしても。
どれだけうれしかったか、悔しかったか、知らないんだ。
「助けにきてもらえて、すごくうれしかったんです。でも、何もできなくて、それどころか足を引っ張って」
ヨームさんの足元まで転がって、結局捕まってしまうし。あのときセレンさんが来なかったら、どうなっていただろう。
「人質になるくらいなら、死んでやるって思ったんです。もうどうなってもいいと思って、挑発して。やけになって、本当どうしようもないですよね。でも、もう帰れないし……」
声が震える。目が潤んでしまいそうで、うつむいた。
「我慢しないでください」
泣きそうなことなんて、ヨームさんにはお見通しなのだろう。
「自分のためだけに泣くのは、自分に負けてしまった気がするんです」
異世界に来たのだと知ったとき、帰れないと知ったとき。つらいとき、涙は出そうになる。でも、泣いても解決しない。誰かがどうにかしてくれるわけじゃない。結局自分で解決するしかない。
泣くくらいなら、これからのことを考えるべきだ。
一度自分のために泣いてしまったら、どうにもできない自分の弱さを認めてしまうことになる。
「泣いてしまったら止まらなくなりそうで」
泣いたら、張り詰めた気が流されてしまう。気を強く持てなくなってしまう。
「立ち直れなくなってしまいそうだから」
だから泣かないと、決めた。決めたのに。
そっと、ヨームさんの声が降ってくる。
「そうやってやせ我慢を続けていれば、本当に立ち直れなくなります。泣かないと意地を張っても、余計つらくなるだけです」
我慢をしていても、つらくなくなるわけじゃない。
つらいのを我慢して、泣きそうな度ごまかしていた。しかし自分の気持ちをごまかしても、消えてなくなってはくれない。もう決壊しそうなほど、心が悲鳴をあげている。
泣かずにいたって、こんなやせ我慢をしていたわたしは初めから負けていたのかもしれない。
自分のために泣いてしまったら立ち直れなくなる。そう思ってわたしは泣くことが怖かった。そんな風に怖がって気を張っていたって、虚勢でしかないのに。
「わたしがいない方が良いかもしれませんね」
ひとりにしてほしい、と昨日言ったからだろうか。
うつむいた視界から、ヨームさんの濃紺が出て行く。
――伝えたいことがあるのに。
とっさに、手を伸ばしていた。服の裾を掴んで引き止めてしまう。
服を掴んだ手が、震えている。言葉まで震えてしまわないように、深く息を吸った。
「もとの世界に帰れないことがわかって、わたし、もう、どうでもいいと思いました。なにもかも」
涙が頬をつたう。帰れないと口にすることが、その事実を再認識させる。胸が引き裂かれるように苦しい。
「でも、ヨームさんと生きていきたいと思ったんです」
やけになって、未練なんてないと言いかけた。なにもかも失ってしまったと思った。
でも、全部消えたわけじゃない。わたしも、わたしの気持ちもここにある。
わたしは、どうしようもなく誠実で気を使ってばかりのくせに無表情の、彼のそばにいたいと思った。
涙が止まらなくて、手で拭う。目頭が熱い。嗚咽が漏れて、しゃくりあげてしまう。
いきなり泣いて、きっと困らせてしまう。そう思って止めようとするのに、溢れるばかりでもうどうにもできなかった。包帯を巻いていない左手で目元を隠す。
不意に、その手を掴まれた。手首に、何かが通される感覚。
にじむ視界でもわかった。壊してしまった、桃色をした硝子玉のブレスレット。あるはずがないものを見て、涙が止まる。
「直してもらいました」
わざわざ、どうして。顔を上げると、柔らかな眼差しがそこにあった。壊れ物でも触れるようにそっと、目じりに残った涙を指先で拭われる。
「恋人に贈るものだそうですから」
また、視界がにじむ。せっかく止まったと思ったのに、抑えがきかない。
どうしよう。また部屋を出て行こうとでもされたら困る。
「これは、うれし泣きですから」
小さく、笑う声がする。
ヨームさんが笑った顔、見たことない。そう思って見上げようとしたのに、その前に後頭部に手がまわる。強い力じゃないけど、上を向けない。
――見せないつもりだ。
抗議の意味を込めて胸に頭突きをする。わずかに身体が揺れているのがわかる。また、笑ってる。
見られないなんて、もったいない。
そう思うけど、きっとこれから見る機会はあるだろう。何度だって。




