序章:雨の夜
はぁ、今朝も相変わらず蒸し暑いな。仕事に行かなきゃ。
お、テーブルの上にアイスが。
あーあ、昨日の夜は皿洗いで手いっぱいで、すっかり溶けちゃってる……
今日のバイト帰りにまた買ってこよう。
冷蔵庫にあったサイダーをテーブルの上に置いた。
親父、怒らないでくれよ。俺はただ、親父に少しでも元気になってほしいだけなんだ。
今日は店長に給料の前借りを頼まなきゃいけないけど、どうなることやら。
「ダメだね、今月の給料の前払いなんてできるわけないだろ」
「ですが、店長! 家に本当に急用があって……」
「知ったこっちゃないね! いいからさっさと働け! それとも何かい、給料全部カットされた上で文字通り叩き出されたいのかね!? 嫌なら今すぐ仕事に戻れ!」
「……分かりました」
目の前の男は声を張り上げて俺に大声で怒鳴り散らす。口からはどろりと濃厚なニコチン臭が漂っていた。言い返したい気持ちは山々だったが、反論したところで俺には何の得もない。
俺にはこの仕事が必要だし、金も要る。そして、親父だっているんだ。
また終業の時間になった。
俺は店で貰った消費期限間近のアイスを手にコンビニを出た。今度こそ、この貴重な甘みを噛み締めよう。
一日中立ちっぱなしだったからな……はぁ、腰が痛い。
「パパ! 来週もこの遊園地に遊びに来ようね!」
通りから子供の声が聞こえてきた。幸せそうな三人家族だ。
羨ましいな……俺も、あんな温かい家が欲しかった。
まあいいや。ちゃんと生きて、毎日を過ごしていけるなら、なんだっていい。
うん、なんだっていいんだ。
ゴロッ。
まずい、雷は嫌な予兆だ。
そう思った矢先、大粒の雨が叩きつけるように降ってきた。
俺は急いで家に向かって走り出した。まるで後ろから巨大な化け物に追われているかのように。
ふぅ、やっと着いた。
びしょ濡れになった作業着を引きずりながら家の中に入る。家の中まで水浸しってことはないはずだ。
「ただいま」
部屋に響くのは自分の声だけ。この時間なら、親父が出てくるはずなのに。
奥の部屋から、言いようのない悪臭が漂ってきた。
「親父、何やってんだよ……? 部屋の中、なんか匂うんだけど」
返事はない。
俺が奥の部屋のドアを開けるまでは。
なぜか床が濡れていた。足をとられ、俺は派手に尻餅をついた。
「うっ……雨漏りか?」
床に倒れ込んだため、視線は自然と上方へと向く。
しかし、目に飛び込んできたのは——天井から吊るされた、まるで人形のような『何か』だった。
そいつから、ポタポタと『水』が滴り落ちている。
「は……?」
カッ!
再び閃光が走り、雷鳴と共にその全貌が露わになった。
俺の脚から一瞬で力が抜け、その場に膝から崩れ落ちた。
今朝まで、確かに生きていた人間だったのに。
叫び出したかった。しかし、体は嘘のように動かない。恐怖のせいなのか何なのか、地面にへたり込んだまま、指一本すら動かすことができなかった。
なんで。
頭の中が真っ白になり、浮かんでくるのはその三文字だけだった。
なんで?
なんで!
なんで!!!
バァン!
居間の方から凄まじい音が響いた。明らかに雷の音ではない。
「おーおー、ここがアイツの家か。随分とボロいねえ」
「入った途端ヤバい匂いがすんな。ここで何やってやがったんだ」
この声は誰だ? 俺の意識は一瞬でそちらへと引き戻された。
勢いよく振り返ると、そこには黒く身を包んだ二人の男が立っていた。
「おい、てめぇがアイツのガキか?」
刀傷の男が俺を睨みつける。顔には深いシワがあり、そして何より目立つのは一本の大きな刀傷だった。
誰だ、お前たち?
「へっ、まさか孝行息子の畜生まで飼ってたとはな」
野球のバットを持った痩せ型の男が、挑発的な口調で吐き捨てた。胸ポケットから手慣れた手つきでタバコとライターを取り出し、カチリと火をつけると、俺の顔に向けて喉を突くような煙を吹きかけてきた。
夢であってくれと強く願ったが、その刺すような臭いが俺を強制的に現実へと引き戻す。
「お前たち……親父に何しやがった!?」
必死で冷静さを保とうとしたが、声が震えて抑えきれない。
「そんなゴミ屑、俺たちが手ぇ下すわけねえだろ」
ずっと胸の奥に押し込めていた感情が沸き立ち、握りしめた拳へと集まっていく。だが、結果は明白だった。
「ぐはっ……!」
容赦ない蹴りが腹に叩き込まれた。
たった一蹴りで、息が詰まるほどの激痛に身体が動かなくなる。
「あぁん? 喧嘩売ってんのかコラ!?」
必死で這い上がろうとする俺に、二発目の蹴りが落ちてくる。
「クソガキが、死にてえのかオラッ!?」
雨あられのように浴びせられる蹴りが、俺の頭と胴体を打ち据える。
「調子こいてんじゃねえぞ、小僧が!」
激しい眩暈の中、俺は床に倒れ伏した。
もう一人の男がバットを振り上げ、俺の横腹を容赦なく殴りつける。
ドスッ。
鈍い痛みが走る。
ドスッ。
刺すような激痛。
ドスッ。
今度は耐えがたいほどの痛みが全身を襲い、身体が引きちぎられるかのような感覚に襲われた……
どれほどの時間が流れただろうか。
「おい田中、あんま痛めつけるな。そいつ死んだら元も子もねえだろ」
ようやく拷問のような時間が終わった。
「アイツが作った10億円の借金、さっさと返さねえと……お前、東京湾で深海魚になってもらうからな」
痩せた男が俺の耳元に顔を寄せ、低く囁いた。
「ペッ」
刀傷の男が俺の顔に唾を吐き捨てると、二人揃って出て行った。
部屋には、俺だけが取り残された。
外の豪雨が少しずつ弱まっていく。
万籟倶寂——完全な静寂が部屋を包み込む。
俺は床の上で丸まったまま、横腹の激痛に身を捩っていた。口や鼻、口角から大量の血が溢れ出し、目の前の竹敷きを赤く染めていく。前に這い進もうとしても、身体がまったく言うことをきかない。
痛い……
「カハッ……ゴホッ……オエッ……」
生理的な本能による、抗いようのない激しい咳き込み。一回咳き込むたびに、大量の血が鼻と口から吐き出される。
世界から、一瞬にして音が消えた。
息が、吸えない。溺れているのとはまるで違う感覚。
空気を吸おうとするだけで胸が引き裂かれるような激痛が走り、胸腔の中で液体が泡立っているのが分かる。鼻腔を満たすのは、血の匂いと腐敗臭、カビ臭さが混ざり合った地獄のような臭いだ。
息が……できない……
視界の中で、部屋がぐるぐる回転し始める。
嫌だ、こんなの嫌だ……まだ生きたい……
あんなに色鮮やかだった世界から少しずつ色が抜け落ち、無機質な白と黒だけになっていく。
強烈な窒息感が全身を支配し、俺の脳も限界を迎えていた。
ぐるぐる回る視界が、無数の砂嵐へと変わっていく。
脳が勝手に、人生で一番幸せだった瞬間を再生し始めた。
誕生日、入学式、遊園地、おふくろの笑顔。
死にたくない……
眠い……まだ、寝たくないのに……
もしかすると、これは全部夢なのかな。それとも……俺はこれから、最高の美夢を見に行くのかな……
底のない暗闇の中で、俺の意識はゆっくりと溶けて消えていった……
どれほどの時間が過ぎただろうか。正確に言えば、自分の身体と意識が感知していた時間がどれほどだったのか、それすら分からない。
さっきまでの瀕死の感覚や絶望感は跡形もなく消え去り、あとに残っていたのは、どこからともなく漂う温もりと安らぎだけだった。
俺は意識の一部を取り戻した。
もしかすると最初から最後まで、本当にただの夢だったのかもしれない。夢の中なら、どんな恐怖も存在しないのだから。
だがしばらくすると、自分が絶え間なく浮上し、浮上していく感覚を覚え始めた。とても懐かしい感覚なのに、どこで経験したのか思い出せない。
俺はガバッと目を覚ました——まるで溺れていた者が突然水面へと引き揚げられたかのように。
直後、刺すような冷気が全身を襲う。睡魔の淵から冷酷な現実へと、力任せに引きずり出されたかのようだった。
耳元に届く音が、かつてないほど鋭く、大きく増幅されて聞こえる。
血生臭さと汗の匂いが混ざり合った刺激臭が、鼻腔を突いた。
決して心地いい感覚ではない。だが、自分はどうにか助かったのかもしれないと思うと、胸の奥から安堵と秘めた喜びが湧き上がってきた。
強張っているはずの身体を動かしてみる。うん、まだ少し違和感があり、どうも上手く連動しない感じはあるが、それでも生き残れたんだ。そうだろう?
俺は込み上げる疑念を押し殺し、命拾いしたことを素直に喜んだ。
おかしいのは、何を見ても視界がぼやけてよく見えないことだ。まさか後遺症だろうか。
そんなことを考えていると、何やら奇妙な生物が目の前に躍り出てきた。視界がかすんでよく分からないが、ぼんやりとした影であることだけは分かる。
人間の顔をしているのに、言葉では言い表せない不気味さと異様さを漂わせていた。
——それは、人間には決して存在するはずのない特徴を目にするまでのことだった。
細く、長く伸びた、尖った耳。
俺は叫び声を上げた——しかし、口から漏れ出たのは高く甲高いうぶ声だった。
「おぎゃあーーーーっ」




