第9話 不協和音
次の日、ジムの入口を少し開けると、山崎会長と野口さんの言い争う大きな声が聞こえてきた。
入り辛かった俺は、そっと扉を閉め、駅に向かうつもりで振り返ると、誰かとぶつかってしまった。
「あっ、ごめんなさい」
俺は、とっさに謝った。
「あれ? 今日は早かったんですか?」
篠田なぎさだった。
「昨日まで、他のジムに出稽古だったから……、今日は軽く体動かして……、もう帰るところです」
嘘をついてしまった。
「ああ、そうなんだ。 じゃあ食事でもどうですか?」
「あ、いえ、その……」
次の瞬間、ものすごい勢いでジムのドアが開いて、山崎会長が出てきた。
気が付くと、篠田なぎさを盾にして隠れていた。
山崎会長をやり過ごしてふと気が付くと、不思議そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「お食事どうします?」
断り切れなくなり、一緒に食事に行くことにした。
そして、この日を境に山崎会長と野口さんの会話が少なくなった。
「大河遅いね」
「こんな写真載っちゃったから、来づらくなったんじゃないか?」
先日の試合後、リング下で篠田なぎさが大河に抱き付いてる写真が、再び週刊誌に掲載され、熱愛と書かれていた。
「昨日まで、他のジムに行ってたらしいから、その事で何か話でもしてんじゃないか?」
「さ、呑もう呑もう」
男たちはさほど気にしていなかった。
「なぎさちゃんはお茶でいいの?」
「美容が第一ですからね。 大将」
「かわいい子、連れてんじゃない」
「私、この子のファンなの」
「え? なぎさちゃんがファンなの?」
「そうだよ。 肉食系は仕事、仕事」
大河は、篠田なぎさ行きつけの寿司屋にいた。
「大将、適当に造ってもらってもいい?」
「あいよ」
大将は笑顔をみせると、黙々と仕事を始めた。
「大河君、元気ないね」
「え、そうですか?」
「いつもの大河君じゃないでしょ?」
「……かも、ですね……」
横から顔を覗き込むように話してきた篠田なぎさは……、綺麗だった。
ジムで会っていた時は、頭の中がボクシングに占領されていて、篠田なぎさを一人の女性として見ていなかったのかもしれない。
今、改めて近くでみると、美しさに圧倒されてしまう。
「今日は、何でも好きなもの食べて元気だしてね」
「ありがとうございます」
それでも俺は、いつものノリにはなれなかった。
「大河君、トレーナーの人と仲いいよね。 強い信頼関係で結ばれてるなって感じる。 何だか、凄く、うらやましい」
「え、そうですか?」
「うん、何だか、仲のいい親子みたい。 もう、あの方と知り合って長いの?」
俺は、野口さんとの出会いから今までを話した。
「ようやく笑顔が出たね。 あの方、野口さんっていうんだ。 面白い人だよね。」
篠田なぎさが見せた笑顔は、俺の知っている肉食系の笑顔ではなく、少女のようなかわいい笑顔で、俺は勘違いしそうだった。
一時間ほど経った頃、俺のスマートホンがなった。
「ヤバ!」
兼一からの着信だった。
「どうしたの? 彼女?」
「いえ、今日、呑み会だったのすっかり忘れてました」
「お仲間?」
「小学校からの同級生で、いつも応援してもらってる……」
「そういう人は大事にしないと駄目よ。 ここは払っとくから行きなさい」
「はい、ありがとうございます」
「そうだ大河君、電話番号教えてもらってもいい?」
「あっ、はい」
「本当にごめんなさい。 あと……、ありがとうございました。 何だか、すっきりしました」
俺は深く頭を下げると、寿司屋を出てタクシーに飛び乗った。
(なんだか、篠田なぎさの印象変わっちゃったな)
「ゴメン、遅くなっちゃって」
既に、みんな出来あがった感じだ。
「お兄さん、トニックウォーター」
橋元さんが手を挙げた。
「なにやってったんだよ」
「いや、ちょっといろいろあって」
「お前、また写真撮られてたろ、後楽園ホールで。 真希ちゃん怒ってるぞ」
「えー? そんな事ないよ。 怒ってなんかないよ。 ね、解決済みだもんね……」
「う、うん」
今日の俺は、何だか後ろめたかった。
「アハハハハ、そうか、それはよかった」
橋元さんは結構酔っているようで、呂律がまわっていない。
「でも大河、口紅ついてんぞ」
「やっぱり?」
「おー、引っかかんないな。 大河! お前、このやろう」
「高見さん勘弁してくださいよ」
「よし、今日はお開き!」
橋元さんの一言でお開きになった。
「大河、ごはん食べてないんじゃない?」
「あ、いや、た、食べたから大丈夫……」
「そうなんだ……」
「うん、野口さんが強引で……」
「なんだ、そういう事か」
「はっきり言わないと逆に心配するでしょ。 あー心配して損した」
「ゴ、ゴメン」
この日は、いつもより二つ手前の駅で電車を降り、歩いて帰る事にした。
車のライトに照らされるたびに、今日あったいろんな場面が浮かんでは消えた。