決断の時
昭和四十五年十月三日の朝早く、団地中の者が叩き起こされた。
その日は次郎の仕事は休みで、十時頃まで寝る予定であったが、激しくドアを叩く音で心地よい眠りは中断された。
そのまま団地の住民全員が、反万連のメンバーに誘導され、広場に集められた。
異常な事態であることは間違いなかったが、不思議と緊張感はなく、欠伸をしたり、隣人と話したりなど、皆しばらく好きに過ごしていた。
五分ほど経ち仮設の壇上に一人の男が登った。
「静粛にィ!」
団地は静寂に包まれた。
叫び慣れていないのか、喉をひっくり返したような声だ。
そんな珍妙な声が団地中に響き、笑いを堪えるような荒い鼻息が次郎の周りから聞こえてくる。
男の見た目は眼鏡を掛けた、どこか気弱そうな文学青年といったような見た目であった。
立派な服に包まれてはいるが、着こなせてはおらず、服に着られているという表現の方が似合っていた。
彼の見た目を見た住民は益々安堵した。
こんな眼鏡男には何も出来ないだろうと、そういう期待が彼らを包んでいたに違いない。
眼鏡男は不満げながら一応住民が静かになったのを見て、再び口を開いた。
「この団地から、複数の小説•漫画本が見つかった。しかもいずれも内容に不適切な描写が含まれており、人民に不必要な感情等を惹起させるものである。散々の通告にも関わらず、それに従わない人間がいることを鑑みて、これから『総括』を行う。」
言葉を終えた眼鏡男は演説台の傍に控えている他のメンバーに目配せをした。
すると向こうから手を縛られた住民らしき二人の男が、眼鏡男の前に引き出された。
既に二人は相当暴行を受けていたらしく、立つのも座るのもやっとの様子であった。
次郎はその光景を見て思わず唾を飲み込んだ。
眼鏡男は二人を一瞥すると、
「では総括始め。」
と呟いた。
メンバーたちが二人の前に集まり、一斉に蹴りを入れる。
二人が倒れ込んでも、なおも蹴りは続く。
乾いた鈍い音が広場中に響き渡っていた。
住民たちは声にならない悲鳴をあげた。
それを見て眼鏡男は、してやったと言わんばかりの陰湿な笑みを浮かべた。
どれほど時間が経ったであろうか。
次郎はボロボロの肉の塊となった二人を見ながら立ち尽くしていた。
「あのヒョロガキ、サシだったらこっちが捻り潰してやるのになぁ。」
刺青を入れた男が次郎の隣でそう呟いて、その場を去っていった。
思えば政治が変わっても、法律が変わっても、何故かすぐに慣れてしまう自分がいた。
最初の一週間や二週間は頭を抱えるが、すぐに楽観的な見方をしてしまうのだ。
これは人間が生きていくための本能に因るとでも言うべきだろうか。
そうして放置している間に状況は日に日に悪化していき、ついに一般人まで暴力で抑圧されるにまで至ったのだ。
もうここには住めない。
出なければいけない。
次郎はそう確信した。
(続)




