第37話
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宿に戻ったのは日没を少し過ぎた頃です。料理の仕込みや店内の掃除などをさせて頂き、そのあと少しだけ接客をして上がらせてもらいました。初めての仕事は時間にして5時間ほど。給金として頂いたのは90フェリヌですので約束通りの額を受け取りました。
「まさかその日のうちに頂けるとは思ってもみませんでした」
本来なら月払いで頂く給金を事情があるようだからと特別に日払いをしてくださったアルク様には本当に感謝しかありません。
「こんな見ず知らずの者に、この国の人たちは優しいですね」
セルフィスに入る直前に道を尋ねた農夫や滞在している宿の主人。だれもが皆、わたくしたちを温かく受け入れて下さいました。クーゼウィンがそうでない訳ではありませんが、アリス様が一日でも早く戻りたいと言われた理由がなんとなく分かった気がいたします。
(一先ず、部屋に戻ったらアリス様に今日のことをお伝えしないと)
わたくしたちが使っている客室は2階の一番奥。1階から上がる階段から続く廊下の突き当りにあります。ベッドとテーブルだけの部屋は日当たりが悪く、その代わり部屋代は安いので出費を抑えたい現状にはちょうど良い部屋です。
「――アリス様。ただいま戻りました」
「おかえりー。どこ行ってたの?」
「昨日夕食を頂いた店にちょっと」
「なにかあったの」
「実はその、旅費の工面を――」
「もしかしてお金、足りないの?」
「い、いえ。これから先、なにがあるか分からないので多い方が良いかと思い――」
言わなければ良かったと後悔しても遅いのは分かっています。けれどもアリス様の俯くその姿を見たら胸が痛くなります。だれのせいだとか、そういうものではありません。それはアリス様も解っておられるはずです。それでも自分の我儘にわたくしを巻き込んだのではと言う自責の念があるのでしょう。
「アリス様。確かに手元の資金では些か心細いのは事実です。ワタシは顔に出易いようなので正直に申します。ですが、アリス様のせいでは決してありません」
「エリィ?」
「ワタシは自らの意思でアリス様にお仕えすると決めました」
「ほんと?」
「はい。ですからアリス様はなにも心配されなくて大丈夫ですよ」
「それでも、これからはちゃんと言って。これ、命令ね」
「……申し訳ありません」
アリス様は「命令」と言う言葉がお好きではありません。それでもその言葉を使われたのはそれだけわたくしの行いに怒っていらっしゃるのでしょう。
「ちょ、ちょっとそんな顔しないでよ。そうだ。今日ね、屋台に行ってきたんだよ」
「屋台?」
「うん。ほら、ここからちょっと行ったところに円形広場があるでしょ」
そういえば広場に数軒出ていましたね。クーゼウィンにいた頃も時折足を運ばれていたようですし、もしかしたらそういった場所がお好きなのかもしれませんね。
「お菓子買って来たんだ。一緒に食べよ」
「良いのですか?」
「エリィと一緒に食べたかったんだ」
そう言ってアリス様はテーブルに置かれていた紙袋を手に取り、中からマフィンを取り出しわたくしに見せてくださいました。
「ここじゃ有名らしいよ。紅茶味とココア味、どっちが良い?」
「えっと、それじゃココアを」
「うーん。半分こしよ?」
アリス様もこっちが良かったのですね。このマフィンはアリス様が買ってきたものですし、ここはわたくしが引くべきですよね。そう思い、アリス様に譲ろうとしますが頑なに拒まれ、両方食べれるという単純明快な理由で半分ずつ頂くことになりました。
アリス様がお買いになった2種のマフィンはどちらも大変美味しく、有名だと言う話は納得できます。特に紅茶味は茶葉の芳醇な香りが広がり、これなら紅茶味を選び一人占めすれば良かったと後悔しました。
(まぁ、どちらを選んでも分け合うことになったのでしょうが)
アリス様がお小遣いで買われたものなので御裾分けを頂けるだけで十分です。それにしても、アリス様と一緒に、それもベッドに腰かけてお菓子を頂く日が来るとは本当にわたくしは変わりました。以前のわたくしなら絶対にありえないことですし、このような姿を父上に見られたなら間違いなく罰を受けていたことでしょう。
(こんな時間もたまには良いものですね)
美味しそうにマフィンを頬張るアリス様は本当に幸せそうな笑顔を見せ、そんな主君の姿にわたくしも幸せな気持ちになります。
王都まではまだ時間が掛かることでしょう。ですがその分だけ今日のような細やかな幸せが増えることを願い、わたくしは明日も奉公を頑張ろうと思うのでした。




