第11話 対戦相手の急遽変更
十月に組まれた試合で、事件が起きた。
「坂口、実はな、今度の対戦相手なんだが……、ジム側と連絡が取れなくなったらしいんだ。 まあ、行方不明というよりは、逃げたという方が近いのかもな……」
山崎は、頭を掻きながら視線を合わせることなく話した。
「それで、今度の試合はどうなるんですか? もう、あと三週間じゃないですか」
「しょうがねーだろ、早急に相手探すよ。 マッチメーカーにはもう頼んである」
心配で尋ねた俺に、山崎会長は慌てる素振りもなくいった。
既に、試合に向けて減量は進めていた。
俺の普段の体重は約六十七キログラム、ライト級のリミットは約六十一.二キログラム。
そして、そのリミットまであと二キログラム、三週間あれば余裕だろうと思っていた。
試合まであと二週間という時期に決まった対戦相手は、一つ下の階級の選手だという。
しかも、試合での体重のリミットは、六十キログラムという条件が出た。
ライト級のリミットから、更に一.二キロの減量だ。
仕方ない、条件をクリアしないと試合が出来ない。
更に苦しい減量が課せられた。
そんなある日、橋元さんが決起集会と称して食事会を開いてくれ、みんなが呑んだり食べたりしている中で、俺は味のない生野菜を少しずつ食べていた。
真希は、そんな俺を覗き込み一言。
「ウサギみたーい」
もぐもぐ食べる真似までしている。
「うっせーっ。 試合終わったら見てろ! こんな分厚いステーキ食ってやるからなー!」
「じゃあ、勝ったらそのステーキ、私がおごってあげるね。 ウ・サ・ギさん」
顔を覗き込んで微笑んだ。
真希を乗せたタクシーが走り去った後、いつものように四人で肩を組んで歩いた。
「大河、減量に負けんな。 今度の試合勝ったら、お前の分は俺が出してやるからな」
「橋元さん、俺と兼一の分は?」
「おー、この前の一件で懲りた」
「橋元さんゴチになります」
四人の影は池袋の群衆の中に消えていった。
試合まで一週間という日、山崎会長の口から、更に条件提示があったと告げられた。
「体重のリミットはスーパーフェザー級のリミット約五十八.九キログラムだそうだ」
更に一.一キログラム、現時点の体重から一週間であと二キログラムの減量。
この時期に来て更に減量を強いられるのは、精神的にも正直きつい。
でも、やるしかなかった。
試合まであと二日、
残すところあと一キログラム。
この一キログラムがなかなか落ちてくれない。
夜、お腹がすいて寝付けずにいると、なぎささんから電話があった。
「大河君、順調?」
「あと、体重だけです。 それ以外はすべて順調です」
「じゃあ、よかった。 私、明日から海外ロケで、今度の試合観に行けないから、元気な声だけでも聞いておこうかなと思って」
「ありがとうございます」
「そんなに今回の減量キツイんだ」
「今回は無茶苦茶ですよ、もう……」
「ハハハ、じゃあ、今度の試合が終わったら、また一緒にお食事しようか」
「ありがとうございます」
「じゃあ、がんばってね」
電話のあと、飛行機の中で、なぎささんが俺の腕に抱き着くようにして眠っていた、あの時の感触を思い出しているうちに、眠りについてしまった。
試合の前日
ここまで体重を絞り込むと、なかなか汗も出なくなり、体重も落ちなくなってくる。
サウナで汗を出そうと思ったが、汗すらもなかなか出てきてくれない。
ふらふらになりながらサウナから帰ろうとすると、ジムで俺の居場所を聞いて駆けつけてくれた高見さんが立っていた。
「お、前、そんなんで、明日の試合できるのか?」
わざわざ来てくれた高見さんに感謝の気持ちはあったが、肩に手を置くのが精一杯だった。
試合当日
「じゃあ、坂口君乗って」
コミッショナーに促され、トランクス姿で体重計に乗った。
「五八.七五、オッケー」
コミッショナーの声が部屋に響き、それに続いて対戦相手も計量にパスした。
それを見届けると、山崎会長に続いて部屋を出た。
「じゃあ坂口、夜な。 ちゃんとメシ食えよ」
計量に立ち会った山崎会長は、足早に帰ってしまった。
俺は、敢えて山崎会長と同じエレベーターには乗らず、エレベーターホールで見送り、一階のランプが点灯した事を確認した後で、次のエレベーターの到着を待った。
一階でエレベータを降りると、壁に寄りかかって俺の姿を探していた兼一が、手を挙げて駆け寄ってきた。
「高見さんから昨日の夜電話もらってさ、お前の減量が相当キツそうだから、計量が終わったら何か食べさせてやってくれって」
「そうなんだ 本当ありがとうな」
「さあ、何が食いたい?」
兼一は、やつれた顔を心配そうに覗き込んだ。
「なんだろうな。 しばらく食べてないから、あれもこれも食べたいものがあって……」
「じゃあ、バイキング行こうか。 いろんなもの食べられるし……、苦しい減量に耐えたお前に、俺たちからのご褒美だ。 思う存分食ってくれ」
「マジか、やっぱり、お前たちを信じていてよかったよ」
「調子良すぎんだよ。 行くぞ」
二人はタクシーに乗り込むと新宿のホテルに向かった。
都会の景色が一望できる窓辺のテーブル席に腰掛け、大河は次から次と運んできては食べていた。
兼一はそんな大河を眺めながら、コーヒーを飲んでいた。
しばらくすると、兼一がスマートホンを取り出した。
「おー。 うん、大丈夫だったよ。 一回でパスしたみたいだな。 今ガッついてるよ。 おー、代わるよ」
電話の向こうは真希だった。
「うさぎさん、いっぱい食べてる?」
「うっせー」
ひと言だけで兼一にスマートホンを返した。
「お前ら連絡先交換しとけよ。 後で俺が教えとくからな」
俺と真希が既に付合っている事は、彼らにも未だ知らせていなかった。
そして、兼一がスマートホンをポケットにしまった次の瞬間だった。
胃の辺りに我慢できない程の激痛が襲ってきて、その場にうずくまった。
「救急車、お呼びしましょうか」
ホテルの従業員が慌てて声をかけてくれたが、それを敢えて断り近くの病院を紹介してもらった。
「すいません。 こいつ、食べ過ぎなんです。 こいつが悪いんですから、みなさん安心して召し上がってください」
兼一は、俺に肩を貸しながら、他の客に気を使って出口までペコペコしていた。
「兼一悪かったな、お前に迷惑かけちゃって……」
「バカ、水臭いこと言ってんじゃないよ。 今は試合の事だけ考えろ」
大河を抱えるようにタクシーに乗り込むと病院に向かった。
「何日もまともに食べていないのに、急に食べ過ぎたから胃が痙攣を起こしたんでしょう。 これを飲んで安静にして下さい」
「今日の夜、試合があるんですけど」
「自分の体の事を先に考えてください。 とにかく安静にしていてください」
医者は大きなため息をつき、呆れた。
後楽園ホールから車で十五分ほどの兼一のマンションで休ませてもらい、夕方、試合会場の後楽園ホールに向かった。
後楽園ホール奥の階段を下りると控え室に通じる。
メインの試合をするトップクラスの選手は、一人で一部屋使えるが、俺のレベルだと他にも何人もの選手や関係者で賑わっている。
既に試合を終えて汗を拭っている選手、顔を腫らした選手、俺と同じように試合を控えて気持ちを落ち着かせている選手……。
そんな控室で、俺も試合に向けて準備をしていた。
その時、厚い金属製の扉をノックする音が響き、誰かが入ってきようだ。
一瞬静まり返った後、部屋の中がザワザワし始めた。
扉に背を向けて腰掛けていた俺は、部屋の雰囲気が一気に変わったのを感じ、ゆっくり振り返ってみた。
無理もなかった、兼一と高見に続いて北園真希が入ってきたのだ。
いつの間にか真希はすかっり有名人になり、モデルだけではなくCMや女優業までこなしている。
そんな人が入って来たのだから、ザワつかない訳がない。
極度の減量と試合前の雰囲気で、いつも以上に戦闘モードに入っていた俺は、真希にもそっけない態度だった。
「こんだけ眼に力があれば大丈夫! 上で観てるぞ!」
兼一と高見は、肩に手を置いた。
「がんばってね、うさぎさん」
顔を近づけた真希は、俺が言葉を返せないように唇をつまんだ。
「うっせー!」
つままれた唇では上手く言葉に出来なかった。
「じゃあ、後でな!」
三人は周りの人たちに軽く会釈をし、控室から出て行った。
ふと気が付くと控え室は静けさに包まれ、視線の殆どが俺に向いていた。
俺と真希の一語一句に注目しているかのようだった。
「サイン頼んでもいいか?」
「今日はTシャツ着てないんすか?」
「バカ、サイン用のTシャツなんか、何枚もないよ」
野口は、大河の頭を小突いた。
「お前ら、どういう関係?」
今度は、山崎が口を開いた。
「はあ……、小学校の同級生です……。 それだけです」
「だっ! だよなあー。 そりゃそうだよ! あー良かった~っ!」
野口さんの大きな声に、部屋中の誰もが安心したように首を縦に振った。
リングに上がると、きれいに女装したママが、リングの上まで花束を届けてくれた。
「あんた、がんばなさいよ」
その花束を受け取り、高々と掲げると野口さんに手渡した。
「なあ、今日はどうなってんの?」
「さあ。 今日の花束はいらないんすか?」
「今日は遠慮しとく……」
野口さんと目を見合って笑った。
一通りのセレモニーが終わりゴングが鳴った。
先ずは、お互いがジャブで距離を確かめたり、スキを探す。
(ガードが固い)
今度はジャブを上下に振り分けてみる。
相手は体を丸めて両腕でガードを作り、頭から腹までを隠そうとする。
しかし、体を丸めたせいで、わき腹がガードの後方に剥き出しになっているのが見えた。
狙いは決まった。
あとは、そこに拳を打ち込むために、どう攻撃を組み立てるかだ。
一ラウンド目は、いろいろなパターンから様子をうかがった。
ゴングが鳴りコーナーに戻ると、野口さんが的確なアドバイスをくれた。
「いけそうか?」
「はい」
「この回で決めて来い!」
野口さんは俺の背中をポンッと叩き、GOサインを出した。
「セコンドアウト」
場内アナウンスで野口さんはリング下へ降りた。
真希の方に目をやると、手を組んで祈る様に観ていた。
ゴングが鳴り振向くと、相手は凄まじい勢いで突進して来た。
不意をつかれたというか、油断してしまったというか、それから暫くの間、俺は打たれ続けた。
腕でガードしたり、左右に足を使って的を絞らせない様にしたり、なかなか態勢を戻せないまま、じりじりとコーナーに追い詰められてしまった。
大歓声が、個々のヤジや声援を消してしまう。
「落ち着け!」
不思議な事に、そんな中でも、野口さんの声だけは耳に入って来る。
残り時間一分、野口さんに目をやると”行け行け!”というサインだ。
ジャブで距離を測り、上下に打ち分けて揺さぶった。
素早く見せ掛けのストレートを顔面に向けて打つと、ガードが上がりガラ空きのボディーが視界に入った。
素早く拳を引き戻すと、ボディーにパンチを突き刺した。
試合は決まった。
ボディーへのパンチが決まると、苦しくて立ち上がれない。 対戦相手はリングの上でもがき苦しんだ。
客席を見ると、みんなが両手を突き挙げて喜んでいた。
真希を除いては……。
真希だけは泣いていた。
それが、うれし涙なのか安堵の涙なのか教えてはくれなかった。




