序章:苦夏
また、なんてことのない一日が始まる。今日もがんばらなくっちゃな。
服を着替えながら部屋を出て、親父の部屋の前に向かう。
「おはよう、親父」
親父は静かに横たわっていた。傍らには転がる空のビール缶。昨日も遅くまで飲んで作業していたのだろう。
こんな光景にはもう慣れっこだ。なんでも知り合いに誘われて、ネットのビジネス——『BTC』とかいうやつを始めたらしい。儲かるのかどうかは知らないが、とにかく毎日パソコンで複雑な操作をしては夜更かしをしている。
正直、俺にはちんぷんかんぷんだし、関係のない話だ。真面目にバイトして家計を助ける。それが今の俺のやるべきことだ。
そろそろ時間だ、仕事に行かないと。俺が働かなきゃ、うちじゃカップラーメンすら食えなくなるかもしれない。
朝の六時。昇ったばかりの太陽のもと、街路樹の鳥のさえずりが心地よく響く。慌ただしい道中、それがせめてもの癒やしだった。
早起きした俺の目は開いているものの、意識は半ば眠ったままだ。頭の中にセメントでも流し込まれたみたいに重い。
明日はもう少し早く寝よう。
毎日繰り返される勤務先に到着する。朝の客足は相変わらず多い。クレームなんてつけられたら目も当てられないから、しっかり接客しないと。
案の定、次の客がやってきた。
「このパン頂戴」
「はい、温めますね」
電子レンジのブーンという羽音を聞きながら、勝手に昔の記憶が脳裏に浮かんでは消える。人との会話は苦手だが、仕事中に頭の中で独り言をつぶやくのは妙に楽しい。特に、こうしてぼーっとできる瞬間は。
東京の夏は相変わらず蒸し暑いが、和歌山よりはまだマシかもしれない。
ここに来て二年が経つというのに、和歌山での暮らしを思い出すたび、おふくろの姿が鮮明に蘇る。忘れかけていた記憶や感情が、胸の奥からこみ上げてくる。
数年前の突然の大喧嘩の末、おふくろはスーツケースを引いて、一度も振り返ることなく家を出て行った。
それから、俺は親父につくことになった。親父はおふくろと別れてから精神的に参ってしまったらしく、実家のまともな仕事を捨て、家も車も売り払い、俺を連れてこの街へと逃げてきたのだ。
『洋平、お前もそろそろ責任を背負うべきだ』
それ以来、親父は口癖のようにそう言うようになった。
一連の激変のせいで、俺は高校に進学することもできず、こうして早々にコンビニで働くことになったわけだ。
「おい、あんた! 何やってんだ!」
怒鳴り声に、俺はハッと現実に引き戻された。
何が起きたんだ?
声の主は買い物に来た中年男だった。
「バイトしたことねえのかよ! パン温めるくらいで床に落としてんじゃねえよ!」
言われて初めて、自分が手を滑らせてパンを床に落としたことに気づいた。
「すみません……」
俺は背を向け、落ちたパンを拾うと、そのまま中年男に差し出した。
「おいこら、てめぇ正気か!? 床に落ちたパンを客に渡すやつがあるかよ! 客は神様だってこと、教わらなかったのか!?」
あんたが急に怒鳴るから、うっかり忘れてたんだろ……
「すみません……」
俺は俯いたまま、ボソボソと呟いた。
「また何かあったのか?」
バックルームから、金縁メガネをかけた太っちょの男が顔を出した。
「どうしたんだね」
「あ……店長」
「また客とトラブルを起こしたのか? これで何度目だ! 接客の基本も教わっていないのかね、高野ぁ!?」
俺はただ、頭を深く下げることしかできない。
「毎回毎回、話しかけるたびにその腐った態度をしやがって!」
「すみません……」
もう嫌だ。こんな奴らの顔も見たくないし、口すらききたくない。
「人が話してる最中に顔を伏せるな! 顔を上げろ!」
「高野洋平、今月の給料は半額カットだ! 次同じことをやらかしたら、即クビだからな! 分かったか!?」
故意じゃなかったのに。ただ、あの頃の温かい思い出に浸っていただけなのに。
全部夢だったらいいのに。
歪んでいく奴らの顔が、過去の記憶と重なり合っていく。
窓の外の眩しい日差しは次第に陰り、客たちの喧騒の中で薄れていく。気づけば、残されたのは冷たい月光だけだった。
毎日をただ無為にやり過ごすだけ。こんなの、夢を見ているのと何が違うのだろう。
もしかすると俺みたいな人間は、現実を生きるのに向いていないのかもしれない。
仕事が終わった。帰ろう。
帰り道を歩く。手提げ袋の中には、店からくすねてきたサイダーとチョコアイス。
あのメガネのクソブタめ。今月の給料、カットされて十一万円しか残らないじゃないか。
暗い夜道を一人で歩くのは、やっぱり気が滅入る。誰かが隣にいてくれたらいいのに。
着いた。見慣れた、古びた薄茶色のドア。
「ただいま」
シンクには汚れた食器が放置され、部屋の中には腐敗臭が漂っていた。
「洋平、シンクの皿と鍋洗っとけ」
奥の部屋から親父が出てきた。真っ暗な部屋の中で、パソコンの画面だけが白く光っている。
「……うん、分かった」
「今月の金は? 使いたいんだが」
「今月は給料半分引かれたし、まだ振り込まれてないよ」
「じゃあ店長に頼んで前払いしてもらえ……」
親父は机から缶ビールを取ると、喉に流し込みながら吐き捨てた。
「でも……」
「つべこべ言わずにさっさと皿洗え!」
シンクの前に立ち、込み上げてくる名もない怒りを覚えた。
「親父さ、たまにはまともな仕事探したら?」
ガンッ!
「うるせえ!」
片手で壁を支え、もう片方の手で缶ビールをぶつけられて腫れ上がった頭を押さえる。
「いい加減、俺にまとわりつくんじゃねえ!!」
親父は直進するように迫り、丸太のような拳を振り上げた。俺は思わず目を瞑ったが——想像していた痛みが襲ってくることはなかった。
どてんっ!
空を切った親父は、そのまま床に倒れ込んだ。酒臭さを撒き散らしながら、フラフラと起き上がる。
「洋平……お父さんな、ちゃんと頑張るからよ……」
片手を伸ばし、俺の頭を撫でてくる。もう片方の腕で力なく俺を抱きすくめた。身を引こうとしたものの、自分自身の体にまったく力が入らない。
「この仕事が終わったらな、絶対に綺麗ででけえマンションに住ませてやるから。欲しいもんも、やりたいことも、全部叶えてやるからな……いいか?」
突然の態度急変に、俺はあっけに取られてしまった。
「親父……」
身を起こそうとしたが、親父はどうやらそのまま泥酔して眠りこけてしまったらしい。覆いかぶさる体が、まるで巨大な岩のように重い。
一歩一歩、引きずるようにして寝室まで運び、床の上にそっと横たえた。背中を見つめていると、なんだか少しだけ分かった気がした。
俺たち、ただ今よりちょっとだけマシな暮らしがしたいだけなんだ。それのどこが悪いっていうんだよ。
部屋を後にする。
起こさないよう静かにシンクへと戻り、鼻をつまみながら溜まった皿をすべて洗い流した。
真面目に働いて金を稼いでいれば、いつか生活だって良くなるはずだ。
もう遅い。明日も仕事だ。
皿とテーブルの上の食べ残しを片付けると、俺は自分の部屋へと戻った。




